『今日は夕飯いいや。友達と食べてくる』
何が食べたい? と聞かれるたびに入れるメッセージが辛い。
俺は自分の机に突っ伏しながら、スマートフォンをポケットの中に突っ込むと、上半身を起こして、ペットボトルのアイスティーを半分ぐいぐいと飲み干す。渋みとあ甘味が食道をどかどかと進んでいき、紆余曲折しながら胃に収まっていく。
「湊、飯は?」
「食う気しなーい」
机に上半身を預けながら呟くと、
「俺のメロンパンいる?」
と目の前をコンビニの菓子パンが揺れた。俺はそれをぼんやりと眺めてから、小さく首を横に振る。
あれから食事が美味しくない。お気に入りの店に言って、最高の一品を頼んでも、満足できない。ただカロリーを摂取しているだけの機械になったみたいで、食べる事への意欲がどんどん低くなっている。
「なんでそんなへばってんだよ」
「俺が知りたい」
理由は分かっている。分かっているけれど、自分で納得して、自分で行動しているのだから、言い訳も弱音も吐けない。
不意にまたポケットの中のスマートフォンが震えて、恐る恐る画面を見ると、伊月からのメッセージが入っていた。
俺は無意識に零れる溜息をそのままに、アプリを開いた。
『お前最近外食多くね? なんで?』
なんでと言われましても、貴方を避ける為です――なんて言えるわけもなく、
『俺、案外友達多い方なんで』
と軽口で返して、今度は鞄の中にスマートフォンをしまった。
「伊月と喧嘩?」
「喧嘩する程仲良くない」
「一緒のカマの飯食ってる仲じゃん」
新しく仕入れてきた言葉を使いたがる子供みたいに、大崎が言い放つ。俺は顔を上げて窓の外へと視線を投げる。
窓の外は薄い青の空が広がり、刷毛ですったような薄い筋雲がゆっくりと流れていた。外から聞こえてくる学生の言葉にならない声が響き、その合間を縫うように、車のエンジン音が聞こえてくる。昼練習の吹奏楽部の楽器の名前も分からない、何かの音色が響いてくる。
賑やか過ぎる学校の中にいるのに、俺の心は静かだった。踊り出すような何かがあるわけでもないし、ただ身体の中は無味無臭の無音。
「喧嘩なら長引いたところで、その時間無意味だぞ」
「喧嘩じゃないって」
そう、これは喧嘩ではない。
俺は伊月を、俺と言う余計因子から守りたいだけなのだ。のびのびと好きに料理をしてほしい。彼が作りたいものを作りたいだけ、作って欲しい。そしてまたいつか、Dのアカウントを見る勇気が出たら、遠くから見守らせて欲しい。
ただそれだけなのだ。
かすかに、鞄の中でスマートフォンが振動している音が聞こえる。けれど俺はそれを無視して、また机に身体を預けた。
一人で味気ないファーストフード店で時間を潰してから帰ると、リビングの明かりはもう消されており、僅かに二階の部屋から伊月の気配が感じられた。
ただいまあ、と誰にも聞かれないような声で呟き、リビングに入ると、電気を点けて台所へと向かった。冷蔵庫を開いてミネラルウォーターを取り出すと、コップ一杯それを注いで、ぐいっと一気に飲み干す。冷たい液体が真っ直ぐと、身体の奥底へと落ちていくのが分かった。
ふっと息を吐き出して、ペットボトルをしまい冷蔵庫を締める。ふと昼間のメッセージを思い出して、気持ちが沈んだ。
『なんかいきなり避けられるとわけわかんなくて、ウザいんだけど』
言ってる事はごもっともだと思う。
でも、食事は避けても伊月を避けているつもりはないし、今少しの間は許して欲しい。俺が、正しい距離感を見つけられるまでは。
「おかえり」
ふと声が聞こえて顔を上げると、既に部屋着に着替えている伊月がそこにいた。俺は「ただいま」と少し笑って、近づいてくる彼から視線を逸らす。
伊月は俺をスルーすると、冷蔵庫を開いて俺と同じミネラルウォーターを取り出した。
「何食べてきた?」
「バーガーと、なんか甘いやつ」
甘いやつは適当に付け足した。それだけじゃ腹減らね? なんて言われたら、また甘えてしまう気がして。
「ふぅん」
興味がないのか、それともそれ以外の感情か、分からない声のトーンに、俺はうん、と間を埋めるために頷いた。グラスを手にした伊月が、半分くらい水を注ぐと、
「最近避けるのなんで?」
そう真っ直ぐと問いかけてきた。
伊月は時々、湾曲せずに物事を率直に問いかけてくる。回りくどいやり方が苦手なのか、面倒なのか、問われたこちらは心当たりがある分並行してしまうほかない。
