その日、伊月が帰ってきたのは十時を回った頃だった。自室に籠っていた俺は、階段を昇ってくる足音を聞きながら、部屋から出るか出ないかを考えていると、自然と扉にノックが入り、俺の気持ちなんて汁知らず、と言ったふうに、
「飯食った?」
 と伊月が顔を覗かせた。
「食べた」
「そ、わかった」
 短い会話でその日は終わってしまい、その後彼女と何を食べたなど聞く事ができなくなってしまった。何事もなかったかのように朝を迎えれば、いつも通りの伊月が、俺よりも早い時間にリビングで朝食を摂っていた。目玉焼きトーストが、もちろんのように、俺の分も用意されている。
「今日夕飯何にする?」
 天気予報から視線を逸らさず、伊月が聞いてくる。俺は彼が何を考えているのか分からなくて、言葉に迷ってしまった。昨日のことをこちらから聞いてもいいのか、それともなかった事にしなければならないのか。今日の夕飯のことを聞かれているのに、頭が正常に働かない。
「ビーフシチューにすっか」
「食べる」
 条件反射のように、脳で言葉を処理する前に欲求が前のめりに口から零れた。そこでようやく伊月の視線がこちらに流れてくると、視線がゆっくりと重なった。
 伊月は薄く笑みを浮かべて、
「分かった」
 と頷いた。
「帰り一緒に買い物行こーぜ」
「いいけど、どこ待ち合わせ?」
「お前の学校でいい」
「駅前の方が楽じゃね?」
「湊の学校行ってみたい」
 俺の高校? 伊月の申し出に首を傾げるけれど、彼はすでにテレビへと視線を戻しており、どうして? とは何となく聞けなくなってしまった。
俺の通う高校は、特に偏差値が高いと言う訳でもない、普通の公立校であり、注目されるようなものは一切ない。
俺はかりっと焼けたトーストに噛り付いた。ぷりっとする良く焼かれた白身と、バターと食パンの持つ甘い香りが口の中に広がっていく。
「じゃあついたら連絡して」
「分かった」
 ただの気紛れかな、と思うことにして、自身の中で話を片付けると、とろりとトーストから流れ落ちそうな黄身の部分を慌てて口に押し込んだ。



「学校の前に、イケメンがいるらしい」
 そんな話が聞こえてきたのは、ホームルームが始まる三分ほど前のことだった。
 そして、どこの少女漫画設定だよ、と大崎と苦笑いを浮かべながら、飲みかけのお茶を口に含んだ時――制服のポケットの中のスマートフォンが震えた。まさかと思って慌ててそれを取り出すと、画面にはメッセージが短く『ついた』と、表示されている。俺は顔を上げて、教室の窓へと目をやった。しかし、ここから校門までは直線距離ではないので、一体どこに着いたのかが分からない。
『どこ?』
『校門の前。友達の妹ちゃんが話相手になってくれている』
 噂の原因はそこからか。
「伊月がいるみたい」
 思わずそう零すと、大崎がはあ? と目を丸くして、こちらを凝視して来た。
「いやいや、マジで少女漫画設定だな、伊月」
「今友達の妹がこの高校らしくて、喋ってるって」
「噂はそっからか」
 確かに伊月は顔が良いし、イケメンと噂されていいような外見をしているけれど、それでも「校門でイケメンが誰かを待っている」なんて設定は、漫画以外でお目に掛かれるとは、誰も予想はできないだろう。
『伊月、校門でイケメンが誰かを待ち伏せしてるって噂が流れてるよ』
 俺はおかしくてにやけそうになる口元を隠しながら、伊月にメッセージを飛ばした。すぐに既読が付いて、
『少女漫画じゃん、うける』
 と爆笑している絵文字と一緒に返信がきた。
『でも、恥ずかしいから早く来て。一緒に動画撮ろうってすげー言われててめんどくせえから早く来て』
 俺は思わず笑ってしまうと、大崎がちらりと視線を向けてくる。しかし、教室に入ってきた教師の声に、彼は何も言うことなく俺に背を向けた。
 明日の予定を軽く話した後、期末の予定が発表され、短いホームルームは五分と経たずに終了した。
「じゃあな、大崎」
「おー、またなー」
 教師が教室を出るより先に、急いで廊下に飛び出して、昇降口へと急ぐ。教室から吐き出されてくる生徒の波を上手く避けながら廊下を渡り、階段を一段抜かしで駆け下りると、玄関で靴を履き替え、校舎を出る。既に部活用の運動服に着替えた生徒や帰路に着く制服姿の人を追い抜かしながら校門に急ぐと、三人の女の子に囲まれている、この学校の制服ではない男子が目についた。
