「きみと紅林が交際していると勘違いした新堂が怒って店に入ってきて、きみを店から連れ出した。そこに、きみの浮気を疑った影山がやってきた」
「緑が浮気を疑ったのかは知らないですけど……」
 俺が言うと、隣に座る中年の警察官は「向こうはそう言ってる」と言った。
 取り調べというには生ぬるい質問責めに合っていた。警察署だが、俺がいるのは交通課の待合室のソファだ。さっちんと緑がどこにいるかはわからない。
 業務終了後の一階フロアはほとんどの明かりが落とされている。『総務課』と書かれたカウンターの奥だけが照らされていて、待合席は薄暗い。
「きみを心配した紅林が外までやってきて、殴り合いに発展。要するにきみを巡った痴話喧嘩だ」
「さっちんは巻き込まれただけなんです」
 中年の警察官は大きく頷いた。
「相手は三十過ぎのいい大人だし、私らもこんなくだらない痴話喧嘩を事件化する気はないよ。怪我の具合で言ったら紅林くんの方が大きいしね」
 でも警察沙汰には変わりなく、帰るには親を呼ばなければならないという。
 警察官に自宅の電話番号を伝え、俺はそのまま待合ソファで迎えを待つこととなった。
 しばらくすると、階段からさっちんと緑が下りてきた。緑はまっすぐ俺の元へやってきて、隣に座った。
「なっちゃん、大丈夫だった?」
「ああ……」
 さっちんは少し離れた場所にドッカと座った。さっちんの鼻にはガーゼが貼られている。
「やってらんねえ」
「さっちん、本当にごめん」
「いーよ。この借りはなっちゃんの体で返してもらうから」
 緑がキッとさっちんを睨んだ。さっちんはククッと肩を揺する。
「ばか、冗談に決まってんだろ。まに受けんじゃねえよ」
「つまらない冗談だね」
「悪いが俺は一般人なんでね。お前が一緒に仕事してるような芸人とは違うんだ」
 緑が言葉に詰まると、さっちんはふんと鼻で笑った。
「なっちゃん、今回の顛末を教えろよ。どうしてこうなった?」
 巻き込まれた者として、全部知りたいと思うのは当然だ。俺は新堂の店に行ったことを正直に言った。
 そこで新堂によりを戻したいと言われ、思わせぶりな態度を取ってしまったこと。
「なっちゃんが悪いな。元カレの店に行くなんて」
 さっちんが呆れたように言う。
「……どうして、新堂さんの店に行ったの?」
 俺は黙り込んだ。緑の過激な性癖の原因を確かめるために……なんて、言えるはずがない。
「本当は、よりを戻したかったのはなっちゃんなんじゃねえの?」
 さっちんが言った。
「緑だけじゃ物足りなかったんだろ。それで新堂の店に行って復縁を迫った。なのにその足で俺の店に向かったから新堂は激怒した……おおかたこんなところだろ。どちらも手に入れようと欲かいた結果だ」
「違うっ……俺はっ……」
「咲人?」
 男の声に、俺たちは揃って正面玄関を見た。さっちんに雰囲気の似た、男らしい男性が立っている。若い警察官が、「ご家族の方ですか」と男の元へ駆けて行く。
 さっちんは舌打ちして立ち上がった。正面玄関へと歩いていく。
「さっちんっ……」
 俺はさっちんを追いかけた。さっちんはすぐに足を止めた。
「なんで来んの?」
「俺のせいだって説明する。さっちんはとばっちりだって」
「いいよいらねえ」
「でも……」
 言いかけたが、さっちんの迷惑そうな顔を見て口をつぐんだ。
「……本当にごめん」
「ああ本当に」
「俺、どっちも手に入れようなんてしてない」
「あっそ。じゃあ誤解されるような行動は慎むんだな」
「うん」
 行きかけたさっちんを、「さっちん」と呼び止める。失礼極まりないと思いつつ、俺は聞いた。
「中絶、させたことある?」
 瞬間、さっちんの顔が怪訝に歪んだ。
「はあ?」
