「俺に戻りなよ」
 元カレの新堂が馴れ馴れしく耳に触れてきて、失敗したな、と俺は思った。
「……やめてください。俺……そういうつもりで来たんじゃない」
 代官山の高級サロン。俺は革張りのリクライニングソファの上にいる。シャンプー台は完全個室で、俺と新堂以外には誰もいない。
「じゃあどういうつもりでノコノコ元カレに会いに来たの?」
「髪……切ってもらいに」
「丸刈り?」
「……勘弁してください」
「丸刈り、かっこいいじゃない。似合うと思うけどね」
「帰ります」
 体を起こそうとしたら、グッと両肩を押さえつけられた。
「ごめんごめん。ちょっとからかっただけさ。心配しないで。俺だってお客様が納得しないカットはしたくない。きみがあんまり可愛いから、取り返したくなったんだよ」
 顔にタオルを掛けられる。視界が塞がれ、体がゾクっと震えた。
「あの男とは別れた方がいい」
 温かいシャワーが頭皮にかかる。
「いい噂聞かないよ。家柄は良いようだけど素行は最悪。好みの子を泥酔させて無理やりするって噂もある。俺も何度か店に行ったけど、あの男は本当に良くない」
「店って……」
「赤坂のサガンで働いてるだろ。きみの新しい彼氏」
 新堂の勘違いにようやく気づいた。
 この二週間、俺はさっちんと毎日のように会っていた。
「あんな男のどこがいいの? どう見たって俺を捨ててまで選ぶような男じゃないよ」
 頭皮をシャンプーでマッサージしながら、新堂は不機嫌な声で言う。
「あの男はきみを大事にしないだろ。一緒にいる所も見たよ。何が良いのか全くわからないけど、きみの方が惚れてるみたいだね」
 訴訟をやめさせようと必死に説得しているだけなのだが、新堂の目にはすがっているように映ったらしい。
「渚、俺に不満があったわけじゃないんだろ?」
 胸がグッと苦しくなる。新堂は理想の彼氏だった。優しくて、大人で、こんなに素敵な人と付き合えている自分は幸せ者だと思っていた。
「新堂さんは……俺に不満、あったんじゃないですか」
 なっちゃん、3週間前に恋人と別れて今フリーだよね。
 あの時はまだ新堂と付き合っていたのに、緑はなぜか俺をフリーだと思い込んでいた。
 あの時は意味がわからなかったけれど、後になって、新堂には他に恋人がいたのではないかと考え至った。
「ないよ。きみは思いやりがあるし控えめだ。俺は、きみ以上の人にはもう出会えないと思ってる。こんなに綺麗なのに、きみは自分の容姿を誇ろうとも利用しようともしない。そういうところ、すごく良いなって思う」
 丁寧に髪を洗う手も、声も、やっぱり良いなと思ってしまう。
「新堂さんは本当に素敵な人で、俺はずっと夢を見ているような気分でした」
「ありがとう。これからはもっと大事にする。寂しい思いをさせてしまったのなら気をつけるよ」
 新堂の声に余裕が戻った。
「渚、戻っておいで」
「すみません」
 新堂の手が一瞬止まった。
「わからないな。もうきみのためにはっきり言っちゃうど、あの男はクズだ。中絶だって平気でさせる。しかも一度や二度じゃない。あんな奴と一緒にいたってきみは幸せになんかなれない。そんなこと、本当は自分が一番わかっているんじゃないのか」
 新堂は業界に顔が広い。緑の名前を出すのはやめておいた。
 シャンプーを洗い流され、顔に掛かったタオルが取り払われる。視界が開け、体の緊張が解けるのがわかった。
 頭にタオルを巻き付けながら、新堂はなおも続けた。
「俺は優しかったろ。自分で言うのもなんだけど、きみには相当優しく接してきたつもりだよ。今まで付き合ってきた誰よりもね。きみは初めての彼氏が俺で、比較対象がないからわからないのかもしれないけれど」
「……わかります。新堂さんは優しくて、俺には勿体無いくらいでした」
「じゃあどうして……」
 俺は大きく息を吸って吐いた。
「彼とは、体の相性がいいんです」
 背後で新堂が、ハッと息をのむのがわかった。
「新堂さんは理想の彼氏でした。でもセックスは物足りなかった。俺はいじめて欲しかった。本当は叩いたり噛まれたり、アブノーマルなプレイに興奮するんです。彼は俺の願望を叶えてくれる」