「伊月!」
 走りながらその名前を呼ぶと、彼はすぐに顔を上げて、緩く手を振った。彼につられるようにして、こちらに顔を向けてくる女の子たちは、明らかに一軍女子の風格がある、可愛い女の子たちだった。一日学校で過ごしたにも関わらず、髪の毛はセットしたばかりのように美しく巻かれ、アイラインで縁取った大きな目も、プルッとした唇も、全てが完璧だ。伊月の隣に居ても申し分ない――伊月の彼女のような女の子達。
「湊、おせーよ。帰ろ」
「えー、先輩遊びに行こうよ」
「えー、やだー、おうち帰る」
 伊月は当たり障りない笑顔を浮かべながら、極めて軽い口調で女の子たちの申し出を、ひらりと断った。女の子たちはめげずに、
「私もやだー」
 なんて言いながら、伊月の腕を引っ張る。
 胸の内がもやっと、灰色の煙が立ち込める。何となく、イヤ。でも、そんなこと言う権利も、不満ですという顔をする権利もないのは分かっていたので、俺はただただ部外者である事を自覚している笑顔で二人を見守った。
「はいはい、離してねー、ばいばーい」
 やんわりと腕に絡む手を解いて、伊月はひらりと手を振って駅方向へと歩き出す。俺はそんな伊月に少し遅れて、彼の後に続いた。
「良かったの?」
「なにが?」
「あの子たち」
「いや、誰よあの子って感じ。一回しか顔合わせた事ねーし」
「親しそうにしてたけど」
「空気悪くしてもめんどくせえだけ。あんなん、ただのノリです」
 意外とさっぱりと切り捨てる伊月の言葉に、少しだけほっとしている自分がいるのを、自身で咎めながらも、
「ビジュいいもんね」
 と、声が弾んでしまうし、口角が上がってしまう。自分を優先してくれた伊月に、胸の奥がじんわりと温かくなっていく。胸でバターが溶けるみたいに。
「それな」
「少しは謙遜しろよ」
 そう突っ込みながら肩を軽く叩くと、伊月が少しだけ笑った。そのふわりと自然に湧き上がってくる伊月の薄い笑みが、俺は好きだ。
「なあ、昨日の事なんだけどさ」
 何の前触れもなく蒸し返されて、一瞬にして身体が硬直して身構えてしまう。
 何かあったのかと聞く事も出来ないし、朝何事もなかったようにするから、この話は流れるのかと思っていた分、心がさっと分厚い城壁を作るのが分った。
「約束守れなかったの、ごめん」
「いや、全然。伊月にだって予定あるの分かるし」
 謝られる事じゃない。むしろ夕飯を作ってもらって迷惑をかけているのはこっちの方なのだ。ただの一日、作らなかった事に文句なんかあるわけない。
 俺は伊月の沈んだ声音に、慌てて明るく振舞いながら首を横に振った。
「義務じゃないんだから」
「……俺が嫌なんだよ」
「なんで?」
「……お前との飯の時間、好きだから?」
 少し考えるような間を取ってから、伊月がさらりと、けれど最後は恥ずかしさを隠すように「?」を添えて、こちらに視線を投げてくる。今度はそっちが何か言う番ですけど? みたいな眼差しを向けられて、うまく言葉にならない声が、とろりと喉の奥で溶けて、そのまま腹の奥へと溜まっていく。
「えっと……、俺も好きだけど」
 嘘は言ってない。――嘘はいってないけれど、本当の事は言ってない、そんな気持ちにかられる。
「だから、俺は昨日も一緒に食いたかった」
「……うん、わかった」
「まあ、過ぎた事なんで、今更って感じなんだけどさ」
「今更かもしれないけど、……そう言って貰えて俺は嬉しい」
 通学路のせいで人が多いから、他人が俺達の会話に耳を澄ませていないか、少し不安に思いながらも、俺は伊月の気持ちに応えたくて、素直に気持ちを口にした。自分だけ何もかも曖昧にして、肯くだけなんてしたくはなかったし、許されるなら、少しでも気持ちを知って欲しい。
 ひと欠片でも。
「そ、すか。ふぅん」
 伊月の視線が迷子になる。俺は彼の癖を思い出しながら、にやけてしまいそうになる唇を少し噛んで、それを堪えた。
「おい、何笑ってんだよ」
 軽く後頭部を叩かれて、俺は堪え切れずに笑い出してしまう。眉間に皺を寄せていた伊月だったけど、すぐに表情を崩すと、諦めるように表情をやんわりと崩した。