「避けてる、気はないのですけど」
「いや、明らかに避けてんじゃん」
どうやら、一歩も引く気はないという構えのようだ。俺はそれくらい伊月の心を乱しているのだと思うと、申し訳なくなって自然と頭が下がってしまう。
自分のせいで料理に対して「複雑」な思いを抱かせ、俺は一方的な好意を抱き、更には不愉快にさせている。
本当は俺だって伊月の料理が食べたい。でも、このまま甘え続けるのは、伊月へ負担がかかるし、俺がそれに気付かない位の鈍感であれば、自分の気持ちにも気づかず、今もへらへらと伊月に甘え続けていられた。
でも今はそうじゃない。
俺なんかじゃなくて、自分の彼女に作ってあげた方が健全だし、俺よりもずっと充実した日々が送れると思う。
彼女の方が、絶対料理は上手だろうし、一緒にいて楽しいだろう。俺みたいな不器用といたって、伊月に迷惑が掛かるだけだ。
好きな人に迷惑かけたり、何か複雑な思いをさせてまで、俺は彼の優しさに甘える資格はない。
「ごめん、なんか……このままじゃ、伊月に迷惑かけると思って……」
「迷惑ってなに? 俺そんなこと言った事ないけど」
「でも、甘え続けるのは違うよなって思ったんだ」
いつか、俺の気持ちも邪魔になってしまう。
芽生えかけの芽は、早々に摘んでしまった方が良いに決まっている。そして、もうそこから何も育たなくなるまで、待たなければならない。――こんな事は、伊月に絶対言えないけど。
素直に気持ちを吐露する訳にもいかず、半ば押し切るように声を強くして言い切ると、伊月はシンクの中に一口もくちをつけないままのグラスを置き残して、
「わかった」
と、台所を出て行ってしまった。
ゆっくりと階段を上がって行く音が聞こえる。俺はいつの間にか詰めていた呼吸を解放し、深く息を吐き出すと、ゆっくりと深く息を吸い込んだ。
これでいい、これが良かったんだ。
そう言い聞かせるように、俺はもう一杯水を汲み、一気にそれを流し込んだ。
やるせなさも、嘘も、悲しさも、好きという気持ちも。
「偶にはふたりでご飯でもいかない?」
身勝手な母親に誘われたのは、当日の昼頃だった。突然メッセージが飛んできたかと思えば、お伺いを立てられることもなく、次には「ここに六時ね」と指定されたカフェレストランのアドレスが飛んできており、やっぱりこの人は勝手な人だなと、ため息が零れる。
別にもう慣れてはいるから、何か不満に思う事はないけれど、こんな人と結婚した伊月の父親は物好きなんだなと、感心さえしてしまう。
昼に食べ損ねたメロンパンを齧りながら、俺は今夜の行先を確認した。学校の駅から三駅ほど離れた場所にある、隠れ家イタリアンと称されたそこは、昼間は小さなオープンカフェテリアで、夕方六時からはお酒の提供も始まる。母と二人で暮らしている頃、何度か夕飯目的に訪れた事がある店でもあった。
自家製のパスタがもちもちしていて、特にそこのクリーム系のパスタが、濃厚でもったりとしているので、濃い目の味が好きな俺のお気に入りでもある。
「お、なんか旨そうなの見てる」
スマートフォンを覗き込まれて、俺はそのサイトを大崎に店ながら、
「うん、母親に誘われてさ。ここのパスタめちゃくちゃうめーの」
「マジで? デートのとき参考にする」
「まず彼女作ってから言えよなー」
そう笑ってやると、ハラスメントです、と訴えられた。
「そう言えば、伊月との喧嘩は終わったのか?」
何気なく振られた話に、思わず口元がひくりと反応してしまう。俺はそれをなんとか曖昧な言葉で濁しながら、
「ぼちぼちかな」
と短く片付けた。
――あの後、俺達の関係がうまくいくなんてあるわけがなかった。お互い気まずさから、家でもなるべく顔を合わせないよう努めているし、向こうは自分一人分の料理を作ることはあれど、あれ以降勿論声もかけてもらえない。
俺だって出来合い弁当に逆戻りだ。
大崎は「ふーん」と、素っ気ない言葉を使いながらも、何かに気付いているような雰囲気頷く。しかし、それ以上の詮索はしてこなかった。
「ま、いろいろあるもんな~」
「そ、色々あるんだよ~、いろいろ」
俺はそう呟きながら机に上半身を預けた。
今朝俺に目もくれず、「はよ」と言う言葉だけを残して家を出て行った伊月の横顔が、脳裏に浮かんでは、遠く俺の知らない記憶の引き出しへと消えていった。
