親の言うことさえ聞いていれば、全てが上手くいく。誰からも羨まれる存在でいられる。
そう思っていた。見てくれが良く、家が小金持ちというだけで万能感に浸っている馬鹿な子ども。何も考えずに調子に乗っているクソガキのままでいられたらどんなによかっただろう。
僕はずっと覚えている。顔を真っ赤にして眉と目を吊り上げた鬼の形相。地響きのような低い怒鳴り声。初めて父親に殴られたのは高校一年の夏だった。
一学期末のテストで僕は学年で十六位の成績を取った。中学の時は常に学年の中で十位以内の成績を収めていたから少しショックだったけれど、そんなに悪い成績だとは思わなかった。だから父親に酷く叱責されたとき、何が起きているのかわからなかった。
頭を殴られ、ショックと打撃の余韻でぐわんぐわんと平衡感覚を失っていると、父親の背後の壁に飾られている賞状たちが目に映った。地域医療に貢献した父を賞したもの、高校の成績優秀者として表彰された兄のもの。どちらも大きく立派な賞状の隅に、僕が中学の時に絵画コンクールで銅賞を取ったときの一回り小さな賞状が縮こまるように飾られていた。
そういえば、昔は絵を描くことが好きだった。小学生の時、ピアノ、書道、水泳と一緒に習わされていた絵画教室だが、中学に上がると塾の回数を増やすために辞めさせられてしまった。それ以来、授業以外で絵を描くことはなくなった。賞を取ったのはたまたまだし、仮に絵の才能があったとしても、何の役にも立たない。
わかってはいたけれど、殴られたときにはっきり気づいた。この家における『優秀』の基準に僕は到達していないし、その見込みもない。難関大学の医学部をストレートで合格できる父と兄が立派な鷹だとしたら、僕は精一杯背伸びをしながらよちよち歩きで二人を追いかけるトンビの雛でしかない。
自分は一体何をしたいのか。自分は何のために存在しているのか。全くわからなくなってしまった。
僕が今までしてきた努力も、これからする努力も、自分のためのものではなく、見栄と支配欲に取り憑かれた父親の養分として献上するためのものだということに気づいてしまった。
自分のための努力は、することすら許されない。
そう悟った途端、自分なりに努力してきたつもりだった勉強に一切興味がなくなってしまった。嫌悪感すら覚えるようになった。
放課後にふと窓の外を見ると、サッカー部の生徒たちがグラウンドを駆け回り、ゴールを決めると肩を組み合って喜んでいた。
塾へと足を急がせる途中、談笑しながら繁華街に消えていく同級生たちの背中を見送った。
きっと彼らは、自分が好きなことをしても、誰かに咎められたり否定されることなどないのだろう。自分の道を自分で選ぶことができる。例え人から羨まれることがなかったとしても、仲間たちと笑い合いながら生きていくことができる。
足元がすっと冷えていくのを感じた。僕がずっと歩いてきたのは氷が薄く張った湖の上だ。少しでも躓けば氷にヒビが入り、足元はバラバラに崩れ、冷たい水の底へと落ちて行く。苦しくてもがけばもがくほど、肺に水が入り込み、呼吸ができなくなって沈んでいく。
世界が一転しても、ちっぽけな僕にできることなど何もなかった。
無力感を引きずりながら毎朝学校へ行き、行きたくもない塾に週四回も足を運ぶ。我が家の決まりで塾のない日でも家へ直帰しなければならず、家に帰っても漫画やテレビゲームなどの娯楽は一切禁止されているので何も楽しいことがない。
いっそのことグレてしまおうかと考えた。とは言っても、悪い虫を徹底的に排除した温室育ちの自分には、グレる方法がいまいちわからなかった。不良の友達や知り合いもいないし、そもそも不良って普段どんな生活をしているんだろう。わからない。
