控室のテーブルにスマホが置かれていた。忘れ物だろうか。さっきまでこの部屋にはスタイリストやヘアメイクが出入りしていた。
手に取ると、画面が光った。ロック画面にされた写真にドクンと心臓が跳ねる。写真の男が、僕の初恋の人に似ていたからだ。記憶の中の初恋の人は十歳から成長していない。写真の男は大学生くらいで、髪を明るく染めている。それなのに似ている、と思った。ディズニーランドだろう。背後にミッキーマウスの花壇がある。写真は名前を呼ばれて振り返った瞬間、という感じだ。
「なっちゃん……」
声が甘ったるく響いた。まるで僕の声に反応したような写真の彼を食い入るように見つめる。画面が暗くなり、すかさず画面をタップした時だった。
「ああ、お疲れ様です。ここにスマホなかったですか?」
部屋に入ってきたのは、ヘアセット担当の新堂だった。代官山のサロンに勤めるカリスマ美容師だ。ウェットな黒髪パーマと洒落た顎髭が男臭い顔によく似合っている。
「これ……ですか?」
「あ、それです。良かったー」
新堂が近づいてくる。僕は差し出された手にスマホを返した。
「ロック画面の人、モデルですか?」
「いや、恋人です」
あっさり答えるから驚いた。
「恋人……」
「ああ……俺バイなんですよ」
絶句していると、「あ、もしかしてそういうのダメな人でした?」と困ったように言われて慌ててかぶりを振った。
「いや……ただ、驚いて……素敵な方ですね、写真の人」
「うわー、そんなこと言われたら泣いちゃいますよ、彼」
「え?」
「彼、影山さんのファンなんです。別にファンじゃないって本人は言うんだけど、バラエティ番組までチェックしてるなんて相当だと思いません? インスタライブもしょっちゅう見てるし」
カッと耳が熱くなった。もっと彼の情報を聞き出すにはどうしたら良いだろう。
「じゃあサインでも書きましょうか。新堂さんにはお世話になってるし」
そうすれば名前が分かる。
「本当にありがたいんですけど、遠慮させてください。影山さんと仕事していること、彼には内緒にしたいんです。言ったら質問攻めに合いそうで」
「そう……ですか」
「本当はインスタライブ見るのだって控えてほしいくらいなんですよ。芸能人に嫉妬するなんてみっともないけど」
新堂は「じゃあ」と部屋を出て行こうとする。
「たぶんその人……」
引き留めたくて、思い切って言った。なっちゃんだという確信が欲しい。
「僕、友達かもしれないです」
ドアノブに手をかけた新堂が振り返る。
「天谷渚……って名前じゃないですか?」
新堂の目がカッ開いて、確信する。
「やっぱりそうですよね? 僕たち、同じ養成所に通っていたんです」
興奮して、声が上擦った。
「養成所?」
新堂は眉をひそめた。
「なっちゃんから聞いていませんか? 三年くらい一緒にレッスンを受けてたんです。なっちゃん、すごく演技がうまくて、僕の憧れだったんです」
学校に友達はいなかった。養成所で初めて友達と呼べる存在ができた。それがなっちゃん。かっこよくて優しい僕の憧れ。毎週のレッスンが楽しみで仕方がなかった。
「ああ…………聞いてませんね」
どうしたのだろう。声に棘がある。顔つきも険しい。
「きっと隠したかったんだろうな。養成所に通ってたことも、影山さんと知り合いだってことも」
新堂は体ごと僕を向いた。
「俺は、人に打ち明けにくい夢の一位って、芸能人だと思うんです。歌手とか俳優とかタレントとか全般。芸能人を目指してるって、夢が叶うかわからない段階で人に言うのは、すごく勇気のいることだと俺は思う」
新堂の口調は批判的だ。
「ひょっとすると人によっては、ゲイだってバラされるより嫌かもしれない」
具体的な例えにヒヤリとした。僕の初恋はなっちゃんで、性的興奮は男にしかしない。それをバラされるなんて考えただけでゾッとする。
この人は何が言いたい? 僕の発言は、ゲイとアウティングするのと同じだと言いたいのか?