 用意していた言葉を一息に言うと、走った後のように心臓が激しく波打った。顔が赤くなっていくのを自覚する。
 緑とのセックスは衝撃の連続だった。当然のように手足を縛られ、目隠しされ、乳首をぎゅうぎゅうつねられた。あまりに驚いて、「おいやめろ」と突っ込むこともできず、初回はエスカレートしていく行為にひたすら困惑し続けた。
 二回目になると、緑は本格的な道具を使い出した。毒々しい色味のSMグッズの数々を目の当たりにし、俺はまたも言葉を失った。緑の思わぬ性癖に驚いたし怯んだけれど、それをからかったり拒絶するのは躊躇われ、結局されるがままだった。
 三回目、昨日のことだ。緑は意を結したように「他にも人を呼ぼうか?」と言ってきた。苦しそうな緑の表情は、それを望んでいるようには見えなかった。
 呼ばなくていい。
 俺は内心激しく狼狽えながら、それだけ答えた。緑のホッとした表情で、察した。
 緑は、俺が喜ぶと思ってそういうプレイをしていたのだ。そう思い至った時、
 なっちゃん、3週間前に恋人と別れて今フリーだよね。
 という緑の言葉の意味を理解した。 
 新堂には、俺以外に恋人がいた。その相手とはアブノーマルなプレイを楽しんでいた……
 新堂にSっ気があることは薄々気づいていた。足をぶつけた時や包丁で指を切った時、新堂は痛がる俺の表情を情欲の滲んだ目でジッと見つめていた。手当てのフリで傷口に触れ、うっかりを装って痛みを与えたりもしてきた。
「そう……そうだったんだね……なんだ、知らなかった……なんだ……そうだったのか……」
 新堂は俺を大事にしてくれた。でも本当はそういうプレイをしたかったのだ。放心したような新堂の声で確信する。新堂の優しさは、他の相手がいたことで維持されていたものだった。それを騙されていたと思ってしまう自分は、きっと新堂とはうまくいかない。
「渚、後で俺のうちにおいで。たくさん可愛がってあげる。きっと満足させてあげられるよ」
 頭を抱え込みながら、新堂は囁くように言った。予約の取れない人気美容師だ。今日は営業終了後に特別に入れてもらった。
「はい」
 答えると、耳たぶを甘噛みされた。激しい嫌悪感が湧き上がったが、変な髪型にされたら嫌だから、文句は言わなかった。

 美容室を出た足で、俺はさっちんの店に向かった。狭い店内は客で賑わっていて、空いているのは一席だけだった。
 いつもは露骨に嫌な顔をするのに、この日のさっちんはなぜか機嫌が良かった。俺が座るなりやってきた。
「出してきたぜ」
 一息遅れて、提訴したのだとわかった。言葉を失う俺に、さっちんは意地悪に微笑みかけた。
「そんな顔すんなよ。悪徳ビジネスは淘汰されるべきだろ?」
「事件番号は」
「まだ出てない。わかったら教えてやるよ」
 俺は小さく頷いた。事件番号とは裁判(事件)に付される番号のことで、裁判記録を閲覧するのに必要となる。
 裁判が始まれば、さっちんが提出した証拠書類なども見ることができる。結局、毎日のようにさっちんを追いかけ回しても、俺は何もできなかった。さっちんがどんな証拠を集めていたのかもわからない。
「今日はアルコール摂取しとくか?」
「いい……今日は帰る」
 腰を上げると、
「おいおい、座ったからには一杯くらい飲んでいくのが礼儀だろ」
「じゃあ烏龍茶」
 そう告げて、仕方なく腰を下ろした時だった。店のドアが開いた。
「すみません今満席で……」
 さっちんの言葉を無視して、新堂はズカズカと俺の方までやってきた。
「渚、何をしているんだ」
 怒りの滲んだ声。目尻は吊り上がり、目の下の皮膚は微かに痙攣していた。新堂の怒りを初めて目の当たりにし、ヒヤリと背筋が冷たくなった。
「新堂さん……なんで……」
「なんではこっちのセリフだ。来いっ」
 肩口をグイッと掴まれ、椅子から無理矢理立たされる。
「大人を馬鹿にするのもいい加減にしろよ……っ」
 グイグイとドアへ引っ張られる。
「ちょっ……ちょっとアンタっ! 嫌がってんだろっ!」
 さっちんも流石に狼狽えている。
 頼れるのはさっちんだけ。友達どころか嫌いになりかけていたけれど、俺は振り返り、「さっちん!」と呼んだ。
 さっちんはハッとしたように目を見開くと、カウンターを飛び出した。