そういえば同じクラスの女子生徒たちが、一般クラスに遅刻を繰り返している金髪の不良がいると話しているのを聞いたことがある。遅刻はまだしも、僕が金髪なんかにした日にはボコボコに殴られ家を追い出されそうだ。追い出されるならまだいい。母親がお祓いだ病院だカウンセリングだなどと騒ぎ出し面倒なことになるのが目に浮かぶので却下。いきなり本格的な不良になるのはハードルが高い。少しずつ様子を見ながらグレるのがいいと思う。
とりあえず学校でもサボってみるかと思ったけれど、家にいたら専業主婦の母にバレバレだし無理矢理にでも学校へ行かされる。学校に行くふりをして無断欠席することも考えたが親に連絡がいったらまずい。
仕方なく学校へは行くことにして、まずは塾をサボってみることにした。
運よく塾講師の一人と連絡先を交換していたので、体調不良で休むと伝えた。これで親バレは回避できる。
上の空のまま六時間目の授業が終わり、やっと放課後になった。クラスメイトたちは連れ立って部活に向かったり、駅前の繁華街で遊ぶ話などで盛り上がっている。
普通の高校生は放課後に友達と買い物に行ったり、カラオケに行ったり、カフェに行ったりするものなのだなと改めて感心しながら、自分にはそんな相手がいないことに気が付いた。
誰とも分け隔てなく交流してはいるが、特定の仲のいい友人はいない。放課後は遊ばずに家に帰って来いと言われているし、特に気が合いそうな相手もいない。人間関係にあれこれ口出ししてくる母親に詮索されるのも面倒だし(恋愛なんて以ての外)、今の近寄りがたい優等生ポジションは楽なのだ。
孤高の優等生である僕が、クラスメイトに突然「僕も一緒にカラオケとやらに連れて行ってくれない?」なんて誘ったら怪しまれるだろうし、今まで築き上げてきたイメージが損なわれるだろう。やっぱり一人でグレるしかない。僕はため息をついて学校を後にした。
塾の時間は六時から九時まで。それまでの間、どうやって時間を潰そうか。学校の最寄り駅付近と自宅付近は知り合いに遭遇しそうなので、電車に乗って少し遠くの駅まで行ってみようと思った。
沿線内にある不良が多そうな、若者に人気の駅で僕はプチ不良デビューをすることに決めた。人に揉まれながら駅に降り立ち、人の流れになんとなくついていきながらふらふらと繁華街を歩く。
ファッションビルに大きな書店。カラオケ、居酒屋、キャバクラにホストクラブ、何でもある。露出の高い服を身にまとった若い女性のグループ、道行く人に手あたり次第に声をかける客引き、制服を着崩した高校生カップル、観光客らしき外国人の親子、様々な人たちが道を行きかっている。
皆、目的があってここに来ているのだろうが、僕には不良っぽいことをしてみたいという漠然とした目的しかない。これからどうしようかと悩みながら見慣れぬ街を宛もなく歩いていくと、道すがら大きな文房具屋を見つけた。そういえば英語のノートがなくなりそうだったなと思い出し、つい中に入りそうになったが、すんでのところで思いとどまって止めた。不良に精通していない僕にもわかる。不良はこんなところに入らない。
だからといって、本物の不良がいそうなクラブやバーなどには制服の僕は入れないだろう。じゃあどうする。まずはベタにカラオケ? でも一人で何を歌うっていうんだ。僕は流行りの曲なんて全然わからない。ど派手なプリントがされたジャージやズタボロにダメージを施されたジーンズがディスプレイされたヒップホップ系の服屋にでも入ってみるか? でも僕のような線の細い男には全くもって似合わないだろうし、親に見つかったら絶対に捨てられる。何がしたいのかわからなくなって途方に暮れていたとき、派手な赤い看板のゲームセンターが目に映った。思わず大きく息を吸い込む。高校生の僕でも入れて、不良が出入りしていそうなイメージもある場所。これぞ最適解だ。
店の前で左右を小さく見渡してから、恐る恐る足を踏み入れる。
