「あれ、影山緑じゃねっ!? うわ本物っ! うちの大学にいるって噂、本当だったんだっ!」
 同じ学部の林田が、興奮した様子で俺の肩を叩いた。
 林田の視線を追った先、テレビでよく見る男がいた。周りには人だかりができている。
 小さな頭。整った顔立ち。小学生の頃、中性的な美少年という印象だった彼は、女性誌に「セクシー」「男の色気」と特集されるような艶っぽいイケメンに変貌していた。180センチは軽く超えているだろう、スラリと長い手足。逞しい胸板に、引き締まったウエスト。淡いブルーのシャツにデニムパンツというラフな格好なのに、雑誌から飛び出してきたような華がある。
「スッゲー。芸能人! って感じだな」
「ああ……そうだな」
 影山緑は芸能人だ。
 十二歳で出演したドラマが大ヒット。愛くるしいルックスと健気な演技が受けて一躍お茶の間の人気者に。十六歳では不良少年を演じ、一気に活動の場を広げた。
 少女漫画のモテ男役、謎めいた探偵役、主婦と不倫する未成年……高校時代だけでも主役級の役を何人も演じていた。そのどれもが「ハマリ役」だった。
「話しかけに行こうぜ!」
 行こうとした林田の手を、俺は咄嗟に掴んだ。
「やめろよ、みっともねえだろ」
「いいじゃん。芸能人とお近づきになれるチャンスだろ」
「相手にされねえって」
「大丈夫だって。もしかしたら俺らもドラマに出られるかも」
 安直な発想にカチンとくる。ドラマに出られるのは選ばれた才能のあるやつだけだ。
「ねえって」
「あるある。いいから行こうぜっ! 合コンとか来てくれるかも」
「行かねえって!」
 つい大きな声が出た。林田が目を丸くする。
「俺、行きたくない。行くならお前一人で行けよ」
 そう言って、さっさと歩き出す。林田はすぐさまついてきた。肩に腕を回し、グイッと方向転換させられる。視界にまた、影山緑が映り込む。
「まあまあ。芸能人と張り合おうとすんなって」
「はあ?」
「嫉妬の対象じゃないって。仲良くしたらアイドルとかモデルとか紹介してくれるかもしんないじゃん。影山緑だぜ? 友達になったら自慢になる」
「そういう目的で寄ってこられたって、迷惑だろ」
「そんな奴しか寄ってかないだろ」
 カッと頭に血が昇り、気づいたら林田の腕を払いのけていた。
「お前なんか、相手にされるわけねえだろ」
 林田はスッと目を細め、卑屈に笑って言った。
「やべー、男の嫉妬見苦しー」
 胸がざわつく。どうしてこいつは嫉妬とか、張り合うとか、そういう言葉を使うんだろう。俺が小学生の時、養成所に通っていたことを、知っているのだろうか。
 俺は小学一年生から四年生までの四年間、芸能事務所に所属していた。けれどそこは「俳優になりたい」「我が子を子役にしたい」という夢につけ込んで高額なレッスン料を取る悪徳事務所で、何年通っても夢に近づけない者が大半だった。
 養成所に通っていた過去は黒歴史でしかない。俳優を目指していたなんて、恥ずかしくて笑い話にもできない。知られたくない。
「お前ってほんとプライド高いよな。自分以外の奴がチヤホヤされるのがそんなに面白くねえんだ?」
 どうしてこいつは、そういう話に持っていきたがるのだろう。俺と緑の関係を知っているのだろうか。背中に、ジワリと汗が浮かんだ。
 緑と俺は、同じ養成所に通っていた。緑は人気ドラマに抜擢され、フェードアウト。俺は緑がフェードアウトした年、更新せずに辞めた。高額な授業料を四年も払って、結局出られたのはエキストラやヤラセ番組の一般人役。母のパート収入を無駄にしてしまったことが申し訳なかった。
「つか相手にされるわけないってなに? ちょっと顔がいいからって人のこと見下してんじゃねえよ。言っとくけどお前レベルなんてゴマンといるから。本物の芸能人と比べたらお前なんか凡だから」