「おいっ! やめろってっ!」
 さっちんが新堂の腕を掴む。新堂はさっちんの顔面に思いっきり拳を突き出した。
「ぐっ」
 キャッと店内に悲鳴が上がった。
 優しくて尊敬していた新堂が、躊躇いなく暴力を振るったことに俺は言葉にならないほどのショックを受けた。まともにパンチを食らったさっちんの鼻から鮮血が滴る。
「きみのせいだよ」
 ひどく冷たい声で、新堂は言った。
「こうなったのはきみのせいだ」
 外へと連れ出される。さっきの暴力が衝撃的で、指先がカタカタと震え出した。抵抗する勇気のない俺を、新堂はホテル街の方へと連れて行く。心は逃げ出したいと思っているのに、体に力が入らない。
「新堂さん?」
 背後から聞こえた声に心臓が跳ね上がった。
 新堂の足が止まる。振り返ると緑がいた。目深に被ったキャップを外し、「なっちゃんも……何してるの?」と穏やかな口調で、けれど挑むような眼差しで言った。
 緑は、この状況をどう思っているんだろう。数メートル先にはラブホテルがある。
 否定しないとと思うのに、声が出ない。緑を巻き込みたくない。
「知ってるだろ。俺たち付き合ってるんだよ」
 新堂が言い、俺の肩を抱き寄せた。緑の鋭い視線がすかさず新堂の手に注がれる。
「新堂さん、その手、どうしたんですか?」
「ぶつけたんだよ」
「俺を殴ったんだろうがっ……」
 そこへさっちんが鼻を押さえながらやってきた。緑がギョッと目を見開く。
 さっちんはまっすぐ俺の元へやってくると、「こんな男についてったら殺されるぞ」と言って俺の腕を掴んだ。
「うわっ」
 新堂が拳を突き出し、さっちんは身をよじってそれを避けた。
「何してるんですかっ」
 慌ててやってきた緑にも、新堂は拳を突き出した。
「やめてくださいっ」
 体が勝手に動いた。こめかみにガツンと痛みが走る。
「いっ……」
「なっちゃん!」
「お前マジでなんなんだよっ!」
 さっちんが新堂に殴りかかった。
「なっちゃん、なっちゃん大丈夫?」
 緑の気遣わしげな声に、恐怖や後悔が一挙に押し寄せ、みっともなく涙が溢れた。
「ごめん……緑っ……緑っ……」
「僕はいいよ。なっちゃん、目の横見せて。痛くない?」
「緑っ……俺……俺っ……何も役に立てなかった……ごめん……緑っ……」
「……僕のために何かしようとしてくれてたの?」
 でも何もできなかった。俺はゆるゆると首を横に振った。
「ごめん……」
「もしかしてお前らできてんの?」
 息を切らしながらさっちんがやってきた。新堂は……と視線を落とすと、うつ伏せで倒れていた。
「おいおい、痴情のもつれとか言わねえよな?」
 さっちんはうんざりしたように言い、ブッと血反吐を吐いた。
「さっちん……本当にごめんっ……」
 涙を拭いながら言った。
「そいつ、たまに店に来てたけどなっちゃんの彼氏だったんだな。やたら突っかかってくるからおかしいと思ってたんだ」
「ごめんっ……さっちん……」
「本当だよ。マジで迷惑」
 さっちんは横目に緑を睨んだ。
「で、本当の彼氏は緑ってわけだ?」
 俺は頷いた。
「新堂さん……勘違いして……でも、その方がいいと思って……」
「よくねえよ。勝手に俺をホモにするんじゃねえよ」
「……ごめん」
「まあ……でも納得。なっちゃん、だから訴訟止めたかったんだな。友達にそこまでしないもんな」
「訴訟?」
 緑が反応し、肝が冷えた。
「あ、言ってなかったっけ? 俺あの事務所を訴えたんだよ。今でもオーディションは形だけだからな。証拠も色々揃ってる。お前がヨウヘイの役を五百万で買ったことも弁論に書いた」
 緑が驚いたように目を丸くした。金のやり取りを緑には知らないでいて欲しかった。引きかけた涙がまたボロボロと溢れ出す。
「それで、さっちんと会ってたの?」
 緑が俺に言う。
「緑っ……お、お前には……才能があるっ……最初はか……金で買った役かも、しれない……でも今のお前があるのはっ」
 いきなり強く抱きしめられ、言葉が途切れた。
「俺のためにさっちんと会ってたの? 訴訟を止めたくて?」
 緑に知らないままでいて欲しかった。……でも彼はすでに知っていたのかもしれない。
「緑……お前、知ってたのか?」