ライトの眩しさに瞬きを数回。ずらりと並んだゲームの筐体から流れるサウンドで騒がしい店内。三階までフロアがあるようで、今いる一階はクレーンゲームのコーナーのようだ。
キャラクターのぬいぐるみやアニメグッズ、お菓子などが景品のゲームが所狭しと並んでいる。せっかくだから人生初のクレーンゲームに挑戦してみようかとも思ったが、ぬいぐるみには興味がないし、証拠を残さないためにも景品があるものはやめておく。
階段を上って上のフロアに行くと、音ゲームや格闘ゲームなど、様々な種類のビデオゲームが稼働していた。カップルや親子連れで賑わっていた一階に比べると、プレイしている人はまばらで落ち着いている。
全く自慢じゃないけれど、僕は家庭用ゲームを含めて、ゲームというものを全くと言っていいほどプレイしたことがない。親戚の家で従弟がプレイしているゲームを横で見ていたことぐらいしかゲームに関する記憶がない。なので、目の前に広がっている光景が凄く新鮮で物珍しく思えた。
ほとんどのゲームが一プレイ百円。たったの百円で証拠も残らず、これだけ多彩な種類の中から選んでゲームができてしまうなんて本当にいいんですか? なんだか無性にわくわくしてきた。実は一度でいいからゲームというものをプレイしてみたいとずっと思っていたのだ。
でもこれじゃ不良なんかじゃなく初めてゲーセンに連れてきてもらった小学生みたいなノリになってしまっているじゃないか。
僕は記念すべき不良への第一歩としてプレイするゲームを決めなくてはならないのだ。子どもに人気そうなレーシングゲームやキャラクターゲームが目に映ったが、高校生の僕が一人でプレイするのは恥ずかしいし、そんなポップな気分じゃない。今の僕は塾をサボったワル。闇に堕ちたダークな高校生なんだ。そう自分に言い聞かせながらフロアを歩いていると、フロアの隅に一際存在感のあるゲーム筐体を発見した。
黒を基調にしたダークな筐体に血のような赤でペイントされたおどろおどろしい英字のフォント。『ブラッディサバイバル4』と書かれたガンシューティングゲーム。これだ!と思った。
先客はいなかったのでさっそく暖簾がかかった筐体内に入ると、大音量の獣のような唸り声と甲高い叫び声が降りかかってきた。中は薄暗く、大きなモニターにはタイトルが点滅し、その後ろではゾンビやら悪魔のようなモンスターやら魑魅魍魎がこちらに襲い掛かるようなモーションを繰り返している。
既に手に汗をかきながら百円を投入すると画面が切り替わり、映画のようなムービーが流れ出した。どうやら警察官と思われる主人公の男が、街のはずれの廃病院で起きている事件を調査に行くというストーリーらしい。映画のような壮大で臨場感のあるサウンドと、登場人物のリアルな肌の質感、滑らかで迫力のあるモーションなどに没入していると、暗闇の中に荒んだ白い建物が浮かび上がった。ゾクリと背筋が震えると同時に、画面がプレイヤー視点に切り替わる。右上にはHPと玉の残量らしきゲージが表示されている。
唐突にプレイが始まって、僕は慌ててガンコントローラーを手にした。唐突に目の赤く強大なカラスの群れが襲い掛かってくる。試しに数発撃ってみると、当たったのか当たっていないのかわからないがカラスたちは消えていった。ほっとするも束の間、画面は自動的にどんどん前へと進んでいき、僕は病院の中へと入っていく。建物内に画面が切り替わると、病院の廊下からエントランスに向かってゾンビの群れが迫ってきた。
驚きと焦りで心拍数が上がっていく。とにかくこいつらを倒さなくては。銃を構えて乱発してみるが、照準が合わずになかなか倒せない。その間にもどんどんゾンビは近づいてくる。真っ先に襲い掛かってきたのはボロボロの白衣を着た恰幅の良い男のゾンビ。目がくり抜かれたような恐ろしい顔が、画面から飛び出してきそうな程に近づいてくる。よく見ると首に聴診器をかけているのがわかった。その後ろから血塗られたナース服を着た女のゾンビが続いて、両手を伸ばしてくる。
