体を起こすとズキンと鋭い痛みが走った。
大きなベッドには俺一人。緑の場所はすっかり冷たくなっていた。
ベッドを下り、部屋を出た。
広々としたリビングダイニング。ここにも緑はいなかった。カーテンは全開だが、外は雨が降っていて暗い。壁掛け時計を見ると、短針が4を指していた。
「四時……」
ぼんやりと部屋を見回すと、ダイニングテーブルに食器が用意されていた。
ふらふらとダイニングテーブルへ向かう。メモ紙が伏せられた茶碗の下に挟まれていた。
『炊き込みご飯と味噌汁があります。お腹が空いたら食べてください』
とだけ書かれていて、がっかりする。緑は何時に帰ってくるのだろう。
腹は減っていた。昨日は一晩中緑と繋がっていて、眠りについたのは朝方だった。
昼食なのか夕食なのかわからない食事を終えた後は、シャワーを浴びにバスルームへ向かった。
緑が着せてくれたであろう開襟シャツを脱ぐ。鏡に映った姿に驚き、ビクッと体が強張った。
「なんだ……これ……」
全身、キスマークだらけだった。最中、たくさんつけているなとはぼんやり思っていたが、まさかこれほどとは……
「やば……」
やばすぎる。鏡に釘付けになりながら、キスマークを指で辿って行く。喉仏のそばになんかつけて……これでは生活に支障が出るではないか。
顎を上げると、その下にも生々しい痕があった。あの野郎……と怒りが湧いたが、これも演技のうちだと思うとなんとも言えない気持ちになった。緑は俺のためにドエスを演じてくれたのだ。さすが売れっ子俳優。
「はあ……」
ため息が出た。また、緑を頑張らせてしまった。
「頑張りすぎだろ、バカ」
キスマークだらけの自分の姿が、途端に見れなくなって、俺はバスルームに逃げ込んだ。
ラインで何時ごろ帰ってくるのか聞くと、『八時前には帰るけど、家にいるの?』と返信があった。
『お前に話したいことがあるから』
理由もなしにここにいてはいけないような気がして、そう送った。
『わかった。なるべく早く帰るようにするね』
緑は七時過ぎに帰ってきた。荒い呼吸と首筋に浮かんだ汗で、急いで帰ってきたとわかる。
「おかえり……ごめん。急かしたか?」
「ううん……僕もなっちゃんと話がしたかったから……」
緑は黒いキャップとマスクを外した。何気ない仕草にいちいちドキドキしてしまうのは、昨夜の嵐のような行為のせいだろうか。緑の顔をまともに見られない。
「あの、さ、緑……」
「うん」
緑は聞くモードだ。俺は一つ深呼吸して、言った。
「お、俺……ドエムじゃないんだ」
「…………」
沈黙が居た堪れなかった。俺は努めて明るい声を出す。
「緑、お前……すごいなあ〜。俺がその……そういう性癖だと思って……付き合ってくれてたんだろ? やっぱお前、すごい役者だよ。昨日なんて俺……お前のこと完全にそういう奴だと思ったし」
無意識に首のキスマークに触れていた。緑の鋭い視線でそれに気づいて、俺は慌てて手を離す。手のやり場に困って肘を掴むが、そこにもキスマークがあったことを思い出し、慌てて離した。緑は俺の挙動をジッと見つめている。
「……あんま、見んな」
たまらず言った。
「話は、それだけ?」
「えっと……だから、これからはその……無理にエスになろうとしなくて良いから……」 ふいに、俺は何を言っているんだモードに突入し、恥ずかしさで顔面が燃え上がるんじゃないかと思った。気休めに手で顔を扇ぐ。
「あ、別に嫌ではなかったから。驚きはしたけど……うっ」
緑にきつく抱きしめられた。
「嘘でしょ……?」
緑が感極まったような声で言う。
「あんなに酷いことしたのに? 僕を許してくれるの……?」
「酷いことって……お前は俺のために」
「……確かにそれまではなっちゃんのためにって思ってやってきた。新堂さんみたいにやんなきゃ、すぐに捨てられると思って……でも昨日は違う。演技じゃないよ。僕はなっちゃんのことより自分の欲望を優先したんだ。じゃなきゃこんなところにキスマークなんかつけない」
「っ……」
首筋を噛まれ、ゾクゾクと背筋が震えた。
「お前っ……そんなとこ……までっ……」
「僕のこと、嫌いになった?」
首の後ろを舐めながら、緑が甘い声で言う。
「なっ……ならない……なるわけないっ……」
「今日、新堂さんと会ったよ。なっちゃんが新堂さんに会いに行った理由がわかった」
ぎゅうっと抱きしめる力が強くなる。
「僕が告白した時は、まだ新堂さんと付き合ってたんだよね? なっちゃん、わざわざ別れてくれたんだよね。僕そんなことも知らなかった……」
「別に、知らなくて良いだろ……」
「なのに僕は、頑張る方向性を間違えてた…………」
首筋にちゅっちゅと音の立つキスをされ、くすぐったくて首がすくんだ。
