帰ってきたら手洗い、うがい。着ていた服は脱いで、部屋着に着替える。幼い頃から母に言い聞かされてきた。
 御嶽家に身を寄せてから、だらしないだの何もできないだの散々大牙くんから言われてきたけれど、僕だってこれくらいのことはできる。さらに今日は、なんとお風呂を洗って給湯器の湯沸かしボタンまで押しちゃったものだから我ながら偉すぎると思う。

 ところどころヒビが入ったレトロな洗面台。鏡の前で角度を変えながら自分の顔を見つめてみる。どの角度から見ても、何ら悪いところは見当たらない。今日だって学校の帰りに寄ったゲーセンで女の子から逆ナンされてスマートに断ったくらいにはモテ男のはずなんだけれど。眼鏡の奥の瞳が不機嫌そうに僕を睨む。
 こんなに綺麗な恋人と一つ屋根の下で暮らしているというのに。大牙くんはどうして手を出してこないんだ。エッチなことはともかくとして、キスすらまだというのはおかしいだろう。
 確かに家ではちょっとだらしない面を見せてしまってはいるけれど。僕は目線を少し下にずらして、色褪せた緑色のジャージを一瞥する。
 普段は完璧な人間でも少し抜けがあったほうが可愛いとか思わない? ギャップ萌えみたいな?
 それに自分の服を恋人が着てるって彼シャツみたいでトキメいたりしない訳? 着ていて楽なのももちろんあるけれど、一応そういった面も計算して着てるんだけど。

 休みの日だって、せっかくまともな服に着替えても一緒に出かけるといったら近所のご飯屋さんやスーパー、ホームセンターでの買い物くらいで。付き合って半年ほやほやのカップルがするデートとは思えない。結婚十年目の夫婦じゃあるまいし、もうちょっとドキドキするようなことがあってもよくないか。昼過ぎまで寝ていることが多い自分が言えた義理ではないけれど。
 手を洗った後に締めたはずの蛇口からぽつり、ぽつりと水が垂れていることに気が付く。両手でこれでもかというほど強く締め直して、顔を上げた。
 鏡の中の自分が眉間にしわを寄せている。少し怒った表情も悪くないのに。
 鏡の自分と睨み合っていると、突然背後の扉がガラリと開いた。
「おい、なにやってんだ」
 響いた低音に、背筋が飛び跳ねた。
「わっ、なんだよ……びっくりさせないでよね……いつの間に帰ってきてたの」
 鏡越しに仕事着姿の大牙くんと目が合う。
「何度か声かけただろ。いないのかと思ったわ」
「そう、おかえり……今日のご飯、なに」
「あー、昨日の残りの肉じゃがと……今から鯖でも焼こうと思ってるけど」
 大牙くんはいつも通りのぶっきらぼうな口調で言って、汗で貼りついたコンプレッションウェアを脱いで洗濯籠に放り込んだ。
 日焼けした太く筋張った長い腕、汗で少し湿った割れた腹筋と逞しい胸筋が視界に飛び込んでくる。僕は思わず反射的に視線を逸らしてしまった。心臓の音が煩い。顔から汗が噴き出てくる。
 男同士だし、同棲中の彼氏の裸なんだから。別に見たって構わないじゃないか。そう冷静に考える余裕もなく、僕は慌てて洗面所を後にした。
「暇ならたまには手伝えよー」
 後ろから聞こえてくる無骨だけれど語尾に丸みのある声に返事も出来ず、僕は自室に逃げ帰った。パソコンのスクリーンセーバーだけが光る真っ暗な六畳ほどの部屋。慌てていたので部屋に入るときに入口の角に足の小指をぶつけた。軽くよろけて、敷きっぱなしだった布団の上にダイブする。大して痛くもないはずなのに、じわりと視界が滲んだ。
 眼鏡を外して雑に枕元に放る。
 湿った瞼を閉じると、歪んだ暗闇の中に吸い込まれていくような気がした。
 地球の中心で玉座にふんぞり返って座っていた僕という存在が、突然宇宙に投げ出されて果てのない空間を塵のように彷徨う感覚。