何度も弾を打っているはずなのに、二体は怯む程度で倒れることなく襲い掛かってくる。
ついに弾が切れ、トリガーを引いても銃声がしなくなってしまった。弾の補充方法はわからない。ダメージを受けて徐々に減っていくHP。焦燥感で頭が混乱し始めたとき。恐ろしい表情で僕を嚙みちぎろうとする醜い白衣の化け物と、父の姿が重なる。更には、絶望感の漂う唸り声を上げながら僕の首を絞めようとするナース服の化け物に、兄が生まれる前までは看護師として働いていたらしい母親の姿が重なった。
父から初めて殴られたときに見た鬼のような表情。夜中に僕の成績のことで父に叱責されてすすり泣いている悲痛な母の表情。一気にフラッシュバックする。
その瞬間、頭を鈍器で殴られたような鈍い衝撃が走った。喉が詰まって息が苦しくなっていく。竦む足でなすすべもなく立ち尽くした僕は、あっという間に無数のゾンビに食い尽くされてしまった。
ゲームオーバー。英語でそう書かれた画面が暗転する。と同時に自分の視界がぐらりと歪むのがわかった。汗で湿った手の力が抜けて、持っていた銃が滑り落ちる。立ち眩みのような感覚に立っていられなくなって、その場にしゃがみこむ。暗くなる視界の隅でケーブルに繋がれ宙吊りになった銃が小さく揺れている。
これが僕の人生なのか。恐ろしい化け物を前にして、何もできずに食い尽くされるだけの存在。
立ち上がることが出来ないまま、乱れた呼吸を必死に整えていると、スピーカーから流れる化け物たちの叫び声に紛れて、生きた人間の声が聞こえてきた。
「大丈夫でござるか?」
ござる? 聞きなれない語尾に、思わず顔を上げる。すると眼鏡をかけたふくよかな体型の中年男性が暖簾を捲り上げた隙間から僕を見下ろしていた。
「このゲーム、難しいでござろう。拙者も何度も泣かされたでござる」
ゲームの順番待ちをしていた人かも知れない。そう思った僕はまだ少しふらつく足で慌てて立ち上がり、ブース内から出た。
声を掛けてきた男と目線が重なる。緑のチェックシャツを身に着けた男は眼鏡の奥の瞳を鋭く光らせながら、唐突に語り出した。
「まったく……前作は簡単すぎると叩かれたからって、これはさすがに鬼畜すぎ。初見殺しもいいところ。グラフィックは最高なのに勿体ない。これではお主のようなご新規様が寄り付かなくなってしまうではないか。ただでさえプレイヤーが減ってきているというのに嘆かわしい……」
よく意味がわからなかったが黙って話を聞いていると、男は何か思い出したように声を張り上げた。
「あっ! 実は去年スマホ版がリリースされたんでござるよ。こっちはガンシューティングじゃなくてシミュレーションRPGで全くの別ゲー。オンライン上でチームを作って敵を討伐していくゲームなんでござる」
饒舌に話す男に圧倒され、僕は小さく頷くことしかできなかった。それでも気が逸れたせいか、暗闇に飲み込まれる感覚は薄れ、脚のふらつきも落ち着いてきた。
「最近、パーティ内で男女がらみのごたごたがあって人が減ってしまったのでござるよ。今後は出会い厨お断り。純粋なファンによる健全なパーティを作りたいと思っているのでござるが……お主、よかったら拙者のパーティに入ってはくれないか?」
「は、はあ……」
僕はやっと声を出した。聞き慣れない単語が多くて理解が追い付いていないけれど、男がプレイしているオンラインゲームに誘われているということはわかった。
「アーケード版に比べて内容もかなりライトで課金要素も少ないから初心者でもハードルは低いと思われますぞ」
男は大きな黒のリュックサックからメモとペンを取り出すと、何かを走り書きして僕に手渡してくる。
「これ、拙者のID。気が向いたらフレンド申請して欲しいでござるよ。では失敬」
