Just be xxx.


 母は昔から唐突だった。
 五歳の頃に父親が他界し、俺を女手一つで育て上げると宣言し、祖父母の意見も無視して実家を飛び出す時も、仕事の都合で転勤すると言い出した時も、全部が前日であった。ひどい時は「今から」と言い始める事も珍しくない。
 突然抱き上げられ、いきなり知らない場所に放り込まれる。気紛れに起こるそれを、「大人の都合」と言う当たり前の免罪符を使って、母は大きく俺を振り回した。
 けれどその反面、母は俺を育てる事に、手を尽くしてくれた。寝る間も惜しんで、働き育て上げてくれた。小学校の授業参観も、運動会。入学式卒業式、全ての門出に母の顔がなかった事は一度もない。それを知っているから、俺には何も文句なんてない。
 ――けれど、流石に顔合わせの前日まで再婚発表を隠しているなんて、いくら何でも酷くないか? 
 俺がそう食事会の後に訴えると、母は一言ごめんと謝った後、
「怖かった」
 と呟いた。反対される事はないと思ったが、俺がどんな顔をするのかが怖かったと、久し振りに母の弱さを見せつけられた。
「湊は嫌でも我慢してくれる。でも、貴方の目は正直だから、向き合うのが怖かったの」
 そう言われてしまったら、何も反論ができない。レストランで恥をかかされた事も、一緒に責めてやろうと思ってなのに、尖らせておいた言葉の針は、どんどん丸く削れて、最後には戦意喪失のお手上げ状態になっていた。
 俺はそんな母に何も言えず、
「反対するわけないじゃん。母さんが幸せになれば、俺は何にも文句ない。母さんの人生は母さんが生きればいい」
 そう伝えると、母は沈めていた視線をゆっくりと持ち上げて、ありがとう、と呟いた。珍しくしおらしい母の疲れた小じわの刻まれた目元に、何となく安心しながら、肯くと、
「あとね、明後日引っ越しだから」
 母は「ありがとう」の流れの、しおらしい声のままにそう宣言してくる。
「明後日、朝から引っ越し屋さん来るから」
「だからさァ! なんでいつもそうなんだよ!」
 ――俺がそう叫んだ一週間前、本当にその二日後に引っ越しを決行し、俺は新しい父親と兄弟の住む一軒家へと転がり込む事になった。
 年頃だからと与えられた六畳の一室には、前の家から引き継いできた勉強机とベッドが配置され、カーテンは新調した。俺はベッドに寝ころぶと、ここ数日の目まぐるしさを振り返った。
 一週間前に母が再婚して、義理の父と義理の兄弟ができたと思えば、突然の顔合わせに呼び出されて、その二日後には引っ越し。
 一年間に行われる行事のすべてが、一気にこの一週間に集約されたようだった。怒って喜んで、不安が来て……いま確かに残っているのは、疲労という文字だけだ。
 とにかく疲れた。感情の動きはもちろんだが、引っ越しの疲労が思ったよりも大きくて、満身創痍という言葉が身に染みている。
 俺は寝返りを打つと、大きく息を天井へと吐き出し、両手足を放り出して、大の字になった。じんわりと疲労が布団へと滲み出ていくのを感じながら、目を閉じて呼吸に集中する。
 膨らんで、萎んで、また膨らんで……を繰り返す肺を意識しながら、嗅ぎ慣れない他人の家の匂いに集中した。
 いつか、この匂いもこの見なれない天井も「当たり前」になるのだろうか。俺は閉じていた目を開いて、白い天井を見上げた。
 前に住んでいた都営団地とは違い、古さやシミのない清潔さが網膜に映える。天井にはめ込まれた照明は、優し気なオレンジ寄りの色で室内を照らしており、その照明の縁には埃なんて一切ない。
 本当に男だけでこの家に住んでいたのだろうか、と疑いたくなる程の清潔感に、俺は眉を潜めた。けれど、全ては今更な話だ。
 もう再婚してしまったし、引っ越してしまったし、俺は義理の息子となってしまった。
 不幸ではない。
 母はこの家に帰る事が嬉しいみたいで、ただいま、と言う声には、以前より張りがあるし、家では笑顔が絶えない。義理の父となった男も、そんな母を見て、穏やかに微笑んでいる。
 目に映る全てには、疑いようのない幸福が、満ち満ちているはずなのに、俺はこれを幸せだと呼ぶことに躊躇いを覚えていた。
 深く考え過ぎだろうか。
 そんなふうに片付けながら、横向きの態勢に変わり、膝を抱えた。布の擦れる音がやけに響くのは、この部屋の天井が高いせいだろうか。