 好きな人から相手にされないというのはこんなにも辛いものなのか。
 このままじゃ絶世の美男でモテることには困らないという僕の最大のアイデンティティが崩壊してしまう。胸の奥に隕石が落ちてきたみたいだ。今まで僕に適当にあしらわれたり、利用されてきた人たちもこんな気持ちだったのだろうか。幾度と見てきた、瞳を曇らせて僕の前から去っていく人たちの姿が自分と重なる。初めて心が少し痛んだ。少しだけ。だって優秀で美しい僕がそこらの凡人相手に優しく接してあげて、角が立たないように振ってあげたんだからむしろ感謝してほしいぐらいだ。

 恋愛なんてちょろいものだ。そう思っていたのに。大牙くんと付き合い始めてから、なんだかいつもの調子が出ない。
 落としたい相手をその気にさせるのなんて簡単だ。目が合ったらじっと瞳の奥を見つめて、控えめに微笑んで小首を傾げる。男も女も、だいたい僕がこうしただけで落ちる。後は相手の欲望を引き出しながら、こちらが手綱を引いて手なずけていけばいい。
 大牙くんにも同じようにすればいいだけ。何度もそう思ったけれど。
 あの目つきが悪くパッと見怖いけれどよく見ると鼻筋が綺麗に通っていて、大きな口からふと覗く八重歯が男らしさの中に愛らしさも感じる顔をじっと見つめていると何故か動悸がしてきて集中できないし、お得意の駆け引きや色仕掛けを仕掛けようとしても、もし思った通りの反応をもらえなかったら、嫌われてしまったらどうしようと二の足を踏んでしまうのだ。
 僕らしくない。こんな気持ちになるのは初めてで、自分でもどうしたらいいのかわからない。
 それに、以前ふざけて大牙くんに迫って拒絶されたときのことが頭を過るのだ。煽るようなことを言って急に迫った自分が悪いとはわかっている。冗談だと言ってごまかしたけれど、大牙くんとだったら今すぐにでもそういう関係になってもいいって思っていた。だからこそ、拒否されたことが凄くショックだった。
 今、僕と大牙くんは一応恋人ということになっているけれど。大牙くんは優しいから、家から出ていくと言った僕が心配で、引き留めるために取り合えず話を合わせてくれていただけなのかも知れない。よく思い返すと、両想いっぽい雰囲気ではあったけど、大牙くんからはっきりと好きとか付き合ってとか言われた訳じゃない。僕はちゃんと好きって言ったのに!
 付き合っているというのも僕に都合の良い勘違いで、大牙くんにとっては友情や人助けの延長にすぎないのかも知れない。
 男に好かれることも多かったから気にしてなかったけど、大牙くんはもともとノンケだ。やっぱり男相手にキスとか無理って思われているのかも。そんな馬鹿な。そこらの女よりも綺麗だと言われてきた僕だよ? 前代未聞のカルチャーショックだ。でもそれなら全く手を出してこないことと辻褄は合う。

 もしまた拒絶されてしまったら、こんどこそ僕は立ち直れない。たったひとつの居場所もなくなる。

 枕に顔の半分を埋めていると、意識がぼんやりとしてきた。御嶽家に住み始めて初めての誕生日に大牙くんが買ってくれた枕。居候を初めてしばらくは客用の枕と布団を使わせてもらっていた。枕の高さが合わなくてよく首が痛くなったが居候の手前、何も言わず使い続けていた。そしたら春休みに入っていた僕の誕生日に大牙くんが買い物に連れ出してくれて、「枕合ってなかっただろ」と、ホームセンターで少しお高めの枕を買ってくれた。まだ付き合っていないときだったけれど、僕はそれが凄く嬉しかった。