そう言って顔の横で敬礼ポーズをすると、男は去って行ってしまった。
渡されたメモには、『疾風の討伐侍・隼人』というハンドルネームらしき文字の下にゲーム内のIDと思われる数字の羅列が書かれていた。
嵐のように現れた変な男のせいで、すっかり気が抜けてしまった。腹の底に渦巻いていたダークな気持ちは疾風とともにどこかへすっ飛んで行ってしまい、代わりに小腹が空いてきた。
腹が減っては戦はできぬ。僕はゲームセンターを後にして、食料を探しに行くことにした。
六時前という夕飯には少し早い時間ではあるが、繁華街の飲食店はどこも満席に近い賑わいを見せていた。入れそうな店を探して歩く。小洒落たカフェは若い女性ばかりで居心地が悪そうだ。がっつり牛丼やラーメンは胃もたれしそうだし初見では入りにくい。店先で購入したクレープやホットドッグらしきものを食べ歩きしている若者も多いが、一人ではなんとなく恥ずかしいし抵抗がある。そもそも外食は家族と行くか、塾や習い事の合間に一人でカフェなどで小腹を満たすぐらいの経験しかない。
迷いに迷った挙句、僕はチェーンのハンバーガーショップに入ることにした。ハンバーガーなんて、兄がこっそり買って帰ってきてくれたものを家で食べた記憶ぐらいしかない。店内で食べるのは初めてだ。
なにが美味しいかなんてわからなかったので、とりあえず野菜が少なく肉が沢山入っていそうなダブルバーベキューバーガーとコーラを頼んでみた。よく仕組みがわからないまま人の列に並んでトレイを受け取って席を探す。さすが繁華街の一等地。平日の微妙な時間でも満席だったが、ちょうどカウンターの席が一つ空いたのでそこに座った。
さっそく包み紙を開いて、厚みのあるパティが二枚挟まれたバーガーを一口かじってみる。パティの弾力のある肉肉しい食感と、甘じょっぱいソースと玉ねぎの爽やかさを、香ばしくふっくらとしたパティが優しく包み込む。端的に言うと物凄く美味しい。空腹だからよりそう感じるのかも知れないけれど、中毒性のある美味さだ。
こんなに美味しいものを忌み嫌うなんて、僕の両親は底知れぬ意地悪か異常者なんだと思う。普段は小食の僕でもあっという間に食べ終えて、なんならもう一つ食べたいぐらいだ。
家にはまず置いていないので外食先ぐらいでしか飲めないコーラとの調和も素晴らしい。感動の余韻に浸りながらスマホで時間を確認すると、まだ六時半。家に向かうまで、まだ二時間以上時間がある。
スマホをなんとなくいじりながら、制服のポケットからゲームセンターで受け取ったメモを取り出した。癖のある角ばった筆跡以上に、癖の強いキャラの男だった。はっきり言って怪しい。けれど、男が誘ってきたゲームに多少興味は持った。
とりあえずスマホで『ブラッディサバイバル』と検索してみる。すると真っ先にアプリゲームのインストール画面が表示された。ブラッディサバイバル・ポケットというタイトル。デフォルメされた可愛らしいゾンビのアイコン。先ほどの筐体と打って変わってなんともポップだ。
正直、先ほどのアーケード版はしばらく見たくも触れたくもないくらい衝撃的だったので、全くの別物ということで安心した。
どうしようか迷ったが、僕はコーラを啜りながらインストールボタンをタップした。名前とメールアドレスを登録して、アバターを作った。自分に似せた眼鏡の少年。服は何も所持していなかったので初期のTシャツ短パンのまま。それからチュートリアルに沿って五等身の怖くないゾンビや化け物たちとのバトルを開始した。
敵の陣地に乗り込み、技やアイテムを使って敵を討伐していく。確かに初心者でもそこまで難しくはなさそうだ。
他のプレイヤーとパーティを組めばアイテムの交換や協力バトルが出来るらしく、先ほどの男へフレンド申請も送った。