 そんなの、自分が一番わかってる。思わず唇を噛み締めると、林田は勝ち誇ったように口角を上げた。
「あ、ごっめん。今の刺さっちゃった? もしかして芸能界とか目指してた?」
 心臓を鷲掴みされたような気がした。早く否定しなければと思うのに、言葉が出ない。
 芸能界とか目指してた。だってそれは紛れもない事実で、俺が一番触れられたくないことだから。
 鼓動が不安を煽るように速る。
「あー、そっかそっか。お前の『自分は違う』みたいな態度ってそこから来てたんだ、納得」
 澄ましてる、気取ってる、養成所を辞めた後くらいから、そう言われるようになった。
 親に夢を見させ、大金を使わせ、結局何にもなれなかった。
 でも俺は、大河ドラマのオーディションに合格した。
 沈んでいく心を浮上させるには、叶わなかったチャンスを思い出すしかなかった。
 横槍が入らなければ、俺だってテレビに出られていた。自慢の息子になっていた……
 誰に言ったわけでもない。けれど心の中でそう思い続けていると、不思議とみんな離れていった。
「もしかして芸名とかあんの? 教えてよ」
 そう言った林田の細い目が、突然大きく見開かれた。
 見ているのは俺……の背後。振り返るより先に、「なっちゃん」と男の声がした。
 弾かれたように振り返る。取り巻きを置いて、影山緑がこちらへ駆けてきていた。
「なっちゃん……だよね?」
 美貌の男は、俺の目の前まで来ると、爽やかに微笑んだ。
 彼が影山緑であることは間違い無いのに、『なっちゃん』と記憶の中で呼ぶ少年と一致しない。目の前にいる男は、テレビや雑誌で見るよりずっと綺麗でかっこいい。こんな男は、俺の知り合いにはいない。
「僕のこと……覚えてる?」
 なのに感極まったような声。俺を見つめる目には涙すら滲んでいる。
 養成所に通っていたなんて、誰にも知られたくない。
 とぼけろ。お前なんて知らないと言え! 脳が出す命令に逆らうように、喉がキュッと締め付けられる。
「渚……お前、影山緑と知り合いなのか?」
 林田が興奮気味に言う。
「俺っ、林田陸っ! 二年先輩だから、わからないことがあったらなんでも聞いてよっ……俺は法学部だけど、全学部に知り合いがいるから、大抵のことは力になれるよ。出席の偽装だって手伝えるし」
 緑は今年入学した一年生だ。俺と林田は現役合格の三年生。
「すみません、彼と話がしたいので」
 緑は申し訳なさそうに、けれどはっきりと林田を拒絶した。林田はぎこちなく笑う。
「あ……そう。おい渚、答えてやれよ」
 馴れ馴れしく俺の肩に伸ばされた林田の手が、空中で止まった。緑が素早く掴んだからだ。
「え、なに……?」
 戸惑う林田に向かって、緑は慇懃に微笑む。
「すみません、僕の大切な人かもしれないので」
 ドキッとする。昔の緑はもっと舌足らずで、言葉遣いも幼かった。『僕にも友達できるかな?』とキラキラした目で聞いてくる姿がたまらなく可愛かった。
 緑は林田の手を離すと、切なげに眉根をキュッと寄せた。些細な表情の変化もドラマのワンシーンのように映える。
「なっちゃん……だよね? 僕、緑だよ……覚えてないかな? 昔、東京で……一緒に遊んだ……」
 肩の力が、ふっと抜けた。
 養成所に通っていたとは言わずに、緑は「遊んだ」と過去を濁した。その気遣いが切なかったが、ありがたかった。
「覚えてる」
 端正な顔が、パッと花咲くように笑顔になった。やり取りを見ていた女たちがきゃあっ悲鳴のような歓声を上げる。
「忘れるわけないだろ。覚えてるよ」
 三年間、一緒の養成所に通っていた。でもそれは言わない。黒歴史を明かすようなことはしない。
「本当……本当に嬉しいっ……またなっちゃんに会えるなんて……っ」