 思い返すと、一緒に暮らし始めたばかりのときは楽しかったな。学校が終わってから駅で待ち合わせして一緒に帰ったり。僕たちが一緒にいるところを見てコソコソ陰口を言ってる同級生に大牙くんが威嚇してビビらせたり。僕が夜中にボイスチャットしながらオンラインゲームしてるときに「おい、うるせぇぞ」って大牙くんが乗り込んできて、パパ凸? 彼氏凸? ってゲーム仲間にからかわれたり。僕がご飯の野菜を残すことに怒った大牙くんがあらゆる料理にすりつぶした玉ねぎやほうれん草を入れてくる嫌がらせをしてきたり。たくさん喧嘩もしたけれど楽しかった。
 僕は高望みしすぎているのかも知れない。好きな人の傍にいられるだけで幸せだったのに。自分の欲深さが嫌になる。どうしてこんなに好きになっちゃったんだろう。だって大牙くんが優しすぎるから。僕の全てを受け入れてくれるんじゃないかって錯覚してしまうほどに寛容な大牙くんが悪い。そのくせ肝心なところで察しが悪いのが悪い。つまりは大牙くんが悪い。
 色々と考えるのが面倒になって微睡みに身を任せていると、廊下からミシミシと響く足音が聞こえてきた。
「おーい、秀也」
 扉越しに声が聞こえてくる。それだけできゅっと胸が締め付けられる。反応できずにいると、ドアを大きくノックされた。
「秀也、飯できたぞ。おい、無視すんな」
 苛立った声の大牙くんが、薄い扉を突破してきた。大牙くんはデリカシーのないところがあるので母親みたいに勝手に部屋に入ってくることがある。僕が一人でやらしいことでもしてたらどうするつもりなんだ全く。
「飯だぞ、起きろ」
 昼ご飯をほとんど食べていないせいで物凄くお腹は空いているけれど。そんな気分じゃない。仄かに漂ってくる香ばしい匂いに胃袋が心踊ったりしていない。
「おい、風邪ひくぞ……ったく」
 大牙くんは呆れたように言いながら、僕の足元にあった布団を背中に掛けてくれた。どうしてそんなに優しいの。嬉しさと情けなさと心苦しさでたまらなくなって、僕は目を開いて大牙くんを見上げた。
「大牙くん」
「……起きてんじゃねえか」
 大牙くんは小さく息を吐きながら、声のトーンを落として言った。薄暗闇の中、視線が重なる。何かを考えているような真剣な瞳。互いの心臓の音が響き合うような静かな空間。沢山の言葉が宙に浮かんで消えた。
 少しの間の後、僕はやっと紡ぎだした言葉を口にした。
「ねえ、なんで何もしてこないの」
「……え」
 大牙くんはピクリと体を揺らして、言葉を詰まらせた。
「僕、ずっと待ってたんだけど」
 言いながら喉が詰まって苦しくなってくる。
「……悪い」
 僕は上半身を起こして、布団の上であぐらをかいていた大牙くんに向き合った。
「大牙くんは僕のこと、どう思ってる?」
「…………すげえ、好き」
 長い沈黙の後、照れたように視線を逸らしながら大牙くんは言った。すげえ、好き。信じられないフレーズが、頭の中でリフレインする。思考が蕩けそうになったところで我に返り、僕は大牙くんに問いかけた。
「はっ!? で、でもさ、僕と……その……キス、とかできるわけ?」
「できるけど……していいのかよ」
 少し余裕のなさそうな焦がれた声で大牙くんは言う。
 胸がうるさいくらいに高鳴っていくのを感じながら、僕は言った。
「いいに決まってるじゃん……僕たち付き合ってるんじゃ、ないの……?」
「いや、俺もそういうつもりだったけど……悪い。俺、ビビってた。男同士でちゃんとできるのか、とか……がっついて体目当てじゃんって思われたら嫌だな……とか」
 大牙くんはきまりの悪そうに、ぽつりぽつりと言った。なんだかまた、目の奥が熱くなってくる。
「本当……? 僕だって、ずっと不安だったんだから……」
 意図せず震えてしまう声で僕が言うと、急に目の前に影が差した。ふわりと柔軟剤の香りに混じって、微かに雄々しい汗の匂い。熱い吐息が触れて思わず目を瞑ると、少しかさついた柔らかいものが唇に触れた。
