ふわふわとろとろのオムライス。
ふっくらとした山なりのチキンライスを包み込む、卵の薄い布団の周りには、デミグラスソースの浅い海が広がり、白い皿の上に美味しそうな小島を浮かばせている。スプーンでゆっくりと卵を割れば、ほんわりと白い湯気が立って、きっと夢みたいに美味しくて幸せに違いない。
俺はスマートフォンの中に表示されているオムライスを見つめながら、舌の付け根から湧き出てくる唾を、ごくりと嚥下した。脳が勝手に記憶しているチキンライスの匂いと味、それから少し甘めのふるふると柔らかな卵の食感が、舌の上でうっすらと蘇る。
いいなあ、食べたい。
ベッドの上で寝返りを打ち、オムライスの記憶に打ちひしがれる。
よし、明日の夕飯は絶対オムライスにしよう。何が何でも、明日は絶対オムライスを食べなければならないような気がする。
俺は早速コンビニで売られているオムライスから、地元や学校付近で美味しいオムライスがあるかを徹底的に検索し始めた。できるだけ手近で、できる限り美味しいと認められたふわふわとろとろ系のオムライス。昔ながらの薄皮の固め卵に包まれたやつじゃなくて、口の中で解けるような柔らかいやつがいい。
想像すればするほど、今にも食べたくて仕方なくなるし、明日の決意は固くなる。
――なのに。
俺は翌日を迎えて、現実と向き合いながらげんなりとした。
俺の今目の前にあるのは、あたたかいぷるぷるの半熟卵がチキンライスを包むオムライスではなく、覚えられないくらい名前の長い、料理が鎮座している。長いアスパラガスに、こんがりと表面を焼かれた白い何か。それから何とかソースという、薄いオレンジ色の液体が、上品に真っ白な皿の上に添えられている。見た目も楽しむための、お上品極まりな料理。
本当に美味いのかはさておき、全く食欲がそそられない。
「美味しそう!」
――マジで? 本当にそう思う?
隣で小さく感嘆を漏らす母の横顔を盗み見て、俺は心の中で問いかけた。
絶対にふわとろオムライスの方が美味しいに決まってるだろ。そもそも、ワイシャツの第一ボタンまできっちり締めて、ネクタイも乱れなく垂直に下ろして食べる料理の何が美味しいんだ。気が休まりもしない。俺は行儀よくテーブルに並ぶカトラリーを見下ろして、一体何がこの場で一番正しいのかを考えた。
左右に並んだ大小のフォークやナイフ、スプーンにはそれぞれの役割が割り振られているに違いない。だが、今目の前にある料理には、何のカトラリーが合うのかが、分からない。
俺は少し考えてから一番大きなフォークを握って、アスパラガスを刺して、口に運んだ。殆ど冷め切って人肌に温くなった瑞々しいアスパラガスは、甘みがあり、思ったよりもうまい。噛めば噛む程、青々しくも自然な水が溢れるように、口の中が満たされていく。
「ちょっと、行儀悪いわよ……っ」
「は?」
隣から母親に窘められて、思わず何のことだと眉を潜めると、
「ごめんなさい、こういうところ初めてで」
母親はそう言いながら目の前の男に、小さく頭を下げた。母親の移動した視線の先に、俺も視線を向けると、男はこちらへとにこやかに微笑んだ。その微笑みは、完璧な優しさと正しさを纏いながら、俺に注がれる。まるで、何か粗相をした、小動物でも見るような目に見えてしまうのは、俺の勝手な被害妄想だろうか。
「好きな食べ方が一番美味しいからね」
男はそう言って、左手に持っていたナイフを皿に置いて、俺と同じようにアスパラガスをフォークに刺して食べ始める。
その仕草で、俺が今間違った食べ方をしたのだと自覚した。俺はテーブルに残っているナイフを左手に持ち、
「すんません……」
と謝る。
「いいんだよ、美味しく食べよう」
男はそう言いながら、少しだけ大げさに笑った。彼のその隣には、俺と同じようにブレザーの制服を着た男が無表情にこちらを見つめている。表情筋の使い方でも忘れてしまったかのような無感情の顔は、整っており、恐らく誰が見ても「イケメン」という枠に当てはめたくなるような男だった。少し長めのウェーブの掛かった髪に、白い耳朶には透明な輝きを宿すピアス。すっと一筆走らせたような鼻筋に、整ったアーモンド形の双眸は、天井から降り注ぐやわらかなシャンデリアの輝きを受けて、薄いブラウンにその艶めいていた。
彼は俺の左手のナイフを一瞥すると、僅かに唇の端を皮肉に持ち上げた。薄っすらと宿る嘲笑が、羞恥心を煽る。
バカにしやがって。こんな飯、本当は食いたくなかったんだよ!
そう言って逃げたくなるのをぐっとこらえて、俺は真っ白な皿の上に鎮座する、食材が何なのかもわからないそれを、小さく刻んで口に運ぶ。
この後絶対ラーメン食いに行こう。
そう胸に誓いながら食べ進めていると、
「伊月君は食べ方綺麗ね」
母が俺の目の前の奴を褒めた。うちの子なんて、と比べながら褒めるものだから、更に居た堪れない。ムカつく。今日はオムライスを食べる予定だったのに、急に呼び出したかと思えば、こんな不相応なとこに引っ張って来て……。
「これからは湊にも見習わせなきゃね、一緒に住むから教えてあげてね」
――勝手に再婚を決めるなんて。
俺は奥歯を噛締めて、電話越しに突然、
「再婚するから! 顔合わせ今日なの」
と言ってきた、母の華やいだ声を思い出して、思わず舌打ちをした。
舌を打つ音は、思ったよりも大きく響き、空気を震わせる。会話がふっと途切れて、テーブルにわずかな沈黙が降りてくると、居た堪れなさはピークに達していた。
ああもう。
席を立とうかと迷いが胸の内に立ち込める。薄灰色をしたそれは、心臓の周りをもやもやと燻り、呼吸を浅くさせた。
天井が高く広々と取られた店内では、大きな声を出す人など誰もいなくて、着席する全ての人が囁くように、身の振り方を熟知した作法で、料理を楽しんでいる。何もかもがきらきらして、目に眩しくて堪らない。自分の居場所が何処にもない気がして、水の入ったグラスの縁を流れる光さえ、目に痛い。
――ああもうやだ。
「俺も好きに食べたらいいと思う」
何処に視線をやればいいのか分からず、いつの間にか下がっていた視線を上げると、彼が真っ直ぐに俺を見つめていた。
「別に、作法で味とか変わんねーし」
彼はナイフでアスパラを切り分けて口に運ぶと、それを嚥下して、俺の左手のナイフを見た。
「俺はこの食い方が食べやすいだけ」
初めて男と眼が合った気がする。彼は一瞬だけ俺の視線に視線を絡めると、するん、と絡んだ視線を解いて、料理を食べ進めていく。
「そうそう、気にしないでね。湊くん」
彼の父親である男は、そう言いながら「何か飲もうか」と店員を呼で、明るくこの空気を払拭しようと努め始めた。俺は居た堪れなさこそは薄らいだが、なんて言えばいいのか分からず、ナイフとフォークを握り直した。
母はそれ以上俺に何か言う訳でもなく、いいわね、と男の誘いに乗り、ワイン飲みたいななんて言い始めている。
俺はもう一度視線を上げて、目の前の男を見た。
けれどその日、彼とはそれ以上に視線が合う事はなかった。



