早いもので狐嶋と同居し始めてから、もうすぐ一年が経とうとしていた。
 ソファの上での出来事があった後も、俺たちの関係は特に変わることなく今まで通り共同生活を続けていた。狐嶋はもともと変な奴だし、あれもきっとただの悪ふざけの一環だろう。無理にでもそう思わなければ、俺の心臓はもたない。ただでさえ昔からアイツには翻弄され続けているのだから。
 今日も平常心、平常心。そう心の中で唱えながら俺が仕事から帰ると、狐嶋の様子がおかしい。
「ただいま……ってどうしたんだ、お前」
 リビングに立ち尽くしていた狐嶋は返事もせずに神妙な面持ちでこちらを見る。 
 キッチンの床にはゴミ袋にまとめられた大量の空き缶。俺が貸していたジャージや部屋着はきちんと畳まれ、テーブルの上に置かれている。
「やっぱり僕、出ていくよ」
「は?」
 唐突な宣言に、俺は思わず聞き返す。
「ちゃんとアルバイトと住む場所決めてさ、これ以上、大牙くんに甘えるわけにはいかない」
 狐嶋は喉が詰まったような苦しそうな声で言う。
「いきなり、どうしたんだよ。俺、迷惑じゃないって言ったよな?」
 突然のことに混乱しながら俺が言うと、狐嶋は声を荒げた。
「違う……そういうのが、困るんだよ……っ!」
「な……?」
「そういう風に優しくされると、勘違いしちゃうんだよ……」
 顔を背け、泣き出しそうな声で狐嶋は言う。
「一緒に暮らしてるとさ、おかしくなりそうなんだ。だから、ごめん」
 俺が自分の感情を見て見ぬふりをしていたことで、狐嶋のことを傷つけていたのかも知れない。
 自分がどれだけ鈍感でもわかる。狐嶋も俺と同じ。友達という蓋では抑え込むことができない不可解な感情と戦っている。
 俺も向き合わなければいけないと思った。
「なあ、そう思ってんのは自分だけだって自己完結してねぇか? 俺だってお前のことでずっとモヤモヤしてんだよ」
「でもさ、大牙くんのはさ、そういうのじゃないでしょ」
 自らに言い聞かせるように、狐嶋は続けた。
「君は人助けの一環で僕を気にかけてくれているだけなんだ」
 勝手に決めつけるな。確かに初めて会ったときはそうだった。困ってると思ったから反射的に助けに行っただけ。でも今は違う。
「あのな、ただの人助けでここまですると思うか?」
「うん。だって、君の生きがいなんでしょ? 人助け」
「んなわけあるか。たまたま目についたらそりゃ助けに行くけどさ……やれる範囲でやってるだけだし、お節介だとわかったらやらねえし」
 俺は慈善活動家なんかじゃない。ボランティアや募金だってしたことがない。人助けで気持ちよくなってる訳でもない。ただ、目の前の困ってる人を見過ごすのは信念に反するってだけだ。
「そう……なの……?」
 不安そうな表情で、狐嶋が見上げてくる。
「ああ、少しでも好意がなかったら、わざわざお前みたいなめんどくさい奴と一緒に暮らそうなんて思わねーよ」
「面倒くさくて悪かったね。でもさ、大牙くんの好意は友達として……ってことでしょ」
「……俺もよく、わかんねぇんだけど。初めて会ったときから秀也のこと、ずっと気になってた。放っておけないからってのもあるけど、俺の見た目にビビらずに対等に話してくれたのがすげぇ……嬉しかったんだよな」
 言いながら、頬の奥が熱い。初めて言葉に出すことで、自分の気持ちが浮き彫りになっていく。聞いていた狐嶋もまた、照れくさそうに言葉を詰まらせている。
「え、そ……そう……」
「……なんだよ」
「いや、君みたいなまともな人間に好きになってもらえたことがなかったから……凄く驚いてる」
「今までどんな奴らに囲まれてたんだよ。危ねぇから。もう、出ていくなんて言うなよ」
 まともだなんて人から言われたことがなかった。俺が苦笑すると、狐嶋の表情がパッと明るくなるのがわかった。
「あ、じゃあこれからも大牙くんのご飯、食べ放題ってことだよね」
 狐嶋は嬉しそうに言って、小首を傾げて見つめてくる。わざとらしい仕草にまんまとハマってドキドキしてしまう。
「おい、飯目当てかよ」
 照れ隠しに悪態をつくと、静かに微笑んだ狐嶋と目が合った。
「嘘。好きだよ、大牙くん」
 頬を赤らめながら言う狐嶋が、傷だらけの手にそっと触れてくる。
 体温と心拍数が一気に跳ね上がる。
「ふふ、照れてる?」
「照れてねえ」
 本当に心臓に悪い、この男は。でもきっと、それはお互い様。
「顔真っ赤だよ」
「おまえもな!」
 熱を持った指先を軽く握り返して、俺は叫んだ。