「ごめん、今日行けなくなった。急な仕事入っちゃって」
母から電話が入ったのは、ちょうど店の前に着いた十八時五分前。店内はまだ夜の時間の営業が始まったばかりというところで、席は空白が目立っている。
「今店の前なんだけど」
「ほんとごめん!」
電話の向こう側ですまなそうに声を落とす母の雰囲気に、俺は喉まで出かかった文句を嚥下して、ため息を吐いた。――仕事なんだから仕方ない。
定番化している免罪符を用いて、自分を納得させると、
「分かった。仕事頑張ってね」
そう自身に言い聞かせるように呟く。すると、電話の向こう側でほうっと大きく息を吐く音が聞こえた。安堵の溜息の後に「次こそは、守るから」
と、これも定番化している約束を呟く。
俺はそれを聞きながら、店の掲げる看板や、天気もいいのでオープンテラスで晩酌の一杯目を嗜む大人を眺めた。
別に、子どもと大人の事情なんてそれぞれ違うし、母親と飯が食えないことで悲しむなんて気持ちはもうずっと幼い頃に捨ててしまった。
けれど、約束ってそんな軽いもの? 一緒にご飯を食べる事って、そんな軽い約束だったか?
「母さんさぁ、できねー約束なら口にしない方がいいよ」
「え」
電話の向こう側で声が凍るのが分かった。
でも、幼い頃からご飯を一人で食べてきた自分を思い出すと、言葉が止まりそうになかった。
伊月との温かいご飯を知ってしまったから。
「俺別に、大人の事情で約束破られる事に対して今更怒ったりしない。それぞれ事情あるの知ってる。でもそうやって、小さい約束ずっと破ってきて、また次も約束してもらえるなんて、簡単に思わないでよ。誰かと飯食うって、俺にとっては大事だったんだから」
上手く言葉にできた気がしないけれど、無言になっている母に、少しは俺の言い分が届いただろうか。店の目の前にある通りを流れていく車を眺めてから、夕焼けでほんのりとオレンジ色に染まる空を眺めた。雲の陰影が灰色を帯び、ゆっくりと溶けるように消えていく。
「ごめんなさい、寂しい思いさせて」
「子どもの頃の話だけどね、まあ、今日は仕方ないよ。仕事頑張ってね」
俺は努めて声を明るく振り撒きながら、通話の終了ボタンを押した。振り返って店を見上げ、少しだけすっきりした気持ちで、俺は帰路に着いた。
このまま店に入ってカルボナーラだけを食べて帰る事も考えたが、――次、母と約束した時にしようと素直に思えた。
いつも通り、駅前のコンビニで夕飯のオムライスを購入して帰ると、家の中は静まり返っていた。玄関を見ても、誰かが帰ったような形跡はない。この分だと、伊月もどこかで夕飯を済ませてくるのだろう。
俺はリビングに寄る事もなく、部屋に直行すると、机に買って来たコンビニの袋をがさりと置いて、制服から私服へと着替える。
椅子に座ると袋からオムライスと、ついでに買ったアメリカンドッグ、コーラを取り出した。ビニールを剥いでから、スマートフォンを起動させて、動画を流す。
特に観たいものもないから、適当にお勧めを流しながら、部屋に沈殿する空白を掻き混ぜた。
少し冷めかけたオムライスの卵は硬かった。本当はふわふわとろとろの卵が好きだけど、レンジで温め過ぎたのか、俺の理想からは程遠い代物となってしまった。
不味くはないけど、美味しくもない。
腹を満たせればそれでいい、と割り切ったような味がする。俺はそれでも声に出して「うまー」なんて呟いて、気持ちを逸らす。
伊月のオムライス、食べ……。
「これも結構うめーな」
なんて。無理矢理意識を逸らしながら、それを頬張った。アメリカンドッグにケチャップとマスタードを付けて噛り付き、コーラで流し込むという雑な食べ方をする。
スマートフォンの小さな画面の中で、名前も知らない誰かが大袈裟に笑い転げていた。何が面白いのか分からないけれど、ははっと声に出して笑ってみる。
そうでもしないと、伊月の味を覚えてしまっている舌が、今にも文句を言い出して来そうで怖い。
オムライスを掻きこむように食べ終えると、アメリカンドッグも頬張り、一気に胃の中が満たされる。俺は食べたものを袋の中に乱暴に投げ捨てると、スマートフォンを片手にベッドに寝転んだ。
食った。腹いっぱい食えた。
満たされた腹を撫でながら、俺は肺一杯に吸い込んだ息をゆっくりと長く、吐き出した。
