俺と狐嶋は、あれからずっと一つ屋根の下で暮らしている。
「おい秀也、それ今週何本目だよ」
狐嶋が冷蔵庫からショッキングピンクが目にうるさいエナジードリンクの缶を手に取るのを見て、俺は思わず声をかけた。狐嶋はプシュッと良い音を立てて開封した缶を俺に差し出そうとしてくる。
「んー、わかんない。大牙くんも飲む?」
仕事帰りで今から夕飯を温めて食おうとしている奴に渡すもんじゃないだろ。
冷蔵庫はお互い好きに使っていいということになっているが、狐嶋は全く自炊をしない。専らエナジードリンクをストックするのに使用している。
「いらねえ、ゴミちゃんとまとめとけよ」
狐嶋の部屋に、大量の缶ゴミが放置されているのを俺は知っている。俺が自室として使っていた部屋をそのまま狐嶋に使わせているのだが、布団はずっと敷きっぱなし、窓もカーテンも開けない。参考書や雑誌を床に放置して、俺がキレて強制的に掃除をさせるまでは汚い部屋のまま生活している。俺もそこまで綺麗好きという訳ではないが、最低限の掃除はしていた。今の部屋はまるで全くの別部屋だ。
一緒に住んでみてわかったが、狐嶋は生活能力が全くない。正確にいうと、やればできるのにやろうとしない。風呂などの共用箇所の掃除や朝のゴミ捨てなど、分担している家事は仕方なくといった感じでやってはいるけれど、それ以外は基本的に俺任せ。見かけによらずズボラな奴だ。
俺のお下がりのジャージを着てソファに転がっている姿は、本当に高校時代の狐嶋と同一人物なのか疑いたくなる。
「大牙くんて、なんでもできるよね。お母さんみたい」
俺がソファの隣に座ろうとすると、狐嶋は姿勢を正して背もたれに体を預けた。
「んだよ、お母さんって」
「この前、夜食にラーメン作ってくれたでしょ? あれ美味しかった」
課題の締め切りだとか、同級生たちとオンラインゲームをしたりだとかで、よく夜中まで起きていることが多い狐嶋。以前キッチンでゴソゴソとカップ麺を作って食べているところに遭遇して、次に夜更かしするときは俺がなんか作ってやると思わず宣言してしまったのだ。結局作ったのはただのインスタントラーメンだったけれど、ちゃんと野菜と肉も入れてやった。
「あんなんでよければいつでも作る。お前すぐ飯抜くし偏食だろ? 心配なんだよ」
俺は週末に作っておいた山盛りカレーを頬張りながら言った。鍋の中身が少し減っていたから狐嶋も食べたのだろう。
「献身的だねぇ。あのさ、僕みたいな男相手じゃなくて彼女にでも作ってあげれば?」
からかうように、狐嶋は言う。一緒に暮らしていれば彼女の有無ぐらいわかるだろうが。きっと狐嶋なりのコミュニケーションの取り方なんだろうけど、独特すぎんだろ。正直めんどくさい。
「いねえよ、そんなん」
「ふふ、君みたいなヤンキーってさ、案外硬派だよね」
「俺はヤンキーじゃねえ」
「でも、さすがに今までに彼女ぐらいはいたことあるでしょ」
狐嶋は、いつにもなくしつこく食い下がってくる。俺は心が広いので、構って欲しいんだなと解釈して、馬鹿正直に答えてやる。
「昔いたけど、真剣に付き合ってたつもりだったのに俺は重いってさ、浮気されてフラれた。はー、嫌なこと思い出させんな。お前はどうなんだよ」
中三の終わりから高一の初めまで付き合っていた元カノ。ちょっとしたトラウマになって、あれから恋愛なんてする気が起きなくなってしまった。そもそもヤンチャな奴がごろごろいた中学時代と違って、真面目くんの多い高校では誰からも相手にされなかったし。今の職場は男ばっかりだし。どうせ俺はお前と比べてつゆほどもモテないよ。どうぞ笑ってくれ。
「僕はいないし、いらないかな」
狐嶋は突然興味がなくなったかのように、テレビに目を向けながら言った。まるで猫だ。
「あー、お前が普通に恋愛してるとこ想像つかねーわ」
「うん。面倒くさいし、たまに遊べればそれで。色々誘われるから相手には困ってないし」
狐嶋は聞き捨てならない台詞をさらっと言ってのける。
「は? お前まだそんなことやってんの?」
「だって奨学金返さなきゃいけないしさ、結構ギリギリなんだよね。ちょっとお茶したりカラオケ行ったりするだけで色々買ってもらえたりするならいいかなって」
手に持っていた缶をテーブルに置き、スマホをいじりながら狐嶋は言う。
「お前マジでさ、いい加減やめろってそういうの」
苛立ちを覚えながら俺が言うと、狐嶋はやっとチラリと俺を見てから言った。
「別に体売ったりしてる訳じゃないんだし、いいじゃん? 少なくとも大牙くんには迷惑かけてないと思うけど」
体の関係がないことに内心ホッとするも、やっぱり気に入らない。
「そういう問題じゃない。金だって……そんなに困ってるなら俺も少しは協力できるし」
まだまだ半人前だけど、一応ちゃんと働いてるし、多少なりとも貯金はしている。少しは頼ってくれてもいいのに。
「ただでさえ居候させてもらってるのに、これ以上君に迷惑かける訳にはいかないよ」