 俺はその笑顔を好きだと思う。
 その笑顔にはっきりと惹かれていると、自覚していた。



 台所に並ぶと、ピーラーを持たされ、野菜の皮むきを命じられた。さすがにそれならば怪我はしないだろうと言われて、期待に応えるべく、流水で洗ったジャガイモやニンジンの皮にピーラーの刃を当てて滑らせていく。思いのほかするすると薄い皮は簡単に剥けていくので、まるで自分が料理上手になったのではないかと錯覚してしまう。それくらい、薄く、丁寧に俺の不器用さに反して、皮は剥けていく。感動だ。俺が野菜の皮むきをしている。
「さすがにこれで怪我したら引くわー」
「しねえし! 見ろよ、この薄皮」
 長く剥けた人参皮を摘まみ上げると、
「誰でもできるんだ、それ」
 と憐れむような視線を向けられた。
「気分台無し!」
「ピーラーで上がる、やっすいテンションでしょ」
「失礼極まりねーな、謝罪を要求します~」
「あっははは、すみませんね」
 わらってんじゃねーか。
 下らないやり取りだと思いながらも、終わりが見えなくてどちらかが笑うまで続いてしまう。
 俺がピーラーで剥き終えた野菜をひと口大に切り分けてから、鍋を熱し、油を引いて肉を投入する。
「牛肉!」
「ビーフシチューなんでね。ま、俺の金じゃねーけど」
 じゅわっと肉の焼ける脂の匂いが立ち、舌の付け根がきゅっと締まった。唾液が分泌されて、空腹を刺激してくる。
 肉を焼き、ある程度火が通ったところで野菜をごろごろと投入して合わせ炒めると、油の跳ねも落ち着いて、じゅわじゅわと音が籠り始める。俺は昇る湯気に顔を近づけると、野菜と肉の匂いで、肺を一杯にする。美味しい匂いだ。
「こういうのってなんかいいね」
 並んで料理作るのも、できていく過程を見守るのも、全てが今までの生活じゃ得る事の出来なかった幸せだ。ずっと憧れていたけれど、諦めていた幸せの形がここにある。
「ん、なんかいいよな」
 そっと寄り添うみたいに。俺の二の腕に伊月の二の腕が寄り添う。ワイシャツ越しに体温が行き交うと、それだけで脈が速くなってしまうのが、止められない。
 こんな距離、おかしいのにと分かっていながら、半歩横にずれて、離れる事ができない。それをしたくないと思っている自分がいて、その気持ちに逆らえない。
 俺は気付かないふりをしたまま、じっと鍋を見つめた。伊月も離れる気はないように、触れ合っている事を無視し続ける。
「湊、水汲んで。この計量カップ二杯分な」
 伊月の指示に従い離れると、指定された計量カップ丁度二杯分を鍋に注ぐ。十分に熱くなった鍋底が水を受け入れると、じゅわわっと水の弾ける音が聞こえ、次第にそれは治まって、ことことと静かに揺れる。
「こっからは俺がやるから、湊着替えて来なよ」
「わかった、じゃあお先に」
 俺はそれに甘える事にして部屋に戻ると、普段着にしているデニムとパーカーに着替えた。制服が皺にならない内にハンガーにかけてから、ベッドに座り、そのまま背後から倒れ込む。浅く身体が跳ねて、ぼんやりと天井を見つめていると、触れ合っていた二の腕へと、自然と手が伸びた。
 まだ、伊月の感覚が残っている。
 そんな気がして、ゆっくりと摩るけれど、当たり前だが、そこに伊月の腕はない。あるのは忘れることを拒否している俺の神経だけだ。
 俺は枕元に投げ置いたスマートフォンを手繰り寄せて、SNSを開いた。
 目当てのDのアカウントに飛び、そのタイムラインを確認する。新しい投稿が二件あった。
 それは彼にしては珍しい外食の写真だった。おそらく、彼女と一緒に摂った夕飯だ。大きなパティの挟まったハンバーガーの向こう側に、ちらりと見かけた髪の長い伊月の彼女の首から下が、映り込んでいる。
 分厚いバーガーに、皮つきのポテトと大きなグラスのコーラ。アメリカンダイナーを思わせるボリュームに少し圧倒されながら、俺はそれでも目についてしまう女の子の存在に、拡大した画像を小さくする。
『気になってたし、絶対美味いはずなのに』
 画像に添えられていた言葉に、俺は伊月が何を考えているのかは分からないけれど、少なくともこの日の夕飯は、俺と同じように味気なかったのかもしれないと思えた。
