この世の中はイージーだ。少なくとも僕にとっては。
 都会で生まれ育ち、厳格な開業医の父と、やや過保護だが優しい母に育てられた。
 母親似の中性的な顔立ちと細身なスタイルのおかげで、僕は生まれたときからずっとチヤホヤされされて生きてきた。幼い頃はよく女の子に間違われ、幼稚園の先生や保護者達から可愛い可愛いと言われ育った。小学生時代はクラスの女子たちからバレンタインのチョコを大量にゲットし、中学生になるとファンクラブができていた。そしてこの頃から女性だけでなく男性からも何故かモテ始め、友人だと思っていた男子から下心のある視線を向けられたり時には告白されたりするようになった。男にモテても何