 不穏な空気を感じ取ったのか、緑が「どうしたの?」とやってくる。
 さっちんは質問の意図が全くわからない様子で、俺の目を覗き込む。その反応で、さっちんには身に覚えのないことなのだと、あれは新堂の嘘なのだと確信した。
「ごめん、変なこと聞いた。今のは忘れて」
 ホッとして、俺は自然と微笑んだ。さっちんがますます顔をしかめる。
「うぜえ……今日のことはどっかで埋め合わせしてもらうからな」
 さっちんは言うと、父親の元へと大股で歩いて行った。
 緑と二人。俺は覚悟を決め、全部話すつもりで口を開いた。
「緑、俺が新堂さんの店に行ったのは、お前とのセッ」
「髪型、似合ってるね」
 緑に言葉を遮られた。髪を優しく撫でられる。口から出そこなった「セックス」のせいで顔がじわじわ熱くなる。
「ずっと新堂さんに切ってもらってたんだもんね。今更別の美容師に変えるなんてできないよね」
「緑、違うんだ。さっちんはああ言ったけど、俺は」
「僕、頑張るから」
「その……緑、そう言ってくれるのは嬉しいが……たぶんお前の頑張る方向は間違ってる……」
 過激なプレイを思い出し、緑の顔を直視できない。頑張らせていたのだと思うといろんな意味でたまらなかった。
 こんなことなら昨日……というか初めから、「俺はドエムじゃない」と言えば良かった。緑を傷つけるかもしれないと余計な気を回したせいで、自体は深刻化してしまった。
「緑、俺はドエム」
「緑っ!」
 女の声が響いた。声のした方を見ると、女が二人……俺の母も一緒にいた。
 若い警察官が二人の元へ行く。なんと説明するのかとヒヤヒヤし、俺と緑は二人揃って駆け出した。
「緑っ! あなた、自分の影響力を考えなさい。こんなトラブル起こして、どれだけの人に迷惑がかかるか考えた? 作品作りに携わる人だけじゃない。スポンサー様にだって迷惑がかかるのよ?」
 二十二時を過ぎているのに、緑の母はバッチリ化粧をしていて、格好も派手だ。記憶の中の印象とかなり違う。
「まあまあ、お母さん。影山くんは止めに入っただけなので」
 警察官がフォローする。
「緑、トラブルに首を突っ込むのはやめて。なんでも事務所が守ってくれるわけじゃないんだから」
 緑の母親が、ジッと舐め回すように俺を見た。
「あなた、どこの事務所?」
「えっ……」
「緑の人気に便乗しようとか思わないでね。有名になりたいなら実力をつけなさい?」
 俺の隣に立つ緑の気配が、殺気立つのを感じた。緑が口を開く。けれど俺の母が先を越した。
「緑くんのお母さん、うちの子はもう芸能活動はしていないんです」
 緑の母親の視線が移る。中肉中背の冴えない女……瞬時に俺の母を見下していい相手とジャッジしたのがわかった。
「天谷です。昔、同じ養成所に通っていたんですけど……覚えてませんよね?」
 母は困ったような笑みを浮かべると、次に緑を見上げた。
「緑くん、すごく立派になったわね」
「お久しぶりです」
 緑はぎこちなく頭を下げた。怒りの行き場を失い、調子が狂ったようだ。
「おばさんびっくりしちゃった。この子ね、緑くんが出演しているドラマは欠かさず観ているのよ。雑誌も発売日に必ず買って」
「母さん……」
 やめてくれよ、の意味を込めて母を睨むと、微笑み返された。
「渚と仲良くしてくれてありがとうね」
 母は緑に言った。「仲良くしてくれてありがとう」は挨拶のようなものだ。
 でも芸歴の長い緑は引っ掛かりを覚えたのか、
「いえ、僕が仲良くしてもらっているんです」
 とムキになって言った。
「緑、帰るわよ」
 緑の母親が歩き出す。緑は俺たちに頭を下げ、母親の後を追いかけた。
「私たちも帰りましょう。お父さんの車で来てるから」
「うん」