 優しく押し付けられた初めての感触が、脳内を埋め尽くしていく。ほんのり温かくて、少しくすぐったい。何も考えることが出来ず、呼吸も出来ないでいると、やがて唇は静かに離れていった。 
「ん……」
「これで少しは安心したか?」
 静かな低音。ピントが合わないほどの至近距離で目が合う。熱の籠った瞳に心焦がれて、僕は小さく首を振った。
「……まだ、足りない……」
「ふ、これ以上したら止められねえと思うけど、飯……いいのかよ」
 小さく笑いながら、大牙くんが悪戯っぽく言う。
「後で食べるから、いい……今はそれより、も…………」
 飢えた僕が挑発にまんまと嵌まったとき。静かな部屋に突如「ぐぅうううううううう」と腹の音が大きく鳴り響いた。
 驚いてフリーズしてしまったが、気づいた。僕のお腹の音だ。火が付いたように顔が熱くなる。
「……っ、くくくく……っ、お前さあ……」
 大牙くんが、堪えるように喉を震わせながら言う。笑う時にきゅっと目尻が細くなるのが無邪気で可愛らしい。そういうところが好きなのに。なんかムカつく。
「わ、笑わないでよ……あーもー、食べよ、ご飯!」
 僕は勢いよく起き上がり、リビングへと向かった。
「おう、食え食え、腹減ってんだろ」

 ムードがぶち壊しになったところで、一時休戦。
 ご飯が並べられたダイニングテーブルに向かい合って座り、両手を合わせる。
「いただきます」
「……いただきます」
 腹の虫め、よくも邪魔しやがってと苛ついていたが、焼き目の香ばしい鯖を一口食べたら考えが変わった。相変わらず大牙くんが作るご飯は美味しい。やっぱり出来立てが一番だし、腹が減っては戦は出来ないし。
 食べながら、大牙くんをチラリと見る。大きく開けた口の中に白米を放り込む大牙くん。いつ見ても良い食べっぷりで、つい観察してしまう。
 僕はこの唇と、さっきキスしたんだ。小さく上下する薄い唇に釘付けになる。
 あの時、僕のお腹が鳴らなかったら、今頃どうなっていたんだろう。大きな口で僕をむしゃむしゃ食べるように、唇を、体中を、大胆に愛撫されてその先は…………
 箸が止まりそうになって、僕は慌ててご飯を食べ進めた。食事中だというのに、さっきの続きを妄想してしまった自分が恥ずかしい。顔がじんわり火照ってくる。
 大牙くんはそんな僕の気持ちを知る由もなく、黙々とご飯を食べ続けている。
 ……それにしてもなんか、静かだな。
 大牙くんは、もともと口数が多い方じゃないけれど、今は不自然なほどに黙りこくっている。僕の方から喋らないからかも知れないけれど。
 なんだか気まずくなってきたので、僕は好物の豆腐とわかめの味噌汁を飲み干してから口を開いてみた。
「……味噌汁、おかわり、ほしい」
 なんだか不自然な口調になってしまった。大牙くんはチラリと僕を見た後、再び手元に目線を落として言った。
「ん……自分で取れよ」
「……わかった」
 僕は渋々立ち上がって味噌汁をよそいにいった。
 え、大牙くんなんか怒ってる? そう不安になるくらいぶっきらぼうな物言いだった。確かにそのくらい自分でやれっていつも言われてるけど。その通りだけど。

「……ごちそうさま」
 おかわりの味噌汁も飲み干して、僕は小さくそう言った。
「おう……」
 大牙くんに口うるさく言われているので、自分の食べた食器をシンクで洗いながら、食べ終わっても椅子に座ったまま動かない大牙くんに声を掛ける。
「お風呂、僕先に入っていいの?」
「えっ、あー、うん……」
 大牙くんは僕を見ないまま、曖昧に答える。
「じゃ、入るから」
「……おう」
 目線の合わないまま僕は皿を洗い終え、リビングを後にした。

 ……気まずっ。大牙くんは全然喋らないし、僕も変なこと口走っちゃいそうで、なに喋ったらいいかわかんないし。
