誰かに髪を撫でられている。指先が髪の中に入り込み、地肌を直接触れられる。一体誰の手だろう。指はスルリと頬へと流れ、唇を軽く押しつぶした。
薄目を開ける。目に入ったのは鍛えられた腹だった。腰には白いタオルが巻かれている。指は動揺することなく俺の唇に触れ続け、中に入った。
目を閉じ、指を軽く吸い上げる。驚いたように口の中で指が跳ねた。
節高の長い指。ぼんやりとする頭で綺麗だなと思う。出ていかない指を、甘えるように吸い続けた。
「なっちゃん」
声に驚いて、ガジッと指を噛んだ。
「いたっ」
口の中に血の味が広がる。
「むっ……わっ、わるいっ!」
口を離し、体を起こす。俺は身に覚えのないグレーのTシャツを着ていた。ここはと部屋を見回す。ダークカラーで統一された部屋には大きなベッドが一つ。
寝るだけの部屋。ワンルームに生活必需品が全て揃った俺のアパートとは大違いだ。一瞬、ホテルかと思ったが、開けられたクローゼットには服がびっしりと掛けられている。その中にはSNSで目にしたシャツもあった。仄かな明かりは天井からだ。カーテンの向こうは暗い。
「指……血が……っ」
緑は冷静だった。血が滴り落ちないよう、器用に指の角度を変える。血の流れを楽しんでいるようにも見えた。
今、何時だろう。ようやく頭が冴えてきて、この状況は何なのかと思考が動く。
「俺……どうして……」
頭がひどく重かった。吐き出す息は酒臭い。緑と飲んでいたのか? 全然思い出せない。
「舐めて」
動き出した思考がピタリと止まった。目の前に、赤く染まった指が差し出される。
「なっちゃん、舐めて」
「緑……教えてくれ……俺、何も覚えてない」
「舐めたら思い出すよ」
シーツに滴り落ちそうな血の膨らみを見たら、舐めなければ、と思った。付け根まで口に含み、鉄臭い血を吸い上げる。どうしてこうなったか知りたいのに、頭は働くどころか朦朧としていく。
「思い出した?」
微笑まれ、ドキッと胸が跳ねた。
「僕ね、なっちゃんは同情で付き合ってくれたんじゃないかってずっと不安だった。声をかけるのはいつも僕で、なっちゃんは僕に気付いても見てるだけだから」
声をかけなかったのは見惚れていたからだ。気づかれていないと思っていたのに、緑は俺の視線に気づいていた。恥ずかしさが込み上げ、指から口を離し、顔を背けた。
「待たせてももらえないし」
「人を待たせるの、嫌なんだよ」
「僕は待ちたい。待ってでもなっちゃんと遊びたい」
「今日は……俺たち……何してたんだ?」
「なにも覚えてないんだね」
緑はふふっと笑った。顔が近づく気配。身を引こうとすると、体ごとグッと距離を詰められ、背中からベッドに押し倒された。緑に見下ろされる格好となり、心臓がうるさい。
「なっちゃんに電話して、さっちんが出た時はショックだった。どうして二人が一緒にいるんだろうって」
さっちん、の名前でおぼろげに記憶が戻った。
店で酔い潰れた俺を、緑がここまで運んでくれたのだ。
緑は、さっちんからオーディションの話を聞いてしまっただろうか。
「思い出した?」
緑は薄く笑った。
「なっちゃん、ベロベロに酔っ払って大変だったんだよ」
「ごめん」
「ううん。おかげでなっちゃんの気持ちが知れた」
額に張り付いた前髪を指先でそろりと退かされる。指先は頬へと流れ落ち、唇に触れた。血の味がする。
「なっちゃんが僕のこと、すごく好きだってわかった」
自分が緑に対して何を言ったのか、全く思い出せない。
「なっちゃん、すごく可愛かった」
嬉しそうな瞳を覗いても、さっちんと緑が何を話したのかはわからない。
「緑…………さっちんから……何か聞いたか?」
「何かって?」