 緑はスマホを取り出すと、「連絡先、交換できる?」と控えめに言った。
 即答できなかった。繋がりたくない、と思った。
 彼が月9ドラマに出たときの複雑な感情は、どんな言葉でも言い表すことができない。
 嬉しさより先に、申し訳なさが込み上げた。緑は喜んで欲しかったはずなのに、俺が余計な心配をしたせいで、嘘つき呼ばわりされたと傷つけた。
 次に羨ましい、と思った。俺はダメだったのに、緑はちゃんとテレビに出演したことが、腹が捩れるほど羨ましかった。
 緑とあんな別れ方をしなければ、素直に緑の活躍を喜べたんだろうか……
 月9ドラマが終わった後も、子役として活躍する緑を見ながら、俺は複雑な感情の原因を考えた。
 緑が大手事務所に移籍したというニュースを見た時、『嫉妬』だと結論が出た。
 緑と同じ養成所に通っていたから、自分もその世界を目指していたから、こんなにも醜く嫉妬してしまうのだ。
 緑は遠い存在でなければならない。関わりたくない。今、緑の活躍を積極的でなくても応援できているのは、俺と緑が無関係で、俺が養成所の過去を封印したからだ。
「あ……じゃあ」
 答えられずにいると、緑は察したようにスマホをポケットにしまった。
 肩に下げたトートバッグからノートを取り出し、スラスラとボールペンを走らせる。ノートを破き、二回折って俺に差し出した。
「良かったら、連絡してくれると嬉しい。迷惑なら捨てて貰って構わないから」
 隣で林田が息をのむのがわかった。芸能人の連絡先が書かれた紙切れだ。林田に渡ったら悪用されかねない。そう思ったら手が伸びた。
「わかった。ありがとう」
 緑がホッとしたように微笑む。「じゃあ」と言って、仲間の元へと戻って行った。
「なあ、それ見せてよ」
 媚びるような声で林田が言う。
「天谷くんって影山緑と友達だったんだね!」
「もしかして天谷くんも芸能活動やってるの?」
「やめなよ、天谷くん困ってるじゃん。ね?」
 女たちもわらわらと近づいてきた。俺を気遣っているようで上目遣いに見つめてくる女も、緑の連絡先が欲しくて媚びてきたくせに、やっぱり嫉妬丸出しで俺を睨んでくる林田も、もう何もかも鬱陶しくて、俺は逃げるようにその場を離れた。
 一人になれる場所を求め、営業時間外の食堂へ向かった。
 日光をふんだんに取り込んだ開放的な食堂は、居眠り中の学生が一人いるだけで、ガランとしてる。入り口のガラス戸には「本日の営業は終了しました」とプレートが掛かっているが、入っても文句は言われない。俺は奥の席についた。
 折り畳まれた紙を、ゆっくりと開く。飛び込んできた文字に、思わず「はあっ!?」と大きな声が出た。
 居眠りしていた学生がその声に驚き、「ヤッベ」と慌てて食堂を出ていく。
 俺はスマホを取り出し、そこに書かれた番号を打ち込んだ。
『はい』
 緑は3コールで出た。
「緑……か?」
『なっちゃん?』
 電話口の声が弾む。
『なっちゃん、読んでくれたんだね』
 あの人だかりの中で、あの一瞬で、緑はこれを書いたのか。『好きです。付き合ってください』と。
「お前……ふざ」
『ふざけてなんかないよ。何もふざけてない。なっちゃんを見た時に、好きだって思った』
 相手は人気俳優だ。誰かに聞かれたらどうする? 耳を澄ませるが、周囲は静かだ。
『なっちゃん、電話してくれたってことは、オッケーってことで良いんだよね?』
「なっ……なんでそうなるんだっ! お前……おかしいぞ……」
 厨房の奥のおばさんと目が合った。あんまり騒いだら追い出されそうだ。目を逸らし、口の前に手を当てた。
『じゃあどうして電話くれたの? 僕、言ったはずだよ。良かったら連絡してって』
 優勝者にはなんと! 影山緑くんからあま〜いセリフをプレゼント!