 でも様子から察するに、大牙くんもこの先のことを期待している。きっと僕と同じ。
 風呂場で服を脱ぎながら、徐々に心拍数が上がっていく。どうしよう。急にめちゃくちゃ緊張してきた。自分で大牙くんをけしかけたくせに。
 
 ボディソープとシャンプーのボトルを間違ってしまうくらいに僕は動揺していたが、いつも以上にしっかりと頭と体を洗い、歯も磨き、よく髪を乾かしてからパジャマに着替えてリビングに戻った。
「おまたせ……どっ、どうしたの……?」
 ソファに浅く腰かけた大牙くんが、大きく開いた膝に腕を置きながら背を丸めている。その顔つきは人ひとり殺してきた後のように凄まじく、気迫のようなオーラが大牙くんの周りを渦巻いている。
「……あれだよ。天下統一……? みたいな。気合い入れてた」
 大牙くんが凄みのある低音で答える。意味がわからない。
「何言ってんの?」
 もしかして精神統一って言いたかった? 面食らっていると、大牙くんはゆっくりと立ち上がって僕にこう言った。
「じゃ、行ってくる。……あ、さっきみたいに寝んなよ?」
「えっ、うん……」
 やっと目が合ったと思えば、大牙くんは風呂場にのそのそと歩いて行ってしまった。大きな背中を見送って、僕はぬくもりの残ったソファの上に膝を抱えて座った。
 背もたれに体を預けながら、言われた言葉の意味を考えては叫び出したくなるような衝動と格闘した。

 とりとめのない妄想が雲のように重なって、頭が爆発しそうになっていたところ。唐突に背後から声をかけられて背筋が跳ねた。
「秀也」
 振り返ると、湿り気の残った前髪から覗く瞳が強い力で僕を捕えている。
「俺の部屋、行くぞ」
 僕はあまりの迫力に押されて何も答えることが出来ないまま、立ち上がって大牙くんの後に続いた。
 元々おばあさんの部屋だったらしい大牙くんの自室。今は一人用のベッドとDMや財布などが雑に置かれたローテーブルと、服が入った衣装棚ぐらいしか置いていない殺風景な部屋となっている。
 大牙くんは暗い部屋の中に僕を促して立て付けの悪い扉をそっと閉めると、電気をつけないまま手探りで僕の手に触れてきた。
 大きくて温かい手が僕を包み込み、暗闇の中で手を引かれた。無言のままベッドの前まで連れて行かれて、心臓が飛び出しそうなほどに高鳴った。
「本当に、いいんだよな」
 大牙くんは言いながら先にベッドの淵に腰を下ろした。
「だから、いいって……言ってるじゃん」
 焦らされ続けて、僕のIQは3ぐらいに低下していた。投げつけるように言って、大牙くんの腿の上に跨った。前に拒絶された時と同じ体勢だと気づいてしまったが、考える隙も無いうちに抱き寄せられて、唇を塞がれる。
「ん……っ」
 体温が一気に上昇して、飢えたように体が疼きだす。初めてのキスのような触れるだけの優しい口付けが、ゆっくりと、徐々に角度を変えて繰り返されていく。
 触れては離れるくすぐったくもどかしい感覚。重なり合う湿った吐息。思考が蕩けそうになっていると、小さく音を立てながら下唇を啄まれて体がぴくりと震えた。
 大きな手のひらが、なだめるように僕の背中をゆっくりと撫でる。やがて半開きになっていた双唇の隙間から、熱く湿ったものが侵入してくる。うねるように滑る熱に口の中を撫でられて、うまく呼吸ができない。体に力が入らなくなって背中は丸まり、大牙くんにしがみつきながら、触れられるたびに小さく舌を震わせることしかできなかった。
「は、あ……っ」
 やっと解放されたときには、体にもう戻れないほどの熱が灯っていた。全身がじっとりと汗ばんで、シャツが素肌に張り付く感触がする。
 小さく見悶えながら必死に息を吸い込んでいると、体を支えられながら押し倒されて、ゆっくりとシーツに体が沈んだ。
