「はぁ………」
 俺は馬鹿でかいため息をついて、履き潰した上履きを下駄箱に放った。今日も相変わらず最悪な一日だった。世界史のテストで赤点を取ってしまった俺は、追試を受けるために居残りをさせられていた。七十点以上を取れるまでエンドレス追試という地獄。三回目でやっと七十二点を取れて帰宅を許されたのだった。
 まだ最終下校時刻には早い時間なのに、校舎から出ると辺りはもう薄暗くなっていた。グラウンドの方からは運動部の掛け声が聞こえてくるが、校舎内にはもうほとんど人は残っていないようだった。

 あれから狐嶋のことは一方的に見かけることはあれど、顔を合わせることはなかった。校内で見聞きする狐嶋の存在は、誰からも一目置かれる完璧な優等生だった。生徒会の副会長として活躍し、ボランティア活動が広報誌に載り、女子たちからは黄色い声が上がる。
 先日なんて、爽やかな笑顔で花壇の水やりなんてしているもんだから、眩しさで目が潰れるかと思った。
 本性はあんなにも腹黒くて小賢しい奴だなんて、誰も想像しないだろう。誰かに言うつもりもないし、俺が言ったところで信じてもらえないだろうけれど。
 アイツと俺とでは、住んでいる世界が違いすぎる。俺は先日ついに留年の一歩手前だと担任から宣告されてしまい、遅刻と欠席をいかに最小限に抑えるかに四苦八苦していたところだ。もちろん勉強の成績も相変わらず底辺。教師やクラスメイトからの信頼なんて皆無どころかマイナスだ。
 
 心身ともにへとへとになりながら帰路につこうとすると、校門を出たところで背後から声をかけられた。
「やぁお人よしくん。今日も居残り勉強?」
 聞き覚えのある声に、驚いて振り返る。爽やか笑顔の狐嶋が俺を見上げていた。
「はぁ……お前はまた先公と放課後デートでもしてたのかよ」
 嫌味に嫌味を返しながら、自然と並んで歩き出す。
「違うよ。一応、生徒会の仕事。まぁこれも内申点のための点数稼ぎでしかないけどね」
 狐嶋の物言いは、いつもどこか引っかかる。自信満々のようで、どこか本人も腑に落ちていないような余白がある。
「疑問なんだけどさ、お前特進クラスの中でも優秀な方なんだろ? 生徒会もやっててさ……そこまでしなくても実力で大学ぐらい受かるんじゃねーの」
 ずっと疑問だった。どうしてコイツがそこまでするのか。俺が尋ねると、狐嶋は急に表情を消して真顔になった。
「無理だね。僕、医学部志望なんだけど、競争率高いし。ちゃんと勉強してる人たちには勝てない。推薦入試で落ちたら詰む」
 低い声のトーンで淡々と狐嶋は言う。
「いや、普通に勉強すればいいんじゃねえの? そんなに医学部とやらに入りたいならよ」
「……元々勉強は好きでも得意でもないんだ。父親に言われて仕方なくやってただけ。学校のテストの点数が高いのも、先生や卒業した先輩たちからテスト範囲を教えてもらってるからだし。一般入試じゃ通用しないよ」
「おまっ、そんなことまで……」
 口には出さないけれど正直引いた。でも、どうしてこんなことを俺に話してくれるのかが気になって話を聞き続けた。
 狐嶋は少しの沈黙の後、歩く速度を落としながら、ぽつりぽつりと語り始めた。
「僕さ、本当は医者になりたい訳じゃないんだ。両親にずっと言われ続けてきたからそういうものだと思って生きてきたけど……他の人たちには当たり前のように選択肢があって、自分の行きたい道に向かっていけるんだって感じるようになってから、勉強もやる気なくなっちゃってさ。それからは楽して内心点を稼ぐことだけを考えて生きてる」
 伏せた目が寂しそうに見えた。医者になるなんて俺には逆立ちしても無理だし、医学部に行かせてもらえるような環境にいるのは正直恵まれていると思うけれど。きっと狐嶋にとってはそうじゃないのだろう。
「なぁ、ちゃんと話してみろよ、親に。お前本当は、別に進みたい道があるんじゃねーの」
 特大級のお節介だってわかるけど。なんだかコイツは放っておけない。
「ん……簡単に言うけどね、話が通じるような親じゃないんだよ」
 少しだけど、声色が柔らかくなった気がした。もう一歩。踏み込みたいと思ったのだけれど。
「けどよ、このままでいいのか。本当に」
「……じゃあね、御嶽くん」
 狐嶋は、俺の話を遮るように言って立ち去ってしまった。
 俺の名前知ってたのかよ。驚いて呼び止めることができなかった。