「僕がなっちゃんをそういうふうに抱いたって知ったら、あの人すごく怒ってた。自分は我慢したのにって。自分の願望を叶えた僕が羨ましくて仕方がないって感じだった。……でも僕はもっと優しくしたかった。僕が勝手に勘違いしてやったことだけど……」
「なっちゃん」と顎を摘まれ、顔を上向かせられる。至近距離の緑はいつだって心臓に悪い。
「ごめんね。あんなやり方……戸惑ったよね」
「まあ……戸惑いはしたけど……」
美しい顔が、苦しそうに眉根を寄せた。
「なっちゃんの戸惑いを考えたらゾッとした。僕はどれだけなっちゃんを困らせたんだろうって……」
緑はそう言って、唇を重ねた。表面ばかりを角度を変えて触れ合わせる、控えめなキスだった。
「すごく後悔した」
キスの合間に緑は言った。
「でもなっちゃんが僕のために我慢してくれてたんだって思ったら、余計に好きになった」
「……別に、そんなに嫌じゃ……」
くちづけが深くなった。俺も緑の背中に手を回す。
「どうしよう……僕、絶対フラれると思ってた」
笑ってしまう。俺は緑の言葉を借りて答えた。
「ばか。俺の気持ち、勝手に低く見積んな」
「うん。すごく低く見積もってた」
俺もそうだった。でも今はわからない。全身につけられたキスマークは想像をはるかに超える量で、彼の気持ち推し量ることを躊躇わせる。
「なっちゃん、僕のこと好き?」
「……知ってるだろ」
「なっちゃんの口からちゃんと聞きたい」
じゃれつくようにキスされる。これでは答えられない。唇が離れ、答えようとしたのに「僕は好き」と緑に先を越されてしまった。
「……知ってる」
「どれくらい好きかも?」
そそのかすような甘い声。体が期待して昂っていく。知らない、と答えたら、教えてくれるのだろうか。淫らな想像に体が震えた。
「……教えて」
確実に誘い出すために、そう言った。
緑の目が大きく見開かれ、すぐさま苛立たしげに眇められた。
「なっちゃん……」
「教えて」
俺から軽いキスをした。
「緑、好きだよ」
自分が聞いてきたくせに、緑の体が驚いたようにビクッと跳ねた。
そんなに嬉しいのかと、俺はうっとりとしてしまう。
緑が今をときめく人気俳優でも、彼の中で俺は、憧れのままなのかもしれない。「どうしたらなっちゃんみたいに演技が上手になるの?」と真剣な顔で聞かれたことを思い出す。かわいい、愛おしい、と思ったのは、緑が初めてだった。毎週のレッスンを、俺はいつも楽しみにしていた。
大きなベッドには俺一人。緑の場所はすっかり冷たくなっていた。
ベッドを下り、部屋を出た。
広々としたリビングダイニング。ここにも緑はいなかった。カーテンは全開だが、外は雨が降っていて暗い。壁掛け時計を見ると、短針が4を指していた。
「四時……」
ぼんやりと部屋を見回すと、ダイニングテーブルに食器が用意されていた。
ふらふらとダイニングテーブルへ向かう。メモ紙が伏せられた茶碗の下に挟まれていた。
『炊き込みご飯と味噌汁があります。お腹が空いたら食べてください』
とだけ書かれていて、がっかりする。緑は何時に帰ってくるのだろう。
腹は減っていた。昨日は一晩中緑と繋がっていて、眠りについたのは朝方だった。
昼食なのか夕食なのかわからない食事を終えた後は、シャワーを浴びにバスルームへ向かった。
緑が着せてくれたであろう開襟シャツを脱ぐ。鏡に映った姿に驚き、ビクッと体が強張った。
「なんだ……これ……」
全身、キスマークだらけだった。最中、たくさんつけているなとはぼんやり思っていたが、まさかこれほどとは……
「やば……」
やばすぎる。鏡に釘付けになりながら、キスマークを指で辿って行く。喉仏のそばになんかつけて……これでは生活に支障が出るではないか。
顎を上げると、その下にも生々しい痕があった。あの野郎……と怒りが湧いたが、これも演技のうちだと思うとなんとも言えない気持ちになった。緑は俺のためにドエスを演じてくれたのだ。さすが売れっ子俳優。
「はあ……」
ため息が出た。また、緑を頑張らせてしまった。
「頑張りすぎだろ、バカ」
キスマークだらけの自分の姿が、途端に見れなくなって、俺はバスルームに逃げ込んだ。
ラインで何時ごろ帰ってくるのか聞くと、『八時前には帰るけど、家にいるの?』と返信があった。
『お前に話したいことがあるから』
理由もなしにここにいてはいけないような気がして、そう送った。
『わかった。なるべく早く帰るようにするね』
緑は七時過ぎに帰ってきた。荒い呼吸と首筋に浮かんだ汗で、急いで帰ってきたとわかる。
「おかえり……ごめん。急かしたか?」
「ううん……僕もなっちゃんと話がしたかったから……」
緑は黒いキャップとマスクを外した。何気ない仕草にいちいちドキドキしてしまうのは、昨夜の嵐のような行為のせいだろうか。緑の顔をまともに見られない。