 そんな事をぼんやりと考えていると、コツコツ、と無機質なノック音が部屋に高く響く。思わず上半身を起こして扉の方を見つめ、言葉を躊躇っていると、扉は呆気なく開かれてしまった。
 鍵をかけ忘れた、と思いながら、そこに現れた男――一ノ瀬伊月を見つめる。
「今、いいか?」
 伊月はそう言いながら俺の部屋に入ると、ゆっくりと扉を閉めた。俺の許可など聞く気もないような、当たり前の仕草で、机の前の椅子を引くとそこに腰を下ろす。
 俺は少し身構えながら、もぞもぞとベッドの上で起き上がると、彼と一定の距離を保ちながら、なに? と返した。
 俺の仕草を見て、伊月は冷ややかな視線で俺をなぞりながら、それさ、と背中にふんぞり返るように寄り掛かった。
「感じ悪ィ、いつまで親の再婚で拗ねてンだよ」
「拗ねてねえよ」
 そんな事はない、そう言いながらも、どこか意を突かれたような気がして、羞恥心が込み上げてくる。俺はベッドの上で胡坐をかくと、髪の中に指を埋めて掻いた。
「で、なに?」
「道、家から駅までの道分かるか?」
 言われて、ここに来た初日のことを思い出す。
「ああ、うん。そんな難しい道じゃなかったし、覚えてるけど」
「そんならいい」
 伊月はそれだけ言うと、すぐに席を立ち、部屋を出て行った。俺は無言で閉められた扉を見つめ、遠ざかっていく足音を聞き、ぱたん、と締まる扉の音に耳を澄ませる。
 会った時から思ってたけど、良い奴なのか嫌味な奴なのか、分からない。
 レストランで会った時、俺を嘲笑しながらも、俺の食べ方を否定しなかった。この家に引っ越した時も、拗ねた態度なんて一つもとらず、団欒を好んだ父と母の望みを叶えるように、リビングに留まり続け、誰かの言葉を無視するようなことは一つもしない。今突然不躾に部屋に入って来て、説教でもするのかと思いきや、一応心配をしてくれているような素振りを見せる。
 俺はベッドに倒れ込むと、彼が座っていた椅子を見つめた。
 伊月の事はまだよくわからないけれど、上手くやっていけるだろうか。
 漠然とした不安が胸に靄をかける。
 俺は枕元にあるスマートフォンを手繰り寄せると、暗く閉ざされた画面を開いて、SNSのアイコンをタップする。
 友達とは誰も繋がりのないアカウントを起動させ、俺はそのタイムラインに指を滑らせる。すると、時事ネタや面白ネタに埋もれながら、一枚の写真が流れてきた。
 俺は自然な流れでそれをタップすると、画像を大きくして「うあ」と思わず息を零した。
 映し出されたそれは、てらてらとした脂の乗った肉の塊に、生姜と白髪ねぎの乗せられた豚丼だ。香ばしい香りが今にも漂ってきそうなそれを見つめていると、甘辛いタレの味と、じんわりと滲み出てくる甘い油の味を、脳が思い出し、舌の平にそれを伝達してくる。
「うっまそぉ~……」
 思わず気持ちが零れて落ちていく。
 口の中に唾液が自然と溜り、ごくりそれをと嚥下してから、このアカウントのプロフィールアイコンをタップした。
 プロフィール欄には簡素に「高校生。料理」とだけ書かれ、アイコンは初期の標準アイコンから変わっていない。そんなアイコンの主は「D」という名前を使っていて、性別は不明だ。
 けれど、Dのタイムラインに並ぶ、言葉のない料理の写真たちは、俺に確かな幸福を与えてくれる。どれも愛情込めて丁寧に作られたのだろうと分かる料理たちは、俺に空腹とそれに対する幸福を教えてくれた。
 今俺が空腹であり、それを満たされたがっているという事実。これを食べたら絶対に幸せになれるという確信。それが写真の中に込められている。
 どれも特別な料理じゃない。長ったらしい名前の付けられた上品な代物は一つもない。写真の中の料理たちは、どれも親しみやすい顔で寄り添ってくれるものたちばかりだ。
 いいなぁ、食べたい。俺もこういうのが食べたい。きっと今これを食べたら、幸せになれるに決まってる。
 そんな事を思いながら、写真をスクロールしていく。豚丼、パスタ、カレーにオムライス……。目移りしながら写真を辿っていると、
「湊、ごはんよ」
 ノックが入って言葉だけが部屋に侵入してくる。俺はそれに「はーい」と短く返事をして、スマートフォンの明かりを落とした。
 豚丼が良かったけれど、今はそんこと言えるわけがない。