緑は目立つ。いつも俺の方が緑を先に見つけている自信がある。でも声は掛けない。相手が気づいていないのを良いことに、ここぞとばかりに整った容姿をガン見する。
 俺に気づいた緑がパッと表情を綻ばせた。
「なっちゃん……っ!」
 歩幅も体つきもあの頃とは違うが、俺を見付けるなり無邪気に駆け寄ってくる姿はあの頃のままだ。思わず頬が緩んだ。
「なっちゃん、今日もう終わり?」
「まだゼミが残ってる」
「じゃあ待ってようかな。終わったら遊ぼうよ」
 緑と付き合って二週間が経つ。会うのは大学内だけで、まだ互いの家も知らない。
「……遅くなるかもしれないから」
 犯罪心理学を専門とする松田ゼミの学生は三、四年生合わせてたったの七人。ゼミ生はみな研究熱心で、講義後もゼミ室に残って資料を集めたり、松田教授に質問するのがお決まりのパターンだ。別に強制ではないのだから、講義終了後は帰っても問題ないのだが、万が一聞かれた時に「緑と遊ぶため」とは言いにくい。
 それに、単純に緑を待たせたくない。緑は俺を好いている。どうにか時間を作ろうとしているのがわかる。それでも週末の誘いがないことに、緑の多忙さが窺い知れる。
 緑は人気俳優だ。大事な時間を、俺を待つのに消費して欲しくない。
「そっか……あのさなっちゃん、次の土曜って時間ある?」
 緑が気を取り直すように聞いてきた。あると答える前に、緑は続けた。
「十五時から十八時くらいまで時間あるんだ。汐留で会えないかな?」
 浮上しかけた気持ちがスッと萎んだ。そんな中途半端な時間に会って、どうすんだよ。
 少しでも会いたいという気持ちは嬉しい。けれど汐留なんて、俺からしたらただのオフィス街で、大学生が遊ぶような場所じゃない。撮影の合間に会おうとしているのは明らかだった。
「あー、どうだろ。明日にならないと分からない」
「じゃあ明日教えて」
「わかった」
 なんとか笑顔で答え、別れた。
 自己嫌悪に駆られたのはすぐだった。予定があるわけでもないのに、駆け引きのように返事を先延ばした自分の心の狭さにうんざりした。
 今すぐ「ある」と答えよう。それしかないじゃないか、と今なら思う。せっかく休日に会えるのに、断る理由はどこにもない。
 スマホを取り出そうとした時、着信があった。未登録の電話番号は緑だろうか。緑とのやりとりはラインがメインで、電話は使っていない。
『なっちゃん』
 低いのに、よく通る澄んだ声。
『久しぶり。俺のことわかる?』
「……すみません。どなた様でしょうか」
 電話口の男は『ハハっ』と笑った。
「もしかして、さっちん?」
『あ、わかった? せいかーい』
 どうして、さっちんが俺に?