「その……養成所のこととか……オーディションのこととか……」
ああ、と緑は笑った。
「どんな手使って、月9ドラマの役を勝ち取ったんだって問い詰められた」
さっちんは言わなかったのだ。言わなくても、訴訟を起こせばわかること。
緑が最もダメージを受けるタイミングでその事実を知るように、さっちんは言わずに取っておいたのだ。
さらにそう問うことで、緑がキャスティングの裏事情を知っているのか探ったのだ。
「なっちゃん?」
緑が小首を傾げる。何も知らない彼をたまらなく愛おしいと思った。
「そんなこと聞かれたのか?」
微笑み、俺は両手で緑の頬を挟み込んだ。
「特別なお前がオーディションを頑張った。それだけのことなのにな」
緑の切長の目が大きく見開かれた。
僕、嘘なんかついてないもん。
両目に涙を浮かべた幼い顔が、端正な顔と重なった。あの時、俺は彼の欲する言葉とは全く別の言葉で彼を傷つけ、泣かせてしまった。ずっと後悔していた。
「緑、お前はすごい。本当にすごい。あの日……素直に言ってやれなくて悪かった。俺、お前に嫉妬したんだよ」
「なっちゃん……」
緑の目から涙がこぼれた。苦しそうに眉根を寄せる。
「そんな昔のこと……気にしてくれてたの?」
「お前だって気にしてたんだろ」
緑は首を横に振った。
「僕が悪かったんだよ。浮かれて、なっちゃんとさっちんに自慢して……二人を嫌な気持ちにさせた。褒められたいなんて傲慢だった」
緑。可愛い緑。そんなことを気にしていたなんて。
挟んだ頬をぐりぐりと圧迫した。歪んでも美しい顔にキスしたいと思った。
「酒臭いけど我慢しろよ」
グッと彼の顔を引き寄せ、唇を重ねた。戸惑うようなぎこちない唇は、途中からスイッチが入ったように激しく吸い付いてきた。
本当に俺のことを好きなんだな、と思う。こんなに酒臭いのに舌まで突っ込んでくる。
「なっちゃん……」
緑のために、なんとしても訴訟を止めさせなければ。
薄目を開ける。目に入ったのは鍛えられた腹だった。腰には白いタオルが巻かれている。指は動揺することなく俺の唇に触れ続け、中に入った。
目を閉じ、指を軽く吸い上げる。驚いたように口の中で指が跳ねた。
節高の長い指。ぼんやりとする頭で綺麗だなと思う。出ていかない指を、甘えるように吸い続けた。
「なっちゃん」
声に驚いて、ガジッと指を噛んだ。
「いたっ」
口の中に血の味が広がる。
「むっ……わっ、わるいっ!」
口を離し、体を起こす。俺は身に覚えのないグレーのTシャツを着ていた。ここはと部屋を見回す。ダークカラーで統一された部屋には大きなベッドが一つ。
寝るだけの部屋。ワンルームに生活必需品が全て揃った俺のアパートとは大違いだ。一瞬、ホテルかと思ったが、開けられたクローゼットには服がびっしりと掛けられている。その中にはSNSで目にしたシャツもあった。仄かな明かりは天井からだ。カーテンの向こうは暗い。
「指……血が……っ」
緑は冷静だった。血が滴り落ちないよう、器用に指の角度を変える。血の流れを楽しんでいるようにも見えた。
今、何時だろう。ようやく頭が冴えてきて、この状況は何なのかと思考が動く。
「俺……どうして……」
頭がひどく重かった。吐き出す息は酒臭い。緑と飲んでいたのか? 全然思い出せない。
「舐めて」
動き出した思考がピタリと止まった。目の前に、赤く染まった指が差し出される。
「なっちゃん、舐めて」
「緑……教えてくれ……俺、何も覚えてない」
「舐めたら思い出すよ」
シーツに滴り落ちそうな血の膨らみを見たら、舐めなければ、と思った。付け根まで口に含み、鉄臭い血を吸い上げる。どうしてこうなったか知りたいのに、頭は働くどころか朦朧としていく。
「思い出した?」