 でも、その同じ気持ちを、俺は嬉しいとは思えなかった。ただ、少しだけ心の表面を削る位には、それは俺を傷つけて、小さいささくれみたいに痛かった。
 俺はゆっくりと指先でタイムラインをスクロールすると、細心の投稿を見つける。今日の夕方の投稿だったそれに、画像は添付されていない。
『料理を作る事だけが好きだったのに、今は複雑だ。』
 ただそう、短い文章が投稿されていた。
 その言葉に一瞬時間が止まる気がした。
 さあっと頭の天辺から血が落ちて流れ出てしまったのではないかと錯覚するほど、くらりと眩暈さえ起った。
 複雑とは、どういう事だろう。どうして、複雑になってしまったのだろう。
 彼の中で何かが起こったのだろうかと伺える文章に、俺は冷えていく指先で過去のタイムラインを遡った。
 複雑ってどういう意味だろう。料理に対して何かあったのだろうか。それとも別の事だろうか。
または誰かに作るということに対して、嫌気が出てきただろうか。俺が出しゃばったりしたから、伊月の日常が崩れたのだろうか。
 Dの連ねている投稿を遡りながら、何が複雑と感じられるような部分を探す。
けれど、その「複雑」という事は、明らかに俺と出会って以降の事でしかないのが分かる。
Dはプライベートな事は俺と出会う前は、一切公開してなかったのだ。
 ただ淡々と料理写真だけを投稿し続ける、フォローもフォロワーも一桁の、ごく少数料理アカウントで、タグも使わないから、誰の目にも止まらない。
 そんなDのアカウントを、俺が見つけたのも偶然だった。
 たまたま好きな料理人のいいね欄を漁っていた時に見つけたのが最初だった。その時『煮物ってむずかしい』と一言付け加えられていて、恐らくそれが検索に引っ掛かったのだろう。いいねの数がその一枚だけは他の投稿を差し置いて、一番多かった。だから俺の好きな料理人の目にもとまったのだろう。
けれど、それ以降言葉を乗せる事はなくなったから、反応されるのが嫌だったのかもしれない。
 それ以降は写真のみの投稿が目立つようになり、Dは周りを閉ざすようになった。鍵垢にしないのが唯一の救いだった。
 俺は一年程前の記憶を蘇らせながら、Dの記録を辿る。俺以外のきっかけはないだろうか。――すると、
「湊、俺も着替えたいから変わってー」
 現実へ引き戻すように、伊月の声が聞こえて、思わずスマホを手から落とす。ベッドの布団に沈み込んだそれをそのままにして、俺は慌てて部屋を出る。
「ごめん、おまたせ」
 階段を急いで降りて台所に入ると、伊月はこちらへと顔を上げた。
「悪いけど、焦げないようにかき混ぜてて」
 そう言う伊月と場所を交代し、おたまを預かる。くつくつと煮えているチョコレート色のビーフシチュー覗き込むと、香ばしい中に微かにトマトの酸味のようなほのかな香りが広がっている。
「あ、かき混ぜられる?」
「ばかにすんな」
 軽く伊月の脹脛を蹴って、部屋に戻る彼を見送ると、俺は上がってくる気泡を潰すように、下から掬い上げるように、おたまで煮えるその中をかき混ぜる。
 俺は伊月の最期の呟きのことを考えながら、ぐるぐると煮詰まる中でおたまを回した。
 俺がもし、彼の日常を乱してしまったなら。
確かに伊月は人にご飯を作ることを喜んでくれていたけれど、それがもし途中から苦しいことなのだと感じ始めてしまっていたら――そう思うと、ずきりと胸がひどく軋む。
 自分のせいで大好きな彼の料理が、複雑な事になってしまうなんてあってはならない。
 初めて伊月が言ってくれた、
「食ってみる?」
 と言う何気ない一言が、鼓膜の傍で蘇っては消えていく。
 ――嬉しかった。すごく、嬉しかった。
 だからこそ、甘え続けてはいけないのかもしれない。
 そんな焦りが胸に蟠る。
「湊、さんきゅ」
 そう言いながら戻ってきた伊月と場所を交代して、俺は白い深皿を用意した。内心の動揺を悟られないように、いつも通りを意識して、慎重に。
「本当はも少し煮込んだ方が良いけど、腹減ったし食うか」
「やった」
 深皿にとろりと注がれるビーフシチューに合わせて、スライスしたバケットをトースターで軽く焼く。
 俺の笑顔、引き攣ってないよな……?