 梅雨入りしたのかと思うほど雨が続いていたが、雲ひとつない晴天だ。
 土曜。赤坂駅直結のタワービルのロビーには、業界人風の男たちが行き交う。
 一人の大柄な男が目についた。清潔感のある短い黒髪。紺色のポロシャツにチノパンツというクラシカルなスタイルも、精悍な面差しと均整のとれた逞しい体によく似合っている。
 男と目が合い、俺は慌ててスマホ画面に視線を落とした。さっちんから『もうすぐつくよ』とメッセージが届いたのは五分前。そろそろ来るはずだが……
「もしかして、なっちゃん?」
「えっ……」
 と顔を上げる。電話で聞いた声と同じだ。俺を『なっちゃん』と呼ぶのは養成所時代の友達だけ。けれど彼がさっちん? 小太りの童顔で記憶していたから、精悍な顔の彼と結びつかない。
「……さっちん?」
 おそるおそる問うと、男の顔が破顔した。
「わあ、マジでなっちゃん? かっこいいから芸能人かと思ったよ」
 溌剌とした口調はいかにも体育会系だ。
「弁護士目指してるって聞いたけど、もしかして芸能活動とかやってる?」
 さっちんは俺の電話番号を母から聞いたと言っていた。弁護士を目指しているということも、母から聞いたのだろう。
「いや、芸能活動は何も……」
「そんなヒマないよな」
 さっちんは友好的に笑った。
「ゆっくり話がしたい。どこか店に入ろうか」
「あ……うん。そうだな」
 さっちんも弁護士志望だ。電話では、弁護士を目指す者同士で情報交換がしたいと言っていた。
 大股で歩くさっちんの隣を歩きながら、本当にそうだろうか、と思う。そもそもさっちんがまず連絡をしたのは俺の実家だ。そこでさっちんは、俺が弁護士を目指していると知った。
「さっちんはさ、どうして俺の実家に連絡したの?」
「後で説明する。外でできる話じゃないんだ」
 そう言われてしまうと何も言えない。
 さっちんは『closed』と札の掛かった店に躊躇なく入った。
 カウンター席だけの奥に長い店内には、誰もいない。
 さっちんが後ろ手にドアを閉めると、店内を照らすのは淡いオレンジ色の明かりだけとなり、昼なのか夜なのかわからない。
「知り合いの店なんだ。ここ座って」
 中央の椅子を片手で引き出し、さっちんはカウンターの中へと入った。
 ダークカラーで統一された店内は見るからに大人の店という感じだ。
「酒飲める?」
 業務用冷蔵庫を開けながらさっちんが言う。
「えっ……」
「なんでもあるぜ。ハイボール、ジン、マッコリ、ビール……」
「昼間から?」
 笑いながら言ったが、内心動揺していた。久しぶりの再会で、昼間から酒を飲むとは思わなかった。確かに昔は仲良くしていたが、子供から大人に成長した今は初対面のようなもの。さっちんはどうか知らないが、俺はまだ緊張している。
「俺は飲む。昼間でも早朝でも」
「俺はいい……酔うとダメなんだ。酒以外で頼む」
「酔うとどうなんの?」
「JRから大学にクレームが来た。お前んとこの学生が乗客に絡んで迷惑かけたって。俺は何も覚えてないんだけどな」
「それはやばい」
 さっちんはククッと笑った。
「じゃあレモンスカッシュで良いか?」
「ああ。ありがとう」
 さっちんは氷を入れたグラスに瓶容器のドリンクを注いだ。喉が渇いていたから炭酸がうまそうだ。「どうぞ」と差し出される。
「ありがとう……なんか店の人みたいだ」
「週末はここで働いてる」
「うそ、ここで?」
「意外か?」
「うん、意外。家庭教師とかやってそう」
 言った後で、さっちんはお坊っちゃま大学と呼ばれる有名私立大学に通っているから、金のために働いているわけではないのかもしれない、と思った。
「家庭教師なんて絶対無理。俺、見込みのない受験生に勉強教えるとかできねえもん。キミは無理って平気で言っちゃう」
 さっちんもレモンスカッシュを飲むらしい。グラスに同じものを注ぎ、「久しぶりの再会に乾杯」と宙に掲げた。
「乾杯」
 グビッと一気に飲むと、喉がかあっと熱くなった。え、と思ってグラスを見つめる。
 酒……しかもかなりの度数だ。
「バーに来てソフトドリンクなんて味気ないだろ?」
 さっちんはイタズラっぽく目を細めた。
「酔ったら責任取って家まで送ってやるから」
「後悔しても知らないからな」
 空気を悪くするのも嫌で、軽い調子で返した。
