土曜日、撮影の合間に会いたかったけれど、なっちゃんには予定があると断られた。十五時から十八時くらいまでという中途半端な時間だし、場所も場所だ。ダメで元々、仕方ないと納得しても、結構落ち込んだ。
 昼間は忙しく、なかなか時間を作れない。大学でなっちゃんを見かけても、なっちゃんから声をかけてくれたことは一度もない。もっと恋人らしいことをしたい。夜なら時間を作れる。でもそういう雰囲気になったとして、新堂のようになっちゃんを満足させられる自信がない。だから夜は誘わない。
 なっちゃんと付き合うことができたのに、満たされるどころか、常に焦燥感に駆られている。ずっと思い続けていた人を、拍子抜けするほどあっさり手に入れてしまったからだろうか。本当に自分のものになったのか自信がない。セックスはおろか、キスも、手を繋いだこともないのだ。まだ新堂に未練があるという可能性もある。喫煙所で聞いた限りでは、フったのは新堂からで、理由は「束縛が激しいから」
 でもなっちゃんは僕を束縛しようとしない。半ば強引に告白の返事を貰ったようなものだし、当然と言えば当然だけれど、やっぱり寂しい。新堂と僕はタイプが違う。そもそもなっちゃんは年上がタイプなのかもしれない。
 なっちゃんの声が聞きたい。予定があると言っていたから、出ないかもしれない。それならそれで、着信履歴に自分の名前を刻みたい。
『緑?』
 と出たのは、なっちゃんじゃない。なっちゃんじゃないくせに、僕を馴れ馴れしく「緑」と呼ぶから戸惑った。
「あの……あなたは……」
『なあ、緑なの? 本当に?』
 なんだこいつは? 眉を顰める。
『なんで緑となっちゃんが繋がってんの?』
 その口調にハッとした。
「……さっちん?」
『おう、久しぶりだな。俳優業、絶好調じゃん』
「あ……うん。ありがとう」
 どうしてなっちゃんのスマホをさっちんが持っているんだろう。その時、電話口からうめくような声が聞こえた。
「なっちゃんと一緒なの?」
『んっ……う……』
『ああ、一緒に飲んでたんだけど、なっちゃん潰れちゃってさ。そろそろオープンなのにどうしようって困ってたらお前から電話が来た』
 オープン? どこで飲んでいるんだろう。
「じゃあ迎えに行くよ。どこ?」
『ええ? マジ? お前らそんなに仲良いの?』
 それはこっちのセリフだ。
 養成所では三人でいたけれど、僕はさっちんのことが苦手だった。口を開けば不満ばかり言うし、なんとなく僕となっちゃんを見下しているような感じがした。
 まさか、なっちゃんとさっちんが今も会っているなんて思わなかった。
「どこに行けばいい?」
 次の仕事まで一時間ある。僕は言われた場所へ急いで向かった。
『closed』と札の掛かったドアを開けると、カウンターに突っ伏す男が目に入った。
「なっちゃん!」
「お、緑か」
 店の奥から体格の良い男が現れた。電話で話していなければ、さっちんと結びつかなかったことだろう。
「久しぶり……なっちゃん、大丈夫?」
 言いながらなっちゃんの元へ行く。肩を触ると「んっ」と小さな反応が返ってきた。顔は熱に浮かされたように赤く、Tシャツはしっとりと汗ばんでいる。
「やめとけって言ったんだけど聞かなくてさ。いつもはこんな無茶な飲み方しないんだけど……」
「何かあったの?」
「なっちゃん、大河ドラマのオーディションを受けたんだって。あ、俺らが養成所に通ってた頃の話な」
「大河……?」
「お前もこっそり月9ドラマのオーディション受けてたろ? あんな感じでなっちゃんも大河ドラマのオーディションを受けたんだよ。でも審査はされてなかった。金を多く積んだ人間が選ばれるようになってたんだよ」
「……え?」
「ああ……当事者のお前に言うのは酷だったかな。でもなっちゃんはもっと辛かったんだぜ? なっちゃんの親が金を出し渋んなきゃ、なっちゃんは大河に出られたんだ。緑の家は金持ちで羨ましいって悔しがってた」
「嘘だ」
「本当さ」
「じゃあ親に聞いてみろよ。今ここで」
 どうして。
 反発心が芽生えると同時に、聞いて、はっきりと否定の言葉をさっちんに聞かせてやりたい気もした。
 僕はポケットからスマホを取り出した。
 スマホを操作する指が、怒りで震えた。僕の人生は月9ドラマに出演したことでガラリと変わった。特別なのだ。プロデューサーに褒められて、選ばれて、どんなに嬉しかったか。自信がついたか。それを金を積んだからだなんて、冗談でも言ってほしくない。なっちゃんにそう言ったのだとしたら……
 僕はさっちんを睨みつけながら、スマホを口の前に運んだ。
 スピーカーに設定されたスマホから、発信音が鳴り響く。
『緑? どうしたの?』
「母さん、急にごめん。今って大丈夫?」
『大丈夫よ。どうかした?』
「あのさ……『クラゲの季節』ってあったでしょ。僕が初めて名前のある役を貰った」
『ええ、わかるわ』
「あの役って、金で買ったわけじゃないよね?」
 間が開いた。
「母さん?」
 まだ答えない。おかしい。
「母さん? どうしたの?」
