いくらなっちゃんがドエムだからって、昨日はやりすぎた。
 すやすやと寝息を立てて眠るなっちゃんを眺めながら、僕は罪悪感に苛まれていた。
 なっちゃんの鎖骨には生々しい鬱血痕がある。服の下にもおびただしい数のそれがある。
 自分でも驚くほど手荒な真似をしてしまった。泣いて許しを乞うなっちゃんを押さえつけて何度も犯した。何かしらの罪に問われるだろう。
 最初……というか、三回目まではなっちゃんを喜ばせようと必死で、自分が気持ちよくなろうなんて考えもしなかった。新堂と比べられるのは当然で、がっかりされたら速攻捨てられると思っていた。
 新堂と会っていたことはショックだった。でもそれ以上に、なっちゃんが僕との関係を続けようとしてくれることが嬉しかった。
 車を降りてまで追い掛けてきてくれた。なっちゃんからキスしてくれた。嬉しくて、自宅に連れ込んで二人きりになった途端、理性が弾けた。
「なっちゃん……」
 だからって、これはひどい。なっちゃんがSMプレイとして認識してくれたら良いのだが……
「昨日はごめん」
 仕事の時間が迫っていた。わざわざ起こすのも申し訳なくて、僕はダイニングテーブルに置き手紙をして家を出た。数時間後にはフラれるかもしれない。昨日のプレイはなっちゃんを喜ばせるためではなく、自分の欲望を一方的に、しかも乱暴にぶつけただけだった。
「新堂さんの顔、見ました?」
「え、見てない。何かあったの?」
 テレビ局の廊下を歩いていると、自販機コーナーから女の声が聞こえてきた。そこは奥まったスペースで、廊下からは死角だ。僕は足を止め、聞き耳を立てた。
「まだら模様ですよ。殴られて」
 女の声は楽しげだ。
「ええっ? 何があったのよ」
「本人は酔っ払いに絡まれたって言ってますけどね〜」
「例の彼女かな?」
「じゃないですかあ〜? 別れるの、ソートー苦労したみたいだし」
「そんなにこじれたんだ」
「みたいですよ〜。ほら、新堂さんってめっちゃドエスじゃないですか。きっと彼女にとっては最高のパートナーだったんですよぉ。手放したくなかったんですよぉ」
「それで復縁を迫った?」
「でも断られた。もしくは本命の存在を知った」
「本命?」
「知らないんですか? 新堂さん、常に恋人は二台持ちなんですよ。ひとつは本命で、もうひとつは性欲特化型。本命にはドエスだってこと、絶対隠し通すらしいんです。それでドン引きされたことがあるから」
「うわあ。二台持ちにドン引き」
「自分はただの遊びで、本命がいるって知ったらそりゃショックですよね。新堂さんをボコボコにしちゃった彼女の気持ち、私、すっごーくわかります」
「えー、私は本命の方がキツイと思うわ。だって自分の体じゃ彼を満足させられないってことでしょ?」
「じゃあ中川さん、鞭打ちされたり、縛られたり、痛いプレイに付き合えます?」
「彼氏が鞭なんて使い出したら速攻別れる」
「ほら〜」
「誰だってそうでしょうよ」
「やっぱり異常性癖者は二台持ちするしかないですね」
 頭から氷水をぶっかけられたみたいだった。
 嘘だ。嘘だ。どうか嘘であってくれ……っ!
 なっちゃんに与えた苦痛を思うと吐き気が込み上げ、僕はトイレに駆け込んだ。

 トイレに篭ること二十分。コンコンとドアをノックされ、「影山さん?」と声を掛けられた。新堂の声だ。
「影山さんですよね? きみがトイレに入っていくのを女性スタッフが見ています。大丈夫ですか? ヘアメイクをしますので、大丈夫なら出てきてください」
 吐き気は治っていた。僕は水を流して外へ出た。新堂と目を合わせないよう、洗面台へ向かう。
「ひどい顔ですね」
 鏡越しに新堂に言われ、僕は「新堂さんの方がひどいですよ」と言い返した。
「その顔、誰に殴られたんですか?」
 手を洗いながら僕は言った。
「酔っ払いに絡まれたんです。本当に災難でした」
「それ、誰も信じてないですよ。噂じゃ恋愛トラブルってことになってます。元カノに復縁を迫られて、断ったからだって。おかしいですよね。復縁を迫ったのは新堂さんなのに」
 昨日、トラブルに発展した経緯を語ったなっちゃんに、さっちんは言った。
 本当は、よりを戻したかったのはなっちゃんなんじゃねえの?