「秀也」
 熱っぽい声に呼ばれて、僕はなんとか声を発した。
「ん……?」
「お前、もしかして……こういうの、初めて……?」
 ドキリと心臓が揺れる。僕はそっけなく答えた。
「うん……悪い?」
「悪いわけ……ねえけど。前あんな風に誘ってきたから、お前、慣れてるんじゃないかって……」
 あの日のことを、大牙くんもずっと気にしていたなんて。今更ながら物凄く恥ずかしくなってくる。出来ることなら忘れてほしい。顔が熱くなるのを感じながら僕は小さな声で言った。
「あっ、あれは……大牙くんに構ってほしくて……ちょっと背伸びしちゃっただけ……」
「な、んだと……!?」
 愕然とした声を上げて、大牙くんはフリーズした。
「え、なに……」
「……可愛すぎんだろ、お前」
 やっと発せられた余裕のない声色とともに、優しい指先が降ってきて僕の前髪を撫でた。眼鏡をそっと外されて、暗闇に慣れてきた視界が再び悪くなる。
 額に、耳朶に、首筋に……柔らかな口づけが落とされていく。触れられる度に体が熱を帯びて、頭がぼんやりしてくる。
 シャツ越しに胸元を探られて、指先の動きに全神経が集中してしまう。心臓の音が伝わってしまいそうで落ち着かない。
 不意に敏感な箇所に触れられて、体が小さく跳ねた。
「……っ」
 するとシャツの裾から湿った指先が忍び込んでくる。今度は狙いを定めて、先端に触れてくる。甘い痺れが、背筋を駆け巡っていく。
「ん……う……」
 僕の反応を伺うように、二本の指が纏わりつく。優しく撫でるように擦られ、摘まれると体の奥がたまらなく疼いてくる。
「ここ、弱いのな」
 大牙くんは嬉しそうに囁きながら、指先でちょんちょんと先端をつついてくる。ぞわりと体が浮く感覚がして、僕は小さく首を振りながら言った。
「っ、わかんない……っ、なんかくすぐったい……みたいな……」
「その反応、すげえかわいい」
「ん、恥ずかしいよ……」
 思わずシーツに頬を埋める。するとシャツの裾を捲り上げられて、胸元に熱い息が触れる。息を飲んでいると、生暖かいものが肌の上を這い始めた。
「ふあ……っ」
 軟体動物のように蠢く熱が、焦らすように周辺をなぞっていく。変な声が出るのを耐えながら悶えていると、敏感になった先端にぬるりとしたものが触れた。
「あっ……!」
 喉から甘ったるい声が漏れて、死にそうなくらい恥ずかしい。追い打ちをかけるように、音を立てて啄まれ、ねっとりと撫でまわされる。
 体の中心が、既に達してしまいそうなほどに熱をもって疼いている。
「も、だめ……」
 たまらず音を上げると、胸元で僕を見上げた大牙くんが、甘ったるい低音で囁く。
「秀也のかわいいところ、俺だけが知ってるって思うと……すげえ、嬉しい」
 すぐにまた、反対側の弱点も責められ、腰が浮いてしまう。大牙くんは舌での愛撫を続けながら、見定めるように僕の下半身に触れてきた。
「あぁっ」
 服越しに形を確かめた指先が、ウエスト部分から侵入してくる。思わず息を止めていると、ズボンと下着をずり下ろされて、熱に直接触れられる。
「うあ、あ……ぁ」
 初めて人から触られたそこは、急激に熱をもって脈打ち始める。気持ちよすぎて、なにも考えることができない。
 胸への愛撫も止まらないまま、上下に擦られると、すぐに最果てへと意識が飛び立っていく。
 訳の分からないまま喘いで、僕はあっという間に絶頂に達してしまった。
「あっ……あ、は……っ」
 必死に息をすることしかできない。絶頂の甘い余韻が体中に響き渡り、小さく見悶えていると、吐息交じりの声が聞こえてきた。
「その顔、俺だけにしか、見せるなよ……絶対」
 ぼんやりと映る、大牙くんの熱を帯びた表情。たまらなくなって、僕は息を切らしながら言った。