「よっし、なっちゃんをベロベロに酔わせてやる」
「酔う前に本題を聞かせてくれよ。思い出話をするために俺に連絡してきたわけじゃないんだろ?」
「ああ……」
 さっちんは焦らすように酒を飲んだ。
「ここ、親父が趣味でやってる店なんだ。芸能人とか、業界人とかも結構くる」
「すごいな」
「まあ赤坂で店やってれば普通だよ。それで、たまたま芸能関係者の会話を聞いちゃってさ。どうしてもなっちゃんに伝えたくなった」
 さっちんはなかなか先に進まない。焦れて、「それで?」と促すと、さっちんは俺のグラスに向かって顎をしゃくった。
「まずはそれ、飲めよ」
 俺は残り半分を一気に飲んだ。
「そうこなくっちゃ」
 さっちんが新たに酒を継ぎ足す。
「俺らが昔通っていたスクールの話をしていた。夢食いビジネスだって」
「っ……」
 自分の中で、とっくにその答えは出ていたのに、人の口から断言されると胸がギシっと軋んだ。
「毎年千五百人から二千人も入学させて、全員をマネジメントできるわけがない。入学金の九割は提携している芸能事務所にキックバックされていた。俺たちは絶対叶わない夢のために、毎年百万もの大金を払わされていたんだ」
 なっちゃんは特別だから、芸能事務所に入れたのよ。
 母の言葉が蘇る。父はサラリーマンで、母はパートだ。父は養成所に通うことに反対で、高額な授業料は母のパート収入から出されていた。
 指先が小刻みに震え出した。さっちんは、この話を俺の母にしたのだろうか。
「そんなの……さっちん、昔からずっと言ってたじゃないか。今にわかったことでもないだろ……」
 怒りを鎮めようと酒を飲む。空になったグラスに、さっちんはすかさず酒を注いだ。
「それに、緑みたいに、有名になれた子供もいる。夢食いビジネスだって思うのは、自分が何にもなれなかったからだろ」
「言ってくれるじゃん」
 さっちんは眉尻を吊り上げたが、口元は微笑んでいる。
「なっちゃんだって何にもなれなかったくせに」
 俺は、大河ドラマのオーディションに合格した。
 俺の、たった一つの密かな自慢。一緒に養成所に通った仲のさっちんに対して、たとえ心の中でも、これでマウントを取るなんて最低だなと思いながらも、反射的に思ってしまった。
「でも、本題はそこなんだよ」
 俺は首を傾げた。
「どういうことだ?」
「緑が有名になれた理由だよ」
 さっちんが顎をしゃくり、俺はグラスの酒を一気に飲んだ。体がジンと熱くなる。
「良い呑みっぷりだ」
「それで、どういうことなんだ」
「同じのばっかじゃ飽きるよな。日本酒でもいっとく? 大吟醸もあるぜ」
「なんでもいい」
「じゃあこれ」
 さっちんは新しい日本酒をグラスに注いだ。
「品がないな。日本酒をグラスに注ぐなんて」
「なっちゃんにはたくさん飲んでもらいたいから」
 舌打ちし、グラスを口へ運んだ。半分ほどで喉が拒絶し、グラスを口から離した。
 まずい。頭がぐらぐらしてきた。
「緑が月9ドラマに出られたのって、やっぱ金の力なんだって」
「はあ?」
 さっちんは半分残った俺のグラスに視線を向けた。
「くそっ……」
 残りを飲み切ると、さっちんは続けた。
「俺たちが定期的にやってたオーディションとは別に、特定の子供に持ち込まれたオーディションがあったんだ。緑が受けた月9ドラマのオーディションがそれだ。でも、オーディションなんて本当はなかった。選ばれる人間は最初から決まっていたんだ」
「決まっていた?」
「形ばかりのオーディションだったのさ。金を積んだ人間が合格するシステムだった」
 驚いて息を飲んだ。 
 金を積んだ人間が合格……?
「嘘だ」
 と否定したのは、密かな自慢を守るためだ。
「嘘じゃない。なっちゃんのお母さんにも確認した」
 体は熱っているのに、全身から血の気が引いていくような感覚に襲われた。
「なっちゃん、大河ドラマのオーディション受けたんだろ? あれは三百万だったって、なっちゃんのお母さん言ってたぜ」
「っ……」
 ニヤつくようなさっちんの視線から逃れるように、空になったグラスに視線を落とす。
 払わなかったんじゃない。払えなかったんだ。払うつもりで契約を交わし、だから俺は大河ドラマのオーディションに受かった。
 なっちゃん、すごいわ! 大河ドラマよっ! 
