乾いた空気がひんやりと冷えた夜十時すぎ。高校の最寄り駅の駅前は、飲みに繰り出す浮かれた若者たちや、ギターの弾き語りをするストリートミュージシャン、仕事帰りと思われる死んだ目のサラリーマンなどが行き交い混沌としている。放課後、週に三、四日ほど入っている居酒屋でのバイトの帰り。週末ということもあり、忙しさでイラついている料理長に散々こき使われ、へとへとになって駅へと向かっていたところ。
駅の入り口前にある広場で、俺はふと足を止めた。植え込みと一体化したベンチに座って待ち合わせをしている人々の中に、見覚えのあるシルエット。
「狐嶋……?」
シャツにカーディガンという私服姿で一瞬わからなかったが、確かに狐嶋だった。広場にあるベンチに浅く腰かけて、スマホを操作している。こんな遅くに外にいるなんて、塾や予備校にでも行ってたのか? と思ったけれど手ぶらだ。
俺が近づくと、狐嶋は目を見開いて驚いた表情を見せた後、気まずそうに視線を落とす。
「……なんだ、君か」
「どうしたんだよ、その顔……!」
左の頬が赤く腫れている。透き通るような白い肌についた痕は酷く痛々しかった。
狐嶋は言い淀んだあと、揺れる瞳を泳がせながら口を開いた。
「あー、……決まりそうだった推薦蹴ったことが父親にバレた。それで口論になって……本当は専門学校に行きたいと言ったら殴られた。今までお前にかけた金が無駄だった、勘当だ、って」
そう言って俺を見上げると、狐嶋は困ったように眉を下げながら小さく笑って見せた。そんな顔されたら、居ても立っても居られなくなる。
「……おい、お前の家教えろ」
頭から湧き上がってくる血潮が体中を波打ちながら駆け巡る。今すぐにでも走り出し、叫びたくなるような衝動。
「えっ、なんで?」
狐嶋は驚いた声を上げる。
「お前の親父ぶん殴りに行く」
俺がわなわなと震える拳を見つめながら言うと、狐嶋は慌てた様子で立ち上がって俺の腕を掴んだ。
「はっ? やめてよ、いいよ、もう……」
「でも、こんな綺麗な顔に傷なんて……」
「ふふ、そんな風に思っててくれたんだ?」
無意識で出てしまった言葉に後悔したが、狐嶋の暗い顔が少し晴れたのがわかってホッとした。
「ちっ、ちげぇし……あー、もう……」
俺はバツが悪くなって頭を掻いた。狐嶋の顔を直視できないでいると、頬に貼りっぱなしだった絆創膏越しに、冷たくて柔らかいものがそっと触れる。驚いて見ると、狐嶋が俺の頬に触れていた。
「いいじゃん、お揃いみたいで。僕、結構気に入ってるよ」
「はぁ……馬鹿かよ……」
俺のは殴られた傷じゃねえし。懲りずにまた近所の猫にやられただけだし。心の中で悪態をつきながらも、心臓がうるさく高鳴っていく。
「うん。馬鹿かもね。せっかく将来安泰だったはずがさ。これからどうしよう」
狐嶋は他人事のように言って、遠くを見つめながらため息をついた。
「家から追い出されたんだろ? どうすんだよマジで」
「うーん……卒業して家が決まるまでは適当に誰かの家に泊めてもらう。あては結構あるし。今返信待ち」
狐嶋はそう言いながらスマホをタップし始める。反射的に俺は叫んだ。
「だっ、駄目だ!」
「なんで? 今お金もそんな持ってないし……僕に野宿でもしろっていうの?」
「お前のことだから、泊めてもらう相手ってぜってーろくでもない奴らだろ。普通に危ない」
セクハラ教師の顔が脳裏に浮かび、背筋が凍っていく。
「平気でしょ、僕、男だし」
狐嶋は首をかしげながら言う。
「男とか関係なしに駄目だ。危なっかしすぎるんだよお前は……」
「じゃあどうすればいいんだよ。頭下げて家に戻れって? そんなの……」