「うん。さっちんから聞いたよ。訴訟は今知ったけど」
「ごめん……止められなかった」
「訴状、今日出してきたから」
 とさっちん。緑は動じない。さっちんも予想外のようで、「お前が役を金で買ったこと、世間にバレるんだぞ?」と怪訝に言った。
「うん。今もそういうことが行われているんでしょ?」
 緑は俺から体を離すと、さっちんの方を見た。
「ああ」
「だったら公にした方がいい。さっちんは正しいよ」
 緑はそう言って、切なげに俺を見た。
「でも、なっちゃんが俺のために頑張ってくれたのは嬉しい。ありがとう、なっちゃん」
「だから……俺は何も……」
「お前……わかってんのか? 一度だけでもイメージダウンになるんだぞ」
 さっちんが言う。緑がダメージを受けていないことが気に入らないようだ。
「それでも僕は公にしたい」
 緑はキッパリと言った。
「さっちんからその話を聞くまで僕は……努力が実ったんだと思ってた。やっと報われた、自慢の息子になれたって、誇らしかった。でも実際は金を積んで得た役で、僕の頑張りは関係なかった」
 それは俺にも当てはまることで、聞きながら胸がギシギシと痛んだ。
「あの役を貰った時、僕の両親はすごい、よく頑張ったなって褒めてくれた。一体どんな気持ちで僕を褒めてたんだよって……真実を知った時、無性に腹が立った。僕の実力じゃないことは、あの人たちが一番わかってるんだ。人の夢に付け込むビジネスはもちろん最悪だけど、僕は払う方もどうかと思う」
 要するに緑は、金を払った親にわからせたいのだ。オーディションの話が明るみになれば、緑はバッシングされる。「金を払ったのは間違いだった」と、親は後悔することになる。
 緑の怒りはわかる。
 なっちゃん、すごいわ! 大河ドラマよっ! 
 俺も母に褒められて嬉しかった。けれどその話を聞いた後は、「金を払ったくせに」としらけてしまう。
 俺たちは一生懸命レッスンに取り組んでいた。オーディションに合格すれば親が喜んでくれるから。子役になることは、どちらかと言えば親の夢だから。
 なのに金。金を払った親は、努力しても無駄だと認めたも同然だ。
 払う方もどうかと思うという緑の言い分はもっともだ。
 でも…………と思う。
 なっちゃん、すごいわ! 大河ドラマよっ! 
 ちっとも報われない子供を気の毒に思って、自信をつけさせたくて、選んだのだとしたら……
「普通……だと思う」
 俺は緑に反論した。
「養成所に子供を預けている親だったら……金で役を買うのは、普通、だと思う……」
「でもなっちゃんのお母さんは」
「払うつもりでいたんだよ、俺の親も」
 二人が同時に息をのむ。
「俺は、大河ドラマに出演できると思ってた。一度俺に決まったんだよ。俺の親も金を払うつもりでその話に乗ったんだ。でも結局払えずに、その役は別の子役に決まった」
 授業料だけでもキツかった筈なのに、ドラマに出るにはさらに金が必要だった。一度は払うと決めた母の気持ちを思うと胸が痛んだ。払えないと諦めた時、母はどんなに自分を責めただろう。
「緑の親だけじゃない。その話が来たら誰だって……みんな、自分の子供を有名にしたくて養成所に通わせていたんだから、誰だって乗るさ」
「……なっちゃん、大河ドラマに出るはずだったの?」
 引きずっているつもりはなかったのに、緑に改めて言われるとあの頃の悔しい気持ちを思い出した。
「大人は信用できない……もしかしたら出演できなくなるかもしれないって……あれは、自分のこと?」
 二人にジッと見つめられ、居た堪れずに俯いた。
「なっちゃんらしくないとは思ったけど……そういうことだったんだな」
 さっちんにまで言われてしまい、もう消えたくなった。
「俺……自分に起こったことが、緑にも起こると思って……ごめん、緑……」
 アスファルトにポタポタと涙が落ちる。
「どうして謝るの……なっちゃん、何も悪くないじゃん……」
 緑も涙声だった。
「なっちゃん……ごめん。なっちゃん……僕の方こそごめん……バカでごめん……」
 ぐずぐず泣いていると、遠くの方から足音が聞こえてきた。さっちんが「うわ、だっる」と頬を引き攣らせる。見ると、二人の制服警官がこちらへ走ってきていた。