 俺と母は並んで歩いた。母の表情を横目にチラチラと伺う。常に微笑んでいるような口元。気分を害しているようには見えないが、内心ではどう思っているんだろう。同じ養成所に通っていたのに、緑と俺は全く違う人生を歩んでいる。
「母さん……ごめん」
「電話が来た時はひっくり返るかと思ったわよ。大事にならずに済んで良かったわ」
「ごめん……父さんはなんか言ってた?」
「何も知らないわ。私が電話に出たから」
「こんな時間にどこに行くんだって言われなかった?」
「言われたに決まってるじゃない。姉さんを危篤状態にしてきたわよ」
「ごめん」
「これからは気をつけてね」
「なんで……怒らないの? こんなに迷惑かけたのに」
「あなたに怒ってどうするの。あなたは殴られた被害者でしょう」
 それに、と母は続けた。
「警察署に呼ばれるって、なんだかドラマみたいでワクワクしちゃった。あなたって小中高となんにも問題起こさなかったでしょ? 私ね、本当は学校に呼び出されてみたかったのよ。『うちの子がご迷惑をおかけしました』とか、『私は息子を信じます』とか、言ってみたかった」
「ドラマの見過ぎ」
 俺は苦笑した。
「私、テレビっ子だもの」
「テレビ、出て欲しかった?」
 ぽろっと口からこぼれた。
「出たじゃない、たくさん」
「エキストラだろ」
「でもテレビに出たことに変わりはないでしょ? 私は一瞬でも渚がテレビに映ったら嬉しかった。この可愛い少年は誰っ!? あらやだ息子じゃないっ! って一人で大騒ぎしてた」
 本当か? と俺はまじまじと母を見た。本当は名前のある役をやって欲しかったんじゃないのか? 
「緑っ! どこに行くのっ!」
 駐車場に向かって歩いていると、甲高い女の声が耳に入った。足を止め、声のした方を見る。
「待ちなさいっ!」
 と緑の腕を母親が掴んでいた。緑は歩道へ出るところだ。母親と一緒に帰るのを拒んでいるように見えた。
 俺は二人の元へ向かった。緑が母親の腕を振り払い、バランスを崩した母親が路上に尻餅をつく。
「大丈夫ですかっ」
「なっちゃん」
 静かで低い声が言った。
「放っておけばいいよ。その人はなっちゃんとなっちゃんのお母さんに失礼な態度を取ったんだから」
 構わず緑の母親に手を差し出した。俺の手を掴んで、緑の母親は立ち上がる。
「あんた……それが親に言う言葉?」
「なっちゃんにお礼を言うのが先だろっ……」
 緑の母親はチラリと俺を見て、またすぐ緑を睨みつけた。
「なっちゃんって、なに? ファンを特別扱いするんじゃないわよ」
「ファンじゃない。友達だっ」
「ドラマも雑誌もチェックして何が友達よ。緑、あなたは芸能人なの。付き合う相手は同じステージの人間にしなさい?」
 緑のこめかみに青筋が立った。大きく息を吸って吐く。握った拳がブルブルと震えていて、俺はその拳に手を添えた。
「緑……」
 緑は気まずそうに目を逸らした。
「渚くん? いつも緑を応援してくれてありがとう」
 緑の母親が俺の顔を覗き込むようにして言った。愛想のいい声が、むしろ突き放されているように感じる。
「一緒の養成所に通っていたってだけで、親近感を感じるわよね。でもね、渚くん。あなたが通っていた養成所は誰でも」
「黙れっ!」
 緑が怒鳴った。
「五百万で……買ったくせに……」
 緑が憎しみのこもった声で言う。いつの間にかそばに俺の母がいた。母の前でこの話はしたくない。ブルブルと震える緑の拳を、俺は強く握った。
「どうしても自分の子供を有名にしたいっていう欲望を、あんたは五百万で買ったんだ。その金がなけりゃ、今の僕はなかった」
「じゃあ、感謝しなさいよ」
 緑の母親が言う。
「もっと私に感謝しなさい。するべきでしょう? テレビに出るのが当たり前になって、麻痺してるのかもしれないけれど、あなたはすごいの。スターなの」