微笑まれ、ドキッと胸が跳ねた。
「僕ね、なっちゃんは同情で付き合ってくれたんじゃないかってずっと不安だった。声をかけるのはいつも僕で、なっちゃんは僕に気付いても見てるだけだから」
声をかけなかったのは見惚れていたからだ。気づかれていないと思っていたのに、緑は俺の視線に気づいていた。恥ずかしさが込み上げ、指から口を離し、顔を背けた。
「待たせてももらえないし」
「人を待たせるの、嫌なんだよ」
「僕は待ちたい。待ってでもなっちゃんと遊びたい」
「今日は……俺たち……何してたんだ?」
「なにも覚えてないんだね」
緑はふふっと笑った。顔が近づく気配。身を引こうとすると、体ごとグッと距離を詰められ、背中からベッドに押し倒された。緑に見下ろされる格好となり、心臓がうるさい。
「なっちゃんに電話して、さっちんが出た時はショックだった。どうして二人が一緒にいるんだろうって」
さっちん、の名前でおぼろげに記憶が戻った。
店で酔い潰れた俺を、緑がここまで運んでくれたのだ。
緑は、さっちんからオーディションの話を聞いてしまっただろうか。
「思い出した?」
緑は薄く笑った。
「なっちゃん、ベロベロに酔っ払って大変だったんだよ」
「ごめん」
「ううん。おかげでなっちゃんの気持ちが知れた」
額に張り付いた前髪を指先でそろりと退かされる。指先は頬へと流れ落ち、唇に触れた。血の味がする。
「なっちゃんが僕のこと、すごく好きだってわかった」
自分が緑に対して何を言ったのか、全く思い出せない。
「なっちゃん、すごく可愛かった」
嬉しそうな瞳を覗いても、さっちんと緑が何を話したのかはわからない。
「緑…………さっちんから……何か聞いたか?」
「何かって?」
「その……養成所のこととか……オーディションのこととか……」
ああ、と緑は笑った。
「どんな手使って、月9ドラマの役を勝ち取ったんだって問い詰められた」
さっちんは言わなかったのだ。言わなくても、訴訟を起こせばわかること。
緑が最もダメージを受けるタイミングでその事実を知るように、さっちんは言わずに取っておいたのだ。
さらにそう問うことで、緑がキャスティングの裏事情を知っているのか探ったのだ。
「なっちゃん?」
緑が小首を傾げる。何も知らない彼をたまらなく愛おしいと思った。
「そんなこと聞かれたのか?」
微笑み、俺は両手で緑の頬を挟み込んだ。
「特別なお前がオーディションを頑張った。それだけのことなのにな」
緑の切長の目が大きく見開かれた。
僕、嘘なんかついてないもん。
両目に涙を浮かべた幼い顔が、端正な顔と重なった。あの時、俺は彼の欲する言葉とは全く別の言葉で彼を傷つけ、泣かせてしまった。ずっと後悔していた。
「緑、お前はすごい。本当にすごい。あの日……素直に言ってやれなくて悪かった。俺、お前に嫉妬したんだよ」
「なっちゃん……」
緑の目から涙がこぼれた。苦しそうに眉根を寄せる。
「そんな昔のこと……気にしてくれてたの?」
「お前だって気にしてたんだろ」
緑は首を横に振った。
「僕が悪かったんだよ。浮かれて、なっちゃんとさっちんに自慢して……二人を嫌な気持ちにさせた。褒められたいなんて傲慢だった」
緑。可愛い緑。そんなことを気にしていたなんて。
挟んだ頬をぐりぐりと圧迫した。歪んでも美しい顔にキスしたいと思った。
「酒臭いけど我慢しろよ」
グッと彼の顔を引き寄せ、唇を重ねた。戸惑うようなぎこちない唇は、途中からスイッチが入ったように激しく吸い付いてきた。
本当に俺のことを好きなんだな、と思う。こんなに酒臭いのに舌まで突っ込んでくる。
「なっちゃん……」
緑のために、なんとしても訴訟を止めさせなければ。