「芸能界で成功している影山さんんとっては、養成所は楽しい思い出の場所なのかもしれない。でも渚にとっては初めて挫折を味わった場所だ。渚は街でスカウトされても絶対に応じない。バイト代弾むよって言っても、サロンモデルすら引き受けてくれない。あんなに綺麗な顔なのに、人前に出ることを異様に嫌うんです。なんでそんなに自己肯定感が低いんだろうって不思議でしたけど、養成所に通っていたからなんですね」
新堂は卑屈に笑った。
「その上、売れっ子の影山緑と一緒じゃ、悔しくてたまらないでしょうね」
新堂はそう言って背を向けた。体のどこを探しても、返す言葉が見つからなかった。学校がつまらなかった僕にとって、養成所は救いだった。週末になればなっちゃんに会える。孤独じゃなくなる。そう思いながら平日を乗り切った。
でもなっちゃんは違う。なっちゃんにとって養成所は初めて挫折を味わった場所……
なっちゃんは僕と友達だということを恋人にも言わない。たいして仲良くもないのに「影山緑と友達」と吹聴する人間は多いが、その逆はほとんどない。なっちゃんにとっては、僕の存在すらも目障りなんだろうか……
いや、僕が出演するものはチェックしていると新堂は言っていた。目障りならテレビのチャンネルを変えるだろう。期待して良いのかな、と思う。遠い存在だと思っていたなっちゃんが思わぬ距離にいたことで、どうしようもなく会いたくなった。
「新堂さんっ」
僕は控室を飛び出し、新堂を追いかけた。新堂に嫌われようが構わない。僕もなっちゃんの生活に近づきたい。
なっちゃんと同じ大学に願書を出した時、なっちゃんの生活に近づきたいというささやかな願望は手に入れたいに昇華した。
でもなっちゃんには恋人がいる。芸能人の中にいても違和感のない、華と色気のある大人の男。
新堂と仕事をした人は揃って「その香水どこのですか?」と新堂に問う。美容にもファッションにも詳しい新堂は芸能人からも一目置かれている。「抱かれたい男」の美容師版があったら、新堂はダントツの一位だろう。なっちゃんは、どんなふうに抱かれているのだろうか。
「あ、新堂さーん」
映画プロデューサーの自宅でパーティーがあった。新堂が来ているとは知らず、プールサイドに視線をやると、グラスワインを持った新堂と、若手芸人が並んでいた。
「この前はありがとうございました。新堂さんのドM彼女、感じやすくてマジで良かったです!」
「ゲホっ」
若手芸人の発言に驚いて、思わずむせてしまった。口元を抑え、二人を見る。二人とも僕には気付いていない。
僕はこっそり二人の背後に回った。大きな野外プールには、売り出し中のグラビアアイドルやモデルが小さなビキニを着てはしゃいでいる。
「いやー、またお願いしますよ。あの子ほんと良かったなあ……俺、飲尿プレイ初めてしましたよ」
なんて話をしているんだ……
僕は信じられない思いで二人を凝視した。新堂はワイングラスを優雅に揺らす。
「そうですね。今月末にでもまた集まりましょうか」
「やった!」
「へえ、新堂さんの恋人、異常性癖に付き合ってくれるようになったんだ?」
女優が近づいていく。
「素質があったんですよ。今じゃ目隠しするだけで勃起します」
「すごいんすよぉ、乳首つねっただけでヒイヒイ泣いてヨガって」
胃の奥がキリキリした。吐き気が込み上げ、僕はトイレに駆け込んだ。
なっちゃんがいるから選んだ大学なのに、あんな話を聞いてしまったせいで声を掛ける勇気が出なかった。なっちゃんの顔を見たらきっと新堂との夜を想像して、吐き気に襲われるような気がした。
別れたと知ったのは、ドラマの撮影がひと段落ついた六月半ばのことだった。テレビ局の喫煙所であの芸人と新堂が話していた。
「えっ、別れちゃったんすか?」
「はい、色々あって」
「うわー、残念だなあ。あのエロい体を拝めないなんて……」
なっちゃんがフリーだと思ったら、いてもたってもいられなかった。