「見せるわけ、ないじゃん……僕には大牙しかくんしかいないんだから」
 僕が言うと、大牙くんは乱雑に自分の服を脱ぎ捨てて、僕に再び迫ってきた。中途半端に脱げていた服を脱がされて、体中にキスを落とされる。
 凪いでいた熱情が、またすぐに灯される。やがて体の奥へと続く未知の箇所に触れられて、体が大きく震えた。
「ひっ……」
 濡らされた指先が秘部に触れて、徐々に体内に侵食していく。異物感に耐えながら、僕は必死に息をした。
 じっくりと僕の中を行き来する指が、一本ずつ増やされて、飽きる程に繰り返されていく。湿った水音と、二人の荒い息遣いしか聞こえない空間。生殺しのような愛撫に気が触れそうになっていたところ、大牙くんが先に音を上げた。
「悪い、もう、限界」
 大牙くんが準備していた小袋を破る音が聞こえてくる。ほどなくして両脚を持ち上げられて、大きな熱の塊が押し当てられるのがわかった。
「あぁ……っ!」
 体を割くような質量が、じわりじわりと内側に入り込んでくる。苦しくて、息ができない。
「秀也、へーき、か……?」
 荒い息を吐きながら、大牙くんは言った。大牙くんの存在が、体の奥深くまで満ちていく感覚。多幸感に包まれて、頭から自然と飛び出してくる言葉を口にした。
「たいがくん、好き……」
 僕の全てを預けたくなるくらいには、君のことが好き。
 ずっとこうしたかった。愛する人の鼓動を、血潮を、こんなにも近くで感じることができる。泣きたくなるくらい嬉しくて、胸が締め付けられるように切なくて、温かい。
「俺も、好きだ、秀也」
 切迫した声が、体の奥深くを揺さぶり続けている。打ち寄せる大きな波に体を任せることしか出来ない。
「あっ……大牙くん……っ、も……だめだ……っ」
「やばい、好きすぎて……おかしくなる……っ」
 触れそうな程の至近距離で、熱の籠った瞳が僕を貫く。顔を顰めた余裕のない表情も好きだ。激しい衝動を打ち付けられて、意識が疎らな中、僕は愛しい人の名前を呼んでいた。
「大牙くん、たいがくん……っっ……!」
 荒い息が混ざり合い、唇が触れた。貪り合うように口づけを交わし、より深く繋がり合う。
 僕たちは暗闇の中、互いの熱を確かめ合いながら、微睡みの中へと沈んでいった。



 自分が寝ているのか起きているのかわからない。子守歌のような鼓動や吐息に誘われて意識を手放しては、小さな愛撫や囁きで引き戻される。繰り返す心地よい微睡み。
「悪い……あんま優しくできなかった……かも」
 静まり返っていた空間に、大牙くんの声が小さく響いた。
 温かい布団の中では、汗の引いてきた素肌が触れ合う感触。
「ん……へーき」
 掠れた声で、僕は返事をした。本当は声を出すのも怠い。何もしたくない。
「痛いところとか、ねえか」
 呆然としている僕に、大牙くんが心配そうに問いかけてくる。最中はアドレナリンが出ていたのか、痛いとかわからなかったけれど、今は体中が疲れ果ててるし、怠いし、変な感じがする。
「うん……なんかまだ……入ってるみたいな感じするけど」
「だっ、大丈夫かよ……ゴメン、次からは、もっと加減する……」
 僕が正直に言うと、大牙くんは珍しくしゅんとしながら謝ってきた。なんだか犬みたいでいじらしい。そういうことをされると、何でも許してしまうし、もっと欲しくなる。
 僕は大きく息を吸い込んで、腕の中で上目遣いをしながら言った。
「……明日の昼ご飯にハンバーグ作ってくれるなら、許す」
「ふっ、なんだよそれ……わかった。目玉焼きもつける」
 目を細めながら言う大牙くんに、頭をくしゃくしゃと撫でられる。今度こそ本当に、意識がふわふわと遠のいていく。僕は血潮の脈打つ素肌にすり寄りながら、瞼の落ちる重力を受け入れた。