本当はスマホゲームは親から禁止されているけれど、画面を見られさえしなければバレないだろう。なんていったって僕はもう優等生の狐嶋秀也じゃない。ちょいワルな高校生ゲーマー、syuだからだ。
それから、僕は内なる欲望に急かされるようにゲームにのめり込んでいった。初めは単なる好奇心と親への反発心がきっかけだったけれど、親の知らないところで自分の世界を構築することの背徳感と高揚感、現実を忘れて一つのことに夢中になれる没入感がたまらなかった。
こうして僕は親の目を盗みながら夜な夜なゲームに勤しむようになった。もちろん勉強は二の次。授業も寝不足で集中することができず、居眠りしてしまうことや提出物を忘れてしまうことが少しずつ増えていった。
このままでは今後の成績は落ちる一方。親にバレるのも時間の問題。そう自覚しながらも、僕はゲームをやめられずにいた。
夏休みに入ってからも塾やオープンキャンパスに行く以外はひたすらゲームをする毎日を送った。ゲーム内で交流していた仲間たちとはメッセージアプリやチャットでやりとりをするようになり、彼らに勧められて、ブラッディサバイバル以外のゲームにも手を出すようになった。あっという間に一ヵ月強あった夏休みは過ぎ去り、僕は最低限の宿題すらままならないまま、二学期を迎えることになった。
そんな僕の様子がおかしいことに真っ先に気が付いたのは、担任教師の会田だった。
会田は生物担当の理科教師で、男性。僕より少し背が高く、やせ型。歳は今年四十一歳、独身。白髪交じりの頭で実年齢よりも上に見える。いつも顔色が悪く覇気もないので、生徒たちからは密かに死神とか骨格標本などと呼ばれている。
僕は一年の時から学級委員をしていたので、担任の会田とは入学当初から話す機会が多かった。先生と呼ばれる人間には丁寧に接しろと親から口うるさく言われてきたので、会田に対してもその通りにしていた。とは言っても、変に媚びる訳でもなく、一般的な目上の人へ接するように。すると他の生徒たちからは煙たがられている会田が、日に日に僕にだけ心を開いていくのがわかった。
二人で話しているときに会田は、こんなに真面目に授業を受けてくれるのは狐嶋くんだけ。俺の話を聞いてくれるのは狐嶋くんだけ。そんな言葉を度々口にするようになっていた。
忘れもしない、九月二十三日。兄の誕生日の翌日。放課後に僕は会田に呼び出された。
昨日は家族四人でホテルのレストランに食事に行き、中華料理のコースをたらふく食べた。酒を飲んで上機嫌になった父と兄の自慢話と、次々運ばれてくる食べきれない量の料理。ニコニコしているだけの添え物のような母親。一刻も早く帰ってゲームにログインしたい。そう思いながらその場をやり過ごしていた。
そのときの疲れと胃もたれを引きずりながら、優等生を装うのにも飽きていたので少しぞんざいな態度で進路指導室へ向かうと。
「狐嶋くん、なにか困っていることがあるなら……先生に話してくれないか」
会田は、深刻そうな表情で俺に語りかけた。
「え?」
驚いて聞き返す。確かに生活態度が悪くなっていた自覚はあったが、こんなに早く気付かれてしまうとは。
困っていることならありすぎるほどにあるけれど、そんなの学校の先生に言えるもんじゃない。絶対に親に通達がいくだろうから。
「夏休み明けぐらいから……様子が変だなって……心配してたんだ」
一言一言、言葉を選ぶように会田は続ける。
「先生じゃ頼りないかもしれないけれど……君の力になりたいんだ」
そう言って会田は僕の肩に手を置いた。その手は微かに震えている。
僕は黙り込んで考えた。このままでは勉強をサボっていたことが親にバレるのは時間の問題。ゲームの存在にも気づかれてしまうかもしれない。そうすれば確実にスマホは没収されて、僕の唯一の楽しみが奪われてしまう。