 さっちんが勝ち誇ったような笑みを浮かべ、僕は足元が崩れていくような絶望に襲われた。軽い口調を意識した唇が、不自然な笑みを浮かべてしまう。
「ごめん、変なこと聞いて。変な噂を聞いたから気になって……」
 きっと通信環境の問題だ。一旦切ろうと、スマホを口から離した時だった。
『五百万円払えば、あなたを使ってくれるって言われて……』
「っ……」
『でも、結果的に良かったわよね。あれに出たおかげであなたは有名になれたんだし、あなたの稼ぎを思えば、五百万なんて安いもんよ。子供には投資しないとね。私は後悔してないわ』
 通話を切った。
「言った通りだろ?」
 さっちんが愉快げに言う。僕は相手にしないでなっちゃんの肩を叩いた。
「なっちゃん、帰ろうか」
「ん……」
「ヨウヘイ、だっけ? お前は金であの役を買ったんだ。よかったな。そこそこ裕福な家庭に生まれて」
「なっちゃん、立てる?」
「なっちゃんが気の毒だよ。金があれば大河に出られて、お前みたいに人気者になれたのに」
 ぐったりとテーブルに突っ伏すなっちゃんを後ろから引き起こした
「恥を知れよ、緑。お前の才能は、演技力でも容姿でもない。お前のたった一つの才能は、家庭環境だ。どうしても自分の子供を有名人にしたいっていう欲深い母親と、それを叶えられる経済力を持つ家庭に生まれたこと。それがお前の才能なんだよ」
 僕はなっちゃんの腕を肩に回した。踏み出した足がひどく重いのは、なっちゃんを支えていることだけが原因ではないだろう。視界が広がったり狭まったり、まるで泥酔しているように景色が変わる。店を出るのにどれくらい時間を要したのかも、どうやってタクシーを捕まえたのかも記憶はおぼろげだ。
「どちらまで?」
 というタクシー運転手の声で我に返る。ここで吐くなよ、と言いたげな迷惑そうな視線をミラー越しに受けながら、僕は自宅マンションを口にした。
 気持ちはどこまでも暗く沈んでいく。あの役は五百万で買ったものだった。その事実が衝撃的すぎて、まだうまく飲み込めない。
 ぐったりと僕の肩に寄りかかるなっちゃんを見る。それを聞いたなっちゃんはどう思っただろう。考えただけで吐き気が込み上げた。「うっ」と前にのめる。
「お客さん? 大丈夫? コンビニ寄ろうか?」
 それには答えず、胸を押さえ、なんとか吐き気をやり過ごした。今は一刻も早く家に帰りたい。その時ブルっとスマホが震えた。
 ああ、撮影の時間だ。
 ポケットからスマホを取り出す。見なくてもマネージャーだと確信した。心配しているだろうから、早く出ないと。
 タクシーが揺れ、手からスマホがするりと落ちた。さっきまであった責任感がスマホと一緒に体から抜け落ちたようだった。鳴り続けるスマホを、もう取る気にはなれなかった。
 なっちゃんが身を屈め、僕のスマホを手に取った。通話ボタンをタップし、スマホを耳に当てる。
「みろり?」
 なっちゃんはスマホに向かって舌足らずに言った。
「どろう、あいれる」
 怒ったような女の声が聞こえ、なっちゃんは首を傾げた。
「なっちゃん、貸してっ」
 僕は慌ててなっちゃんからスマホを奪った。なっちゃんはそこで初めて僕の存在に気づいたように、猫のような目を丸くした。
「みろり?」
「もしもし、高木さん?」
『影山くんっ? 一体どこで何やってるのっ!? もう撮影始まってるわよっ!?』
「すみま」
 言う途中でなっちゃんにスマホを奪われた。
「あっ!」
 通話を切られる。またすぐに鳴ったが、なっちゃんが切った。
「お前は俺のらろ。よそ見すんら」
 怒っている……のだろうか。キッと睨まれ、狼狽えた。
「どろう、あいれるから」
 全然呂律が回っていない。可愛いけれど、なっちゃんの言葉がわからないのは辛い。
「どろう? あいれる?」
 聞き返すと、なっちゃんはムッと目尻を吊り上げた。
「ごめんなっちゃん……もう一回言って?」
「どろう、あいれる」
「どろうあいれる?」
「土曜、会いてる、じゃないですか?」
 タクシー運転手が言い、なっちゃんは大きく頷いた。
 土曜は今日だ。それに今日の誘いはとっくに断られている。
「土曜、会いてるの? 僕と遊んでくれるってこと?」
 でもなっちゃんの本心が知りたくて、僕は勘違いに付き合った。
「うん」
 なっちゃんはニコニコと微笑み、頷いた。
 無愛想ではないが、なっちゃんは笑顔を振り撒くようなタイプじゃない。普段は近寄りがたいクール系……なのだが、これはかなり酔っているのではないか。
 なっちゃんは僕の胸に寄りかかった。悶えるように頭を振る。
「おまえろ遊る。お前ろあそれるならなんりらっれいい」
「お前と遊ぶ。お前と遊べるなら何時だっていい」
 タクシー運転手が訳してくれた。感謝したのも束の間、「おたくら、付き合ってるの?」と問われて息が止まった。
「お似合いらろ?」
 なっちゃんは運転席に身を乗り出した。
「ちょっとお客さん! シートベルトつけて! ジッとしてて!」
 運転手が鬱陶しそうに言う。
「なっちゃんっ」
 僕はなっちゃんの体を後ろから抱きしめた。その瞬間、なっちゃんは「うげっ」と奇妙な声を発し、車内を地獄絵図にした。