 養成所に通うことを反対していた父も、あの時は「たいしたもんだ」と褒めてくれた。
 でも実際は、金で得た役だった。すごいすごいと俺を褒めながら、俺の実力じゃないことは、母が一番わかっていたのだ。父がそんな出費を許すはずがないから、きっと母が一人で決めたことなのだろう。
 でも払えなかった。だから別の子役に役が回った。
 さっちんが俺のグラスに酒を注ぎ、俺は言われてもないのに一気に飲んだ。複雑な思考がぼうっと薄れてくる。
「俺たち騙されてたんだ。飲まなきゃやってられないよな」
 さっちんは俺に背を向けるようにしてカウンターにもたれかかると、酒を飲み、言った。
「俺は訴えようと思ってる」
「えっ……」
 ぼんやりした頭でも、それはダメだ、と思った。
「訴えるって……」
「人の夢に付け込む夢食いビジネスなんて最悪だろ。あの事務所の悪事を俺は公にしたいんだ」
 馬鹿なことを言うなと思った。そんなことをしたら、今活躍している緑はどうなる?
「それに在学中に訴訟の経験を積むことは、きっと司法試験の役に立つ。なっちゃん、俺と一緒に裁判起こそう」
「お、俺も?」
「いい経験になると思う。損はない」
「そりゃ……俺はないけど……今活躍している俳優に迷惑がかかる」
「緑か?」
 さっちんの肩がくくっと揺れた。
「……緑、も……そうだな」
 緑の母親も、大金を払ったのだろうか。もう顔を思い出すことはできないが、優しくて綺麗な人、と記憶している。他の保護者が競い合うように着飾る中で、緑の母親はいつも落ち着いた格好をしていた。
 もし、緑の母親が大金を払っていたとしたら……それを知った緑はどう思うだろう。母親に対して怒りを覚えるかもしれないし、自分の実力ではなかったんだと落ち込むかもしれない。
 本人が重く受け止めずとも、周りはきっと騒ぎ立てる。『影山緑は金で役を買った』そんな情報が出回ったら、緑の今後の活動に支障が出る。
 考えただけでゾッとした。嫌だ。緑の足を引っ張るようなこと。
「緑は金で有名になったんだ。卑怯だと思わないか? 俺たち、一緒の養成所に通ってたのに、この差はなんだよ? あいつばっかずるいだろ」
 ずるいって、なんて幼稚な言葉だろう。
「最初は金で役を買ったかもしれない。でも、今の緑の活躍は、緑に才能があったからだ」
「なら、暴露されたって平気だろ」
 さっちんは鼻で笑った。
「さっちんは結局、緑の活躍が面白くないんだ。誰のためでもなく、自分のために緑を陥れようとしている。そんなの友達じゃない。俺は反対だ」
 椅子から降りると、ガクンと膝が折れた。景色が回る。
「ハハッ、大丈夫?」
 さっちんが笑いながらカウンターを出てきた。
「緑は友達じゃないだろ。あいつはもう手が届かない存在だ。でもなっちゃん、俺はなっちゃんのことはずっと友達だと思ってる。弁護士目指してるって聞いた時は震えたよ。俺たち、いつも同じモン目指してるよな」
 離れたいのに、思うように体が動かない。ぐらりと体が傾ぎ、さっちんの大きな胸にしなだれかかる。
「なっちゃんのお母さんは立派だよ。金で役を買うなんてまともな親のすることじゃない」
 ジワリと目に涙が滲む。さっちんの両手が俺の背中に回された。
「わかるよ。辛いよな。俺だって知った時は悔しくて眠れなかった。だからなっちゃん、俺と一緒に、芸能界の闇を暴こう」