翌日、僕はあんなに避けていた大学へまんまと向かった。
手に取ると、画面が光った。ロック画面にされた写真にドクンと心臓が跳ねる。写真の男が、僕の初恋の人に似ていたからだ。記憶の中の初恋の人は十歳から成長していない。写真の男は大学生くらいで、髪を明るく染めている。それなのに似ている、と思った。ディズニーランドだろう。背後にミッキーマウスの花壇がある。写真は名前を呼ばれて振り返った瞬間、という感じだ。
「なっちゃん……」
声が甘ったるく響いた。まるで僕の声に反応したような写真の彼を食い入るように見つめる。画面が暗くなり、すかさず画面をタップした時だった。
「ああ、お疲れ様です。ここにスマホなかったですか?」
部屋に入ってきたのは、ヘアセット担当の新堂だった。代官山のサロンに勤めるカリスマ美容師だ。ウェットな黒髪パーマと洒落た顎髭が男臭い顔によく似合っている。
「これ……ですか?」
「あ、それです。良かったー」
新堂が近づいてくる。僕は差し出された手にスマホを返した。
「ロック画面の人、モデルですか?」
「いや、恋人です」
あっさり答えるから驚いた。
「恋人……」
「ああ……俺バイなんですよ」
絶句していると、「あ、もしかしてそういうのダメな人でした?」と困ったように言われて慌ててかぶりを振った。
「いや……ただ、驚いて……素敵な方ですね、写真の人」
「うわー、そんなこと言われたら泣いちゃいますよ、彼」
「え?」
「彼、影山さんのファンなんです。別にファンじゃないって本人は言うんだけど、バラエティ番組までチェックしてるなんて相当だと思いません? インスタライブもしょっちゅう見てるし」
カッと耳が熱くなった。もっと彼の情報を聞き出すにはどうしたら良いだろう。
「じゃあサインでも書きましょうか。新堂さんにはお世話になってるし」
そうすれば名前が分かる。
「本当にありがたいんですけど、遠慮させてください。影山さんと仕事していること、彼には内緒にしたいんです。言ったら質問攻めに合いそうで」
「そう……ですか」
「本当はインスタライブ見るのだって控えてほしいくらいなんですよ。芸能人に嫉妬するなんてみっともないけど」
新堂は「じゃあ」と部屋を出て行こうとする。
「たぶんその人……」
引き留めたくて、思い切って言った。なっちゃんだという確信が欲しい。
「僕、友達かもしれないです」
ドアノブに手をかけた新堂が振り返る。
「天谷渚……って名前じゃないですか?」
新堂の目がカッ開いて、確信する。
「やっぱりそうですよね? 僕たち、同じ養成所に通っていたんです」
興奮して、声が上擦った。
「養成所?」
新堂は眉をひそめた。
「なっちゃんから聞いていませんか? 三年くらい一緒にレッスンを受けてたんです。なっちゃん、すごく演技がうまくて、僕の憧れだったんです」
学校に友達はいなかった。養成所で初めて友達と呼べる存在ができた。それがなっちゃん。かっこよくて優しい僕の憧れ。毎週のレッスンが楽しみで仕方がなかった。
「ああ…………聞いてませんね」
どうしたのだろう。声に棘がある。顔つきも険しい。
「きっと隠したかったんだろうな。養成所に通ってたことも、影山さんと知り合いだってことも」
新堂は体ごと僕を向いた。
「俺は、人に打ち明けにくい夢の一位って、芸能人だと思うんです。歌手とか俳優とかタレントとか全般。芸能人を目指してるって、夢が叶うかわからない段階で人に言うのは、すごく勇気のいることだと俺は思う」
新堂の口調は批判的だ。
「ひょっとすると人によっては、ゲイだってバラされるより嫌かもしれない」
具体的な例えにヒヤリとした。僕の初恋はなっちゃんで、性的興奮は男にしかしない。それをバラされるなんて考えただけでゾッとする。
この人は何が言いたい? 僕の発言は、ゲイとアウティングするのと同じだと言いたいのか?