「そういや、伊月サラダとか作らないね」
 ふと思い立ち、空白が怖くて彼を見やると、
「野菜嫌い」
 と子どものような意見が返ってきた。
「俺は栄養についての知識とか全然ないし、そこら辺は専門外。栄養バランスは各自で」
 彼らしいなんともざっくばらんな返答に、はーい、と返事をして、焼けたバケットを皿に盛りつけダイニングテーブルに運ぶ。
 伊月の運んできたビーフシチューがテーブルに鎮座すると、白い湯気がほわりと立つ。俺はそれに手を合わせると、スプーンを手に取り、ひと口食べた。
 しっかりと深みのあるコクに、僅かなトマトのような軽い酸味。野菜や肉から出た甘味が、複雑に絡み合い、舌の上で解けていく。
 それと同時に、不安な気持ちも解けてしまうから、伊月の料理は怖いくらい俺を素直にさせるな、と改めて自覚する。
「おいしい……」
「しみじみ出たな~……、よかった」
 伊月は笑いながらスプーンで肉を掬い上げて食べる。俺は焼いたバケットを千切って、ビーフシチューに浸して食べる。角の解けた柔らかな生地が十分に水分を吸い込み、とろける。
「肉が意外と柔らかい」
「ほんと? パンも合わせるの最高」
「これさ、チーズのっけて焼いたパンならもっとうめーかも」
「あ、それすごいいかも!」
 俺達は食事中に席を立つと、切り分けたバケットの上にチーズを散らし焼いてから、席に戻る。
「見るからに美味しい。優勝」
 俺はスプーンでビーフシチューを掬ってチーズの蕩けた部分に掛けると、じっくりと冷ましてから頬張った。かりっと焼けた部分が音を立てる。
 口の中でチーズのとろりとしたミルキーな味わいが、濃いビーフシチューに合わさって、美味しい。ここ最近で、一番美味しいかもしれない。
「うま、最高」
「うん、すげーうまい」
 視線を上げると、向かい合う伊月と眼が合った。最初は無表情に見つめ返すだけの眼差しが、今は俺を見つけて優しく笑みの形を取る。
 それが嬉しくて、その反面やるせなくて。ずっとこの笑顔を自分に向けて欲しいと思うけれど、この笑顔を崩してしまいたくないと、それ以上に思う。
 もう甘え過ぎたりしない。
 彼女の前であんな顔をさせない。あれは俺に向けるような顔じゃない。
 本当の兄弟でもないし、友達でもないけれど、俺達には俺達の正しい距離感っていうものがあるはずなのだ。
「……ほんとおいしー」
 俺はゆっくりと時間をかけて、その一杯を食べ尽くした。でも、離れる時間を惜しむように、結局二人で鍋を空にした。親にも取っておいてやろう、なんて慈悲は途中で消えていた。
食べ終わった後は伊月に風呂を入れて、俺はその二番目に湯に浸かる。
 この当たり前になりそうだった日々も、一度崩さなければならない。そう思うと、今日と言う日がずっと続けばいいのにと強く思う。
 風呂から上がって、日課になっているDのSNSを覗けば、ちょうど五分前に投稿された新着が表示された。
 もちろん、ビーフシチューの写真付きで。
『食べている姿が好きだ。』
 そう添えられている言葉に、胸の奥が震えた。
 ――ごちそうさまでした。
 俺は個人用のSNSアカウントをそのまますべて削除した。