突然真顔になった狐嶋は、静かな声で言った。図太い神経をしてると思えば、変なところで気を遣ったり線引きしてくるところがある男なのだ。本当にめんどくさい。でもそうされると、余計に踏み込みたくなる。
「俺さ、お前のこと……迷惑とか、思ったことねえから」
俺は空になったカレー皿を静かにテーブルに置いて言った。
目を丸くして俺の言葉を聞いていた狐嶋が、怪しげに微笑みながらにじり寄ってくる。
「……ねぇ、ずっと彼女いなくて寂しいならさ、僕が相手してあげようか」
「はっ!?」
唐突に脈絡のないことを言われて、声が裏返ってしまう。
「君には凄く感謝してるからさ……無理にはしないけど。案外、やってみると平気だと思うけどね」
狐嶋は言いながら、ソファに座ったままの俺の脚に跨った。爽やかながら甘い香りがふわりと鼻をくすぐる。すぐ目の前に不敵な笑みを浮かべる整った顔が近づいてきて、心臓が飛び跳ねる。
いつも見下ろしてばかりだったけど、下から見ても狐嶋の顔は綺麗だった。繊細な顎のラインも、口角の上がった厚みのある唇も。落ちてきそうなほど長い睫毛も、今にも触れてしまいそうな程に近くにある。
飛び散ってしまいそうになる理性を俺は必死に搔き集めて、俺は口を開いた。
「や、やめろよ、そういうの……軽々しくヤるもんじゃねぇだろ」
これ以上近づいたら、理性の糸がプツンと切れてしまいそうで。俺は顔を背けて、腕で軽く狐嶋の体を押しのけた。
「ふ、ふふふふっ……ごめん。冗談だよ、君ってからかいがいがあるからさ」
そう言って俺から離れると、狐嶋はテーブルから缶を拾い上げて口をつけた。
「はあっ!? ざけんなよマジで」
俺は叫びながら、立ち上がって皿を手に取りキッチンに急いだ。
「マジで調子狂うわ、お前……」
俺は言って、シンクに皿を置いた。
「うん。こっちのセリフだけどね」
ソファに座り直した狐嶋はテレビに目をやったまま小さく呟いた。意味わかんねえ。
出会ったときからだけれど。狐嶋といると頭の中がぐしゃぐしゃになる。狐嶋はいつだって何を考えているのかわからなくて、やってることもめちゃくちゃで、苛つくのに自然と目が離せなくなってしまうのだ。
この感情は、いったい何なのだろう。答えを見つけたら何かが壊れてしまいそうで、俺は考えることをやめた。
汗ばんだ作業着越しに乾いた風がひんやりと沁み込んでくる季節になっても、晴天の直射日光はまだ容赦なく肌を突き刺してくる。じりじりと首の後ろが焼け尽くされそうなほどに熱い。今日は狐嶋が貸してくれる日焼け止めを塗り忘れた。もともと日焼け止めを塗る習慣なんてなかったけど、夏に一度、火傷したような酷い日焼けをしてしまったときに狐嶋にこっぴどく叱られた。それ以降、仕事中に行く前には日焼け止めを塗ることを義務付けられている。狐嶋は俺を母親みたいとか言ってからかうが、アイツにだってそういう面はある。
自分はプラプラほっつき歩いて好きな時間に帰ってくるくせに、俺が少し帰りが遅くなると「どこ行ってたの?」「誰と会ってたの?」とか目ざとく聞いてきたりするし。
俺には母親がいないからいまいちピンとこないが、本物の母親に言われたら普通は「うざい」「一々聞いてくんな」って反抗したくなるのだろう。だが相手が秀也なら話は別だ。表面上は「うるせーなー」って顔をしながら俺は律儀に答えてやる。そうすると秀也は口を尖らせて「ふーん」と素っ気なく返事しながら、ちょっと嬉しそうに目を見開くのだ。
なんかよくわからないけれど、嫉妬されてるみたいで悪くない。いつもは俺が翻弄されてばかりいるけれど、狐嶋だって俺に対して余裕がなくなったりするんだって思うとちょっと可愛い。
最近、俺は狐嶋のことばかり考えてしまう。出会ったばかりのときからそうだったけれど、親しくなるにつれてあの奇妙奇天烈な存在にも慣れてきたつもりだった。
それなのにまた、狐嶋のことがわからなくなった。自分のことも、わからない。
「おい御嶽、なにぼーっとしてんだ。もう休憩終わってるぞ」
頭を軽く叩かれて、俺は我に返った。
「っ、すんません……!」
コンクリートの土台の上に座ったままだった俺は、開けっ放しだったペットボトルの蓋を締めて慌てて立ち上がった。年季の入った作業着を着た棟梁の後姿に急いで続く。
周りに心配ばかりかけていた俺ももう立派な社会人。きっと天国でばーちゃんも安心してくれていることだろう。自分の住んでいた家に変な男が住み着いているのはどうか見逃して欲しい。
しんどいことも多いけれど、今の仕事は楽しい。体を動かすことは好きだし、体格の良さを生かせる仕事に就けてよかった。
社会に出てからも俺の謎体質は相変わらずで、作業現場の前を走り去ろうとするひったくり犯を捕まえたり、高所から落ちかけた同僚を助けたりと慌ただしい日々を送っている。
仕事さえきっちりとやっていれば評価してもらえる職場なのはありがたいが、最近は気持ちが浮ついてしまっている自覚がある。
俺は自分の頬を両手で強く叩いて気合を入れ直した。