「あの、さ、緑……」
「うん」
緑は聞くモードだ。俺は一つ深呼吸して、言った。
「お、俺……ドエムじゃないんだ」
「…………」
沈黙が居た堪れなかった。俺は努めて明るい声を出す。
「緑、お前……すごいなあ〜。俺がその……そういう性癖だと思って……付き合ってくれてたんだろ? やっぱお前、すごい役者だよ。昨日なんて俺……お前のこと完全にそういう奴だと思ったし」
無意識に首のキスマークに触れていた。緑の鋭い視線でそれに気づいて、俺は慌てて手を離す。手のやり場に困って肘を掴むが、そこにもキスマークがあったことを思い出し、慌てて離した。緑は俺の挙動をジッと見つめている。
「……あんま、見んな」
たまらず言った。
「話は、それだけ?」
「えっと……だから、これからはその……無理にエスになろうとしなくて良いから……」 ふいに、俺は何を言っているんだモードに突入し、恥ずかしさで顔面が燃え上がるんじゃないかと思った。気休めに手で顔を扇ぐ。
「あ、別に嫌ではなかったから。驚きはしたけど……うっ」
緑にきつく抱きしめられた。
「嘘でしょ……?」
緑が感極まったような声で言う。
「あんなに酷いことしたのに? 僕を許してくれるの……?」
「酷いことって……お前は俺のために」
「……確かにそれまではなっちゃんのためにって思ってやってきた。新堂さんみたいにやんなきゃ、すぐに捨てられると思って……でも昨日は違う。演技じゃないよ。僕はなっちゃんのことより自分の欲望を優先したんだ。じゃなきゃこんなところにキスマークなんかつけない」
「っ……」
首筋を噛まれ、ゾクゾクと背筋が震えた。
「お前っ……そんなとこ……までっ……」
「僕のこと、嫌いになった?」
首の後ろを舐めながら、緑が甘い声で言う。
「なっ……ならない……なるわけないっ……」
「今日、新堂さんと会ったよ。なっちゃんが新堂さんに会いに行った理由がわかった」
ぎゅうっと抱きしめる力が強くなる。
「僕が告白した時は、まだ新堂さんと付き合ってたんだよね? なっちゃん、わざわざ別れてくれたんだよね。僕そんなことも知らなかった……」
「別に、知らなくて良いだろ……」
「なのに僕は、頑張る方向性を間違えてた…………」
首筋にちゅっちゅと音の立つキスをされ、くすぐったくて首がすくんだ。
「僕がなっちゃんをそういうふうに抱いたって知ったら、あの人すごく怒ってた。自分は我慢したのにって。自分の願望を叶えた僕が羨ましくて仕方がないって感じだった。……でも僕はもっと優しくしたかった。僕が勝手に勘違いしてやったことだけど……」
「なっちゃん」と顎を摘まれ、顔を上向かせられる。至近距離の緑はいつだって心臓に悪い。
「ごめんね。あんなやり方……戸惑ったよね」
「まあ……戸惑いはしたけど……」
美しい顔が、苦しそうに眉根を寄せた。
「なっちゃんの戸惑いを考えたらゾッとした。僕はどれだけなっちゃんを困らせたんだろうって……」
緑はそう言って、唇を重ねた。表面ばかりを角度を変えて触れ合わせる、控えめなキスだった。
「すごく後悔した」
キスの合間に緑は言った。
「でもなっちゃんが僕のために我慢してくれてたんだって思ったら、余計に好きになった」
「……別に、そんなに嫌じゃ……」
くちづけが深くなった。俺も緑の背中に手を回す。
「どうしよう……僕、絶対フラれると思ってた」
笑ってしまう。俺は緑の言葉を借りて答えた。
「ばか。俺の気持ち、勝手に低く見積んな」
「うん。すごく低く見積もってた」
俺もそうだった。でも今はわからない。全身につけられたキスマークは想像をはるかに超える量で、彼の気持ち推し量ることを躊躇わせる。
「なっちゃん、僕のこと好き?」
「……知ってるだろ」
「なっちゃんの口からちゃんと聞きたい」
じゃれつくようにキスされる。これでは答えられない。唇が離れ、答えようとしたのに「僕は好き」と緑に先を越されてしまった。
「……知ってる」
「どれくらい好きかも?」
そそのかすような甘い声。体が期待して昂っていく。知らない、と答えたら、教えてくれるのだろうか。淫らな想像に体が震えた。
「……教えて」
確実に誘い出すために、そう言った。
緑の目が大きく見開かれ、すぐさま苛立たしげに眇められた。
「なっちゃん……」
「教えて」
俺から軽いキスをした。
「緑、好きだよ」
自分が聞いてきたくせに、緑の体が驚いたようにビクッと跳ねた。
そんなに嬉しいのかと、俺はうっとりとしてしまう。
緑が今をときめく人気俳優でも、彼の中で俺は、憧れのままなのかもしれない。「どうしたらなっちゃんみたいに演技が上手になるの?」と真剣な顔で聞かれたことを思い出す。かわいい、愛おしい、と思ったのは、緑が初めてだった。毎週のレッスンを、俺はいつも楽しみにしていた。