「芸能界で成功している影山さんんとっては、養成所は楽しい思い出の場所なのかもしれない。でも渚にとっては初めて挫折を味わった場所だ。渚は街でスカウトされても絶対に応じない。バイト代弾むよって言っても、サロンモデルすら引き受けてくれない。あんなに綺麗な顔なのに、人前に出ることを異様に嫌うんです。なんでそんなに自己肯定感が低いんだろうって不思議でしたけど、養成所に通っていたからなんですね」
新堂は卑屈に笑った。
「その上、売れっ子の影山緑と一緒じゃ、悔しくてたまらないでしょうね」
新堂はそう言って背を向けた。体のどこを探しても、返す言葉が見つからなかった。学校がつまらなかった僕にとって、養成所は救いだった。週末になればなっちゃんに会える。孤独じゃなくなる。そう思いながら平日を乗り切った。
でもなっちゃんは違う。なっちゃんにとって養成所は初めて挫折を味わった場所……
なっちゃんは僕と友達だということを恋人にも言わない。たいして仲良くもないのに「影山緑と友達」と吹聴する人間は多いが、その逆はほとんどない。なっちゃんにとっては、僕の存在すらも目障りなんだろうか……
いや、僕が出演するものはチェックしていると新堂は言っていた。目障りならテレビのチャンネルを変えるだろう。期待して良いのかな、と思う。遠い存在だと思っていたなっちゃんが思わぬ距離にいたことで、どうしようもなく会いたくなった。
「新堂さんっ」
僕は控室を飛び出し、新堂を追いかけた。新堂に嫌われようが構わない。僕もなっちゃんの生活に近づきたい。
なっちゃんと同じ大学に願書を出した時、なっちゃんの生活に近づきたいというささやかな願望は手に入れたいに昇華した。
でもなっちゃんには恋人がいる。芸能人の中にいても違和感のない、華と色気のある大人の男。
新堂と仕事をした人は揃って「その香水どこのですか?」と新堂に問う。美容にもファッションにも詳しい新堂は芸能人からも一目置かれている。「抱かれたい男」の美容師版があったら、新堂はダントツの一位だろう。なっちゃんは、どんなふうに抱かれているのだろうか。
「あ、新堂さーん」
映画プロデューサーの自宅でパーティーがあった。新堂が来ているとは知らず、プールサイドに視線をやると、グラスワインを持った新堂と、若手芸人が並んでいた。
「この前はありがとうございました。新堂さんのドM彼女、感じやすくてマジで良かったです!」
「ゲホっ」
若手芸人の発言に驚いて、思わずむせてしまった。口元を抑え、二人を見る。二人とも僕には気付いていない。
僕はこっそり二人の背後に回った。大きな野外プールには、売り出し中のグラビアアイドルやモデルが小さなビキニを着てはしゃいでいる。
「いやー、またお願いしますよ。あの子ほんと良かったなあ……俺、飲尿プレイ初めてしましたよ」
なんて話をしているんだ……
僕は信じられない思いで二人を凝視した。新堂はワイングラスを優雅に揺らす。
「そうですね。今月末にでもまた集まりましょうか」
「やった!」
「へえ、新堂さんの恋人、異常性癖に付き合ってくれるようになったんだ?」
女優が近づいていく。
「素質があったんですよ。今じゃ目隠しするだけで勃起します」
「すごいんすよぉ、乳首つねっただけでヒイヒイ泣いてヨガって」
胃の奥がキリキリした。吐き気が込み上げ、僕はトイレに駆け込んだ。
なっちゃんがいるから選んだ大学なのに、あんな話を聞いてしまったせいで声を掛ける勇気が出なかった。なっちゃんの顔を見たらきっと新堂との夜を想像して、吐き気に襲われるような気がした。
別れたと知ったのは、ドラマの撮影がひと段落ついた六月半ばのことだった。テレビ局の喫煙所であの芸人と新堂が話していた。
「えっ、別れちゃったんすか?」
「はい、色々あって」
「うわー、残念だなあ。あのエロい体を拝めないなんて……」
なっちゃんがフリーだと思ったら、いてもたってもいられなかった。
翌日、僕はあんなに避けていた大学へまんまと向かった。