口の中に残るケチャップの尖った酸味が、舌をひりひりさせた。
伊月のオムライスはもっと、甘みがあって美味しいのに。
油断していたところに出て来た文句に、どきりとする。俺は頭を振って息を止めながら、布団に顔を押し付けた。
……伊月は、今日何食べたんだろう。
不意にそんな疑問が湧いて来て、指先がゆっくりと動いてしまう。
動画を止めて、SNSのアプリをタップしたところで、大崎のツイートが目に飛び込んできた。
『買ってよかった。勢いもあったけど、考えるより飛びついて良かった!』
その言葉と一緒に添えられている先日買ったフィギュアの写真が目に入る。
俺にはよくわからないけれど、彼の中では何よりも大事らしい、猿と兎が融合された未知の生き物のフィギュア。俺はその写真と大崎のコメントをじっと見つめてから、検索ボタンを押した。
もう指が覚えてしまっているアカウント名を、ゆっくりと入力していく。
心臓がとくとくと脈打ち、身体の中を誰かに支配されてしまっているような感覚がする。けれど、指先は明確に、そして正しく、ただ一人を求めて、その暗号を入力している。
入力途中で検索に引っ掛かってきたDのアカウント名に、大きく心臓が弾む。
俺は起き上がるとその名前をじっと見つめた。
震える指先でタップすれば、画面がぱっと見なれたプロフィール欄を映し出す。
男子高校生・料理。
簡素なプロフィールと素っ気ない真っ白のアイコン。
何か更新されていても嫌だし、何か更新されていなくても嫌だ。矛盾した気持ちがせめぎ合う中、俺は親指で画面を滑らせる。
画像はあのビーフシチューが最後だった。
今まで俺がいる日でも、彼は台所に立って、料理を作っていたのに……。
悲しみで心が濡れていく。自分なんかのせいで、伊月に迷惑かけている、それが堪らなかった。
けれど、その後一つだけ更新がある事に気付いた。それは写真もなく、言葉だけだった。
『食べてほしい相手がいなきゃ、寂しいんだって知った。自分の為に作っていたはずなのに、好きな奴の為に、いつの間にか作ってた』
その言葉を一回では理解できず、二回三回と読み込んで、俺は胸に詰まるものを感じた。
伊月と初めて出会った時から、今までの彼の表情や、彼が用意してくれた手料理のワンシーン一つひとつが、ゆっくりと頭の中を巡り出す。
俺、伊月の傍にいてよかったのかな。
そんな気持ちが湧いて来て、指先が勝手に動き出す。
リプライのボタンを押して、文字を打ち込む。
『また食べたい。いっしょに、食べたい』
一緒に居たい。
喉の奥がつん、と苦しくなって、目の奥が熱くなり、泣くものかと天井を仰ぎ見る。
また一緒に伊月のご飯が食べたい。彼の傍で笑って過ごしたい、できることなら、長く伊月のそばに居たい。
不意に手の中のスマートフォンが震え出す。
見れば先程のリプライに「いいね」のマークがD本人から届いていた。驚いて目を瞬かせると、またスマートフォンが震え出す。
今度はSNSのアカウントからではなく、電話だった。唇が僅かに震えて、怖いという思いと、早く声が聞きたいという気持ちがせめぎ合う。
俺は少し指先を画面の傍でさ迷わせてから、四回目のコールで通話ボタンを押した。ゆっくりと耳にそれを押し当てると、
「湊」
久し振りに自分を呼ぶ声が聞こえた。
久し振りと言っても、たったの数日ぶりなのだけど、長らく呼ばれていない気がして、その声が自棄に胸に染みて、目に涙が滲む。
名前を呼ばれただけで嬉しいのに、俺は一体何をしていたのだろう。
「あのアカウント、知ってたのか?」
「ごめんなさい」
それ以外を口にしたら、涙声になりそうで、俺は固く唇を横に引き結んだ。
「……何食べたい?」
少し間を置いてから、伊月がいつもの声のトーンでそう言う。俺は今まで振舞ってもらった食事を思い出す。どれも美味しかった。どれも丁寧で、伊月の愛情が籠っていた。
「伊月と一緒に食べる、伊月のごはんなら、なんでもいい……っ」
「……すぐ帰るから待ってろ」
伊月の背後からざわざわと街の喧騒が聞こえていた。どのくらいで帰ってくるのかは分からない。けれど、自分の傍に帰って来てくれるのだと思うと、それだけで安心できたし、ずっと詰めていた想いを半分吐露出来て、胸の奥が温かい。
俺、伊月に会ったらどんな顔すればいいんだろう。
いつもみたいにおなかすいたって言えばいい?
