吐いた後、なっちゃんはぐったりと意識を失った。タクシー運転手は大激怒。その場で降ろされ、小一時間説教された。
 タクシー運転手には平謝りし、迷惑料を支払った。
 嘔吐物まみれの酔っ払いを乗せてくれるタクシーは現れず、僕はなっちゃんを抱き抱えて自宅マンションまでの残り二キロを歩いた。
 マンションについた時には二十二時を過ぎていた。なっちゃんを抱えていた腕は痺れて足は重い。けれど心が満たされているおかげで全く疲れを感じない。
『お前と遊ぶ。お前と遊べるなら何時だっていい』
 なっちゃんの言葉が嬉しかった。五百万の話が、どうでもよくなってしまうほどに。
 なっちゃんをベッドに寝かせ、汚れた服を着替えさせた。すやすやと寝息を立てて眠るなっちゃんは天使のように愛らしい。見ていたら時間がどんどん過ぎてしまいそうで、僕はしぶしぶ寝室を出た。シャワーを浴び、レトルトカレーを湯煎にかける。服を着る前になっちゃんの様子を見に寝室へ戻った。
 引き寄せられるようにベッドへ向かった。腰掛け、柔らかい髪に触れた。明るく染めているのになっちゃんの髪はサラサラで艶がある。今も新堂に触らせているのだろうか……
 髪から頬へと指を滑らせる。滑らかな肌にいつまでも触れていたいと思った。唇はどんな感触がするんだろう。軽く押しつぶすと、ささやかな弾力が返ってきた。
 指を、口の中に入れてみた。
 すると軽く吸い上げられ、驚いて指が跳ね上がった。無意識だろうか。なっちゃんは僕の指を吸い続けた。
「なっちゃん」
 たまらなくなって名前を呼ぶと、突如鋭い痛みが関節に走った。
「いたっ」
「むっ……わっ、わるいっ!」
 なっちゃんは飛び起き、キョロキョロと部屋を見回した。
「指……血が……っ」
 狼狽えるなっちゃんはタクシーの時とは別人だ。正気に戻ったのか確かめようと、「舐めて」と僕は言った。
 なっちゃんの目が驚きに見開かれる。困惑した表情が可愛くて、もっと困らせたくなってしまう。
「なっちゃん、舐めて」
「緑……教えてくれ……俺、何も覚えてない」
「舐めたら思い出すよ」
 正気の彼が、そんな恥ずかしい真似できる筈がない。そう思って言ったのに、なっちゃんは僕の予想に反して血まみれの指に吸い付いた。
「っ……」
 まだ酔っているのだろうか。人の指に吸い付く彼を、僕は不思議な気持ちで見つめる。
「思い出した?」
 答えないなっちゃんをもどかしく思った。軽い気持ちで聞いたつもりだったが、本当は早く記憶を取り戻してほしいのだと気づく。
「僕ね、なっちゃんは同情で付き合ってくれたんじゃないかってずっと不安だった。声をかけるのはいつも僕で、なっちゃんは僕に気付いても見てるだけだから」
 なっちゃんは僕の指から口を離した。恥ずかしそうに顔を背ける。
「待たせてももらえないし」
「人を待たせるの、嫌なんだよ」
「僕は待ちたい。待ってでもなっちゃんと遊びたい」
「今日は……俺たち……何してたんだ?」
 そこから覚えていないのかと、僕は苦笑してしまう。
「なにも覚えてないんだね」
 何度も『土曜、空いてる』と言ったことも。可愛い顔で頷いたことも。
 僕はなっちゃんに顔を寄せ、そのままベッドに押し倒した。
「なっちゃんに電話して、さっちんが出た時はショックだった。どうして二人が一緒にいるんだろうって」
 早く思い出して欲しくて、さっちんの名前を出した。なっちゃんの瞳が揺れ、手応えを感じる。
「思い出した?」
 早く。正気に戻ったなっちゃんと、早くタクシーの会話の続きがしたい。
「なっちゃん、ベロベロに酔っ払って大変だったんだよ」
「ごめん」
「ううん。おかげでなっちゃんの気持ちが知れた」
 額に張り付いた前髪を指先でそろりと退かす。そのまま指先を頬から唇へと滑らせた。
「なっちゃんが僕のこと、すごく好きだってわかった」
 酔っ払いの戯言のままにしたくない。正気のなっちゃんからも聞きたい。
「なっちゃん、すごく可愛かった」
「緑…………さっちんから……何か聞いたか?」
「何かって?」
「その……養成所のこととか……オーディションのこととか……」
 心臓に氷水をぶっかけられたような気がした。
 正気のなっちゃんは、僕とその話をしたいのだ。でもなっちゃんは優しいから、まず僕がその事実を知っているかを確かめた。
 僕は彼の優しさにつけ込んで、「ああ」と笑った。
「どんな手使って、月9ドラマの役を勝ち取ったんだって問い詰められた」
 僕が知らないフリをすれば、なっちゃんはこの話をやめると思った。
「なっちゃん?」
 小首を傾げる。卑怯な自分に自己嫌悪が込み上げた。
「そんなこと聞かれたのか?」
 なっちゃんが穏やかに微笑む。てっきり気まずげに目を逸らすだろうと思っていたから、ほっとしたような表情に戸惑った。
 なっちゃんは僕の頬を両手で挟んだ。
「特別なお前がオーディションを頑張った。それだけのことなのにな」
「っ……」
 どうして……と思った。さっちんからオーディションの話を聞いた筈なのに、どうしてなっちゃんはこんなに優しい。僕は軽蔑されるような人間なのに。
「緑、お前はすごい。本当にすごい。あの日……素直に言ってやれなくて悪かった。俺、お前に嫉妬したんだよ」
 心臓を鷲掴みされたような心地がした。
 あの日というのは、バカな僕が『月9に出演する』と二人に報告した日のことだろう。
 ずっと後悔していた。あの頃の自分は本当にバカだった。なっちゃんに「すごい」と言ってもらえるものと信じて疑わなかった。
 でもなっちゃんは、期待とは別の言葉を言った。
『あんまり、本気にしない方がいい』
 バカな自分は酷いと思った。
『大人は信用できないぞ。もしかしたら出演できなくなるかもしれない』
 でもあれは生ぬるい嫌味だった。本当はもっと怒ったり、罵倒したって良いくらいのことを僕は彼らに言ったのだ。
 なっちゃんが『悪かった』と謝るような理由なんて、どこにもない。
「なっちゃん……」
 気づいたら涙がボロボロと溢れていた。
「そんな昔のこと……気にしてくれてたの?」
「お前だって気にしてたんだろ」
 僕は首を横に振った。
「僕が悪かったんだよ。浮かれて、なっちゃんとさっちんに自慢して……二人を嫌な気持ちにさせた。褒められたいなんて傲慢だった」
 なっちゃんは僕の頬を挟む手に力を込めた。
「酒臭いけど我慢しろよ」
 グッと顔を引き寄せられ、唇が重なった。初めてのキスに全身が痺れるような興奮が湧き上がった。舌を突き入れ、角度を変えて唇を貪る。
「なっちゃん……」
 唇を離し、美しい顔を見下ろした。今すぐ彼を自分のものにしたい。僕は「なっちゃん」と名前を呼びながら、Tシャツの中に手を入れた。