 ふいに、緑がゲスト出演していたバラエティ番組を思い出した。
 大食い対決に勝った女芸人は、セットの真ん中で緑と向かい合う。緑が女芸人の名前を呼んだだけで、スタジオは黄色い歓声に包まれた。
 俺の飼い主になってくれたら、毎日たっぷり癒してあげる。
 な、なりますっ! 
 バラエティ番組で、台本があると分かっていても、一回りも年下の俳優のセリフに大喜びする女芸人を馬鹿だと思った。
 なのに今は、自分が馬鹿みたいにドキドキしている。
『なっちゃん、3週間前に恋人と別れて今フリーだよね』
 緑の言葉で現実に引き戻される。
「どうして……」
『相手は年上の美容師。SNSのフォロワーは十万人。なっちゃんがモデルになったらもっと増えただろうけど、撮らせなかったんだね』
「お前……」
『知ったのは偶然だよ。なっちゃんの元恋人が僕のスタイリストチームに入ってたんだ。ロック画面、なっちゃんの写真だったよ。……って、そんなの知ってるか』
 いや知らなかった。付き合いだしてすぐにロック画面を俺の写真に変えたから、『そういうのやめてください』と速攻やめさせた。でもあの人は俺の写真をロック画面にしていた……俺のいない所では、俺の写真に変えていたのだ。
『写真、雰囲気全然違ったけど、なっちゃんだってすぐにわかった。なっちゃんは僕の初恋の人だから』
 初恋?
 ドキドキと鼓動が騒がしい。『なっちゃん』と緑が俺を呼ぶ時、彼の口角はいつも愛らしく上を向いていた。
『男と付き合ってるって知って、すごく悔しかった。でもそれって僕にもチャンスがあるってことだよね。僕、そう思って、なんとか耐えた』
 スマホを握る手に力がこもる。応じる気などないくせに、緑の声を聞き逃すまいと耳にスマホを押し付ける。
『なっちゃんが男も大丈夫な人で良かった』
「緑……」
 緑とは関わらない方がいい。遠い存在となった彼は、画面越しに見るのが丁度いい。
 わかっているのに、懐っこい緑の声を聞いていたら懐かしさが込み上げてきて、通話を切り上げることができない。
『なっちゃん、僕と付き合ってくれるよね』
 さっちんもなっちゃんも、大っ嫌いだ。
 月9ドラマに出演すると嬉しそうに伝えてきた緑に、俺は最低の言葉を返してしまった。
 ずっと心残りだった。今度は間違えたくない。緑を傷つけたくない。
「ああ」
 電話口の向こうで、緑が息をのんだのがわかった。
「俺でいいなら、付き合おう」
『本当に……いいの?』
 さっきまで強気だった声に、歓喜と困惑が混じる。
「ああ」
『なっちゃん……ありがとう……っ……やばい……ほんとに嬉しいっ……』
 緑はふざけていたわけではなかったんだと、感極まった口調で確信した。
『ありがとう……なっちゃん……』
「そんなに嬉しいのか?」
 思わず笑ってしまった。でも同時に涙が滲んだ。
 単純に、俺自身も嬉しかった。そんなふうに思っていてくれたこと。あんな別れ方をしてしまったのに、声をかけてくれたこと。勇気を出して告白してくれたこと。
『うん……だって僕、ずっとなっちゃんのこと……』
 涙声で言う緑を愛しいと思った。