俺はベッドに倒れ込むと、枕に顔を埋めて、息を止めた。
乱暴に扉の鍵を回す音が聞こえて、心臓が跳ねるみたいに飛び起きると、俺は部屋を出て階段を下りた。
「湊」
どれだけ急いで帰ってきたのかは分からないけど、息を切らしている辺り、駅から走ってきたのだろうと予想はできた。
「おかえりなさい」
いつき。
そう名前を呼ぼうとした瞬間、靴を脱ぎ捨てた伊月に手を引かれて、そのまま抱き寄せられると、俺が発するはずの言葉を食べられた。
熱い唇が、吸い付くように重なる。
瞬きすら忘れて、ぼんやりと閉じた伊月の白い瞼を見つめていると、ゆっくりと薄い皮膚の唇が離れていく。
「目、閉じろよ」
「え、あ……」
指摘されて、ごめん、と謝ろうとすると、再度唇を奪われた。――目、閉じろよ。伊月の言葉が耳に木霊して、俺はゆっくり目を閉じると、その背中に手を回す。伊月の腕も、しっかりと俺の腰を支えると、きつく身体を抱きしめてくる。
ゆっくりと唇が離れると、まだ触れ合えそうな至近距離で、
「湊、好きだよ」
そう言われた。身体の中がじわりと熱くなり、その言葉に眩暈が起こりそうだ。
「好き」
繰り返し言われて、また軽いキスをされる。ちゅっと音を立てて離れた唇が、頬や額にもキスを与える。
「か、彼女は……」
「とっくに別れてる。俺のアカウント見てりゃ誰が好きか分かんだろ」
「わかんないよ。それに、料理を作ることだけが好きだったのに、今は複雑って……俺がなんかしたのかって思って」
言うつもりのなかったことまで言葉にしてしまい、はっとして顔を上げると、伊月は少し眉根を寄せて何かを考える。やがて一度首を傾げてから「ああ」と何かに思い当ったように頷いた。
それからまたぐっと顔を近づけて、至近距離から俺を見つめてくる。
「お前の為に作ってる感がでかいから、そういう気持ち慣れてなくてよくわかんねーって、言いたかっただけ、なんか勘違いさせたか?」
そう言いながら、三度目のキスをされた。
「俺今まで飯食ってくれる人いなかったし、だから湊にそういう幸せ? 教えてもらって……最初はそういうの俺の中にはなかったから、ちょっと驚いたっていうか……」
上手く伝えられないと言いたげに、懸命に言葉にしてくれる伊月に、胸の奥が締め付けられる。
俺が何か伊月を邪魔していたわけではないし、伊月は伊月で、新しい感情に戸惑っていただけなのだと分かると、心の底からほっとした。力抜けて、思わず伊月へと、抱き寄せられるまま身体を預ける。
「よかった……」
「悪いふうに捉えた?」
「うん」
優しく指先が後頭部の髪を梳く。俺はそれにうっとりしながら、顔を上げた。
「お前が急に避けてくるから、すげえ焦った。マジでキレそうなくらいだった」
「ごめん」
「もういい、全部許す。お前がここにいるなら」
そう言いながら絡みついた視線は離される事なく、真っ直ぐと俺に突き刺さった。
「湊」
呼ばれて俺は伊月の身体を抱きしめた。肩口に顔を埋めて、肺一杯に彼の香りを吸い込む。
素直にならなきゃ、全部見せてくれた伊月と同じくらい。素直になって、全部見せたい。
「好き、伊月のことが好き」
自然と言葉が零れ落ちた。
伊月の腕がきつく俺を抱きしめる。その力の強さに、涙が出そうだった。
「一緒に飯食おう」
「うん」