「金で手に入れた立場のどこがすごいんだよ。恥じゃないか」
「恥って……」
「あのう」
 俺の母が口を挟んだ。緑の母親がキッと睨む。
「五百万って、オーディションの時に事務所から言われたお金のことですか? この金額を払えばオーディションに絶対受かるっていう……」
「はい」
 目を逸らしたまま緑が答えた。
「この人はその話に乗ったんです。だから僕は名前のある役をもらえた」
「それは違う」
 母が断言し、緑は母を見た。
「役をもらえたのは、あなたに光るものがあったからよ。あなたはその役を自分の力で勝ち取ったの」
「いや……買ったんです」
「ええ、買ったのよ」
 緑と緑の母親が否定する。
「お金を払ったのよね? でもオーディションは関係ないわ」
 母はそう言って、痛ましげに眉根を寄せた。
「もしかして緑くん、ずっとお金で役を買ったと思っていたの? まあ可哀想…………大丈夫、自信を持って。キャスティングにお金は関係ないわ。百パーセントあなたの実力よ」
「どうして……そう言い切れるんですか?」
 緑が困惑気味に聞く。
「実はね、うちの子にも同じ話が来たの」
 母は俺の両肩をガッチリ掴むと、明るい声で言った。
「その時は三百万。三百万よ〜? 払えるわけないでしょう?」
「払おうとしたんじゃないの?」
 俺は驚いて聞いた。俺がオーディションに合格したのは、一度は払うと決めたからではないのか?
 母は「まさか!」と笑った。
「三百万払ってまで大河ドラマに出したいと思わないもの」
「大河ドラマ?」
 緑の母親が反応した。
「はい。うちの子は大河ドラマのオーディションを受けたんです」
「でも、落ちたんでしょう?」
「辞退したんです」
「え?」
「ごめんなさい」
 母は俺に向かって頭を下げた。意味がわからない。
「長野のおばあちゃんが反対したの。私は、一緒に喜んでもらえるものと思って報告したんだけど、おばあちゃんは義務教育を優先しろって譲らなかった」
 父方の祖母だ。祖母は俺が高校を卒業した年に亡くなった。
「あなたには辛い思いをさせたわよね。本当に申し訳ないことをしたわ」
「おばあちゃんが……」
「おばあちゃんの意見を聞いて、私も色々考えたの。私は、渚に有名になって欲しくて養成所に通わせていたのかって……大河ドラマに出演して、渚の人生が大きく変わったらどうしようって……たくさん考えて、おばあちゃんの意見に従ったの。従ったというか、賛成ね。私もそれがベストだと思った。お父さんとも話し合ったわ」
「ベスト……」
 ベスト……母の口から放たれた単語に愕然とした。瞳が忙しなく彷徨うのを自覚する。
「待って……三百万、払ってないの?」
 緑の母親が言う。
「ええ、そんな大金、払えませんもの」
「私は払ったわっ! 五百万円っ! 払ったからっ……緑はオーディションに合格したのっ!」
「違いますよ」
 温厚な母が、咎めるような声を出した。
「緑くんが合格したのは彼の実力と才能が評価されたからですよ。あなた、本当にお金を払ったからだと思っているの? どうして自分の息子を信じてあげないの?」
「だって……本当に払ったんだもの……」
「そんなの、詐欺に決まってるじゃない」
「さ、詐欺っ!?」
「警察に相談したら?」
 母は警察署を振り返った。
「ば、バカにするんじゃないわよっ! 警察に相談なんて冗談じゃない!」
 緑の母は怒って行ってしまった。間も無く駐車場に停まっていたベンツが動き出し、警察署を出て行った。
「緑くん、家まで送って行くわ」
 ベンツを見送ると、母が言った。
「えっ?」
「今日は疲れたでしょう。後ろで寝ていればいいから」
「じゃあ……お言葉に甘えて」