だからといって素直に反省して今までの分を取り返すほど努力できるような気力もポテンシャルも僕にはない。どうすればいいのだろう。心配そうに顔を覗き込んでくる会田を呆然と見つめながら、僕は必死に頭を働かせた。
これまでの僕に対する態度も鑑みるに、会田は僕に対してただならぬ感情を抱いているのではないか。ここで「何もないです」とごまかして問題を先延ばしにするより、会田を味方として取り込んだ方が得策かも知れない。僕は賭けに出た。
「実は……成績が上がらないことで悩んでいるんです……僕の親は凄く厳しくて、それで色々あって……」
会田は驚きと不安が渦巻く表情を浮かべながら、静かに僕の話を聞いている。僕は蚊の鳴くような弱々しい口調で続けた。
「でも絶対……親には言わないで欲しいんです。こんなこと先生にしか相談できないので……お願いします」
そう言って僕は深々と頭を下げた。そっと顔を上げると、会田の真っすぐな視線が僕を突き刺していた。
「ああ、約束するよ。先生が協力できることならなんでもするから。安心して相談して欲しい」
気迫を感じる熱の籠った表情。会田のこんな顔は初めて見た。なにかがふっきれて、僕も覚悟が決まった。
「ありがとうございます。……そういえば先生、今日が誕生日でしたよね。おめでとうございます」
僕はそう言って、控えめに微笑みを浮かべた。入学してすぐの学級便りに自己紹介として書かれていた会田の誕生日。兄と一日違いだったからなんとなく覚えていたのだ。
瞳孔を開かせて、数秒フリーズしてしまった会田を見て、僕は自分の心が黒く塗られていくのがわかった。
会田は学年の進路担当の教諭でもある。会田を利用すれば、勉強せずとも良い成績をキープし受験に成功することができるかもしれない。そう考えた僕は、あの手この手を使って会田へアプローチを始めたのだった。
会田を懐柔することに成功した僕が次に目をつけたのが、当時生徒会の副会長だった一学年上の女の先輩、小川優実だ。絵にかいたような真面目で勤勉な先輩で、塾が同じだったことと、時おり図書室で顔を合わせていたので親しくなった。小川は恋愛には疎く、優秀な女性故にプライドもあるのだろう。はっきりと告白をしてくることはなかったが、周りから見てもわかりやすいくらいに僕は気に入られていた。小川の勧めで僕は次年度から生徒会に入り、書記として彼女の下で働いた。小川はマメで、過去に受けた全教科のテスト用紙を保管しており、そのほとんどを譲ってもらうことができた。
小川は現在、僕の第一志望(ということにさせられている)大学の医学部生だ。未だに交流は続いていて、小川はテストや模試の過去問をくれたり面接対策の相談に乗ってくれたりしている。
会田と小川を利用することで成功体験を得た僕は、それだけでは飽き足らず、あらゆる使えそうな教師、塾講師、OB、OGなどにコンタクトを取り始めた。トラブルにならないギリギリのラインを攻めながら、少しずつテストや受験に関する情報をゲットし、僕は大した勉強もせずとも自分の実力以上の好成績をキープできるようになった。
徐々に成績が伸びていく僕を見て父親は特に喜ぶ素振りは見せなかったものの、僕を𠮟りつけることはしなくなった。母親は涙ぐみながら大袈裟に喜んだ。
やっぱり世の中はイージーだ。少し頭を使えば、周りの人間は僕の思い通りに動く。
そう思っていたのに。自分を殺すことで完璧な優等生として生きて父や兄と同じ医者の道へと進む。いずれ兄と一緒に父親が開業したクリニックを継ぐのか、勤務医として働くのか、わからないけれど誰からも立派だと言われるような人間になる。僕のせいで父に責められていた母親のことも安心させられる。
趣味のゲームは、なかなかやる時間は取れなくなるとは思うけれどたまの暇つぶしにプレイすればいいじゃないか。これで全てが上手くいく。そう思っていたのに。
どうして出会ってしまったんだろう。