 緑だけじゃ物足りなかったんだろ。それで新堂の店に行って復縁を迫った。なのにその足で俺の店に向かったから新堂は激怒した……おおかたこんなところだろ。どちらも手に入れようと欲かいた結果だ。
 僕もそう思った。ずっとそれを恐れていたから、そうなるのも仕方ないと思った。
 でも、他に理由があるとしたら? 
 僕は顔をゴシゴシと乱暴に洗い、鏡に映る新堂を睨んだ。
「新堂さん、なっちゃん以外にも恋人がいたんですね」
 何も言わないのは肯定と判断し、僕は続けた。
「僕、実は聞いちゃったんです。山本プロデューサーの自宅で、新堂さんが芸人の桜井さんと話しているの。飲尿プレイとか、目隠しとか、刺激的な単語に衝撃を受けました。なっちゃんと新堂さんはそういうプレイをしているんだって」
 新堂の口があんぐりと開きっぱなしになった。
「喫煙所でもあなたたちの会話を聞きました。二股しているなんて知らなかった僕は、てっきりなっちゃんと別れたんだと思った」
 ギュッと胸が痛んだ。
 フリーだと思ってなっちゃんに告白したけれど、あの時、なっちゃんは新堂と交際中だった。『3週間前に恋人と別れて今フリーだよね』得意気な僕の言葉は、なっちゃんをどれだけ戸惑わせただろう。
「だから、なっちゃんに告白しました」
 なっちゃん、と胸の中で呼びかける。なっちゃん、なっちゃん、なっちゃん……
 なっちゃんは新堂と別れて僕と付き合ってくれたのだ。あの短い通話で、決断してくれたのだ。
「新堂さんと比べて、がっかりされないようにしなっ」
 出し抜けに新堂の手が伸びてきた。僕の肩を掴んで洗面台から引き剥がす。胸ぐらを掴まれ、壁に追いやられた。
「俺がっ……どれだけっ……」
 新堂がものすごい剣幕で言った。
「どれだけっ……我慢したと思ってるっ……あの子を大切にっ……してきたとっ……」
 新堂は嫌われるのを恐れて、本命には己の性癖を打ち明けられなかった。
 それなのに僕が成し遂げたから、どうしようもなく許せないのだ。羨ましくて、たまらないのだ。
「なっちゃんとはそういうことしなかったんですね。僕、てっきりなっちゃんは慣れっ子だと思って、無茶なことたくさんしちゃいました」
 こんな男の前で絶対泣くものかと、僕は懸命に涙を堪える。できるだけ冷淡な声を意識して、言った。
「でもなっちゃん、素質あるみたいで、叩いてもツネっても感じてくれるんです。新堂さん、思い切ってなっちゃんに打ち明けてみれば良かったのに。なっちゃんドエムだから、きっと喜んだと思いますよ」
 新堂の唇が戦慄いた。相当ショックなようだ。胸ぐらを掴む手から力が抜けた。
「僕に乗り換えたのって、きっと新堂さんとのセックスが物足りなかったからでしょうね」
 トドメのつもりで言うと、新堂はガックリ項垂れた。
「うるさい。推理のつもりか? そんなの、本人の口からとっくに聞いたさ」
 ドクン、と胸が弾んだ。本人の口から聞いた……
「それでっ……あんたは何て言ったんだっ……」
「ええ? 可愛がってあげるからうちに来いって誘ったんじゃないか。それなのに……どうしてあの店に……」
 ああ……とようやく理解した。
 なっちゃんは僕とのセックスに違和感を感じていた。そういう性癖なんだと受け止めようとしたけれど、やっぱりおかしいと思ったなっちゃんは、僕の言葉を思い出した。
『3週間前に恋人と別れて今フリーだよね』
 そこで新堂の浮気を疑った。
 僕のやり方が僕の性癖なのか、新堂の真似なのかを確かめるために、なっちゃんは新堂に餌をチラつかせたのだ。
 僕は、一体どれだけなっちゃんを悩ませたんだろう。なっちゃんはフリーでもなければドエムでもなかった。僕が言わなければ、新堂の浮気を知ることもなかった。
 最低最悪。もう手遅れかもしれない。彼に行った度を過ぎた行為を思えば嫌われたのは当然で、交際継続は絶望的。なのに僕の彼への気持ちは昨日にも増して強い。