珍しく苛立った声。狐嶋の顔が急に強張る。どうしてだろう。この男が見せる表情は、どれも放っておけなくて、無理矢理にでもその内側に踏み込みたくなってしまう。
俺は、よく考えもせず口を開いた。
「……俺んち、来るか?」
「え?」
狐嶋は大きな目を更に見開かせてフリーズしている。
「俺、一人暮らししてんだよ。もともとばーちゃんの家だったから部屋なら余ってる」
単に事実を述べただけだが、固まっていた狐嶋の表情が徐々にくしゃくしゃに歪んでいくのがわかった。
「う、嘘……そんなことある?」
「ある」
「だってさ、君は嫌じゃないの?」
「別に」
「僕、君に散々ひどい態度取ってたよね? それなのに……いいの……?」
僅かに震える声。初めて見る表情。もっと知りたくなる。
「ふ、自覚あったのかよ。別に気にしてない」
と言いつつ本当はめちゃくちゃ気にしてたし、根に持ってあれこれ考えていたけれど。俺は優しいから全てチャラにしてやる。
「えええええっ、ほ、本気にするよ……!?」
狐嶋は大げさな声で言った。顔を真っ赤にして泣き出しそうに目を潤ませている姿を見て、狐嶋のことを初めて可愛いと思った。
俺たちは無事高校を卒業して、俺は建設会社に就職し作業員として働き始めた。狐嶋は、ゲームクリエイターになるための専門学校に通っている。
なんと狐嶋は高校時代、勉強もせず夜な夜なオンラインのスマホゲームや、スマホアプリで出来るゲーム作成に励んでいたらしい。子どもの頃からずっとゲームを禁止されていた反動かなと本人は自嘲していたが。
狐嶋が高校時代に作ったゲームを見せてもらったことがある。レトロ感のあるシューティングゲームや、謎解きをしながらダンジョンを進んでいくRPGのようなゲームなど。俺はゲームに詳しくないが、学生が独学で作ったにしてはクオリティが高いと思った。
今は専門学校で3DCGを学んでいるとかで、3D映像を作るソフトでキャラクターを動かしているのを見せてもらったりもした。機械音痴な俺にはちんぷんかんぷんだったが、俺に説明してくれているときの狐嶋の顔が凄く生き生きとしていて、楽しそうだったのをよく覚えている。
きっと、狐嶋の居場所はここにあるんだと思った。それまでは、高校の時に俺が余計なことを言ったせいで狐嶋の人生が狂ってしまったのではないかと自責の念に駆られることもあったが、勝手に報われたような気がした。
医学部を蹴ってゲームの専門学校に行くなんて、なかなかの勇気と覚悟だと思う。親父さんがキレるのもわからなくもない。狐嶋は家を飛び出したあの日から父親と顔を合わせることもなく実家とはほぼ絶縁状態。最低限の家との連絡は、お兄さんを介してしているらしい。
高校の連中も、受験からドロップアウトした狐嶋を陰で笑う奴、腫物を触るように接する奴。弱っているところにつけ込もうと近づいてくる奴。教師たちからも責められ、考え直すように説得され、大変だったそうだ。
特にあのセクハラ教師。狐嶋のことをいつまでもしつこくつけ回して、『僕が好きだった狐嶋くんはどこへいってしまったの』『卒業したら、先生と一緒に暮らそう。君はなにもしなくていい、ただそこにいるだけでいいから』などと気色の悪いメッセージを何度も送りつけたり、家の近くで待ち伏せしたりとストーカー行為をしてきやがった。ついには、「君の考えが変わるまで、ここから逃がさない」と、狐嶋を進路指導室に軟禁したものだから恐ろしい。
狐嶋が隙を見てメッセージを送ってきたから、無事助けることができてよかった。その場で怪我のない程度にシメて、二度と狐嶋に関わらないように約束させた。校長や警察に相談することも考えたが、狐嶋が拒んだのでしなかった。狐嶋にも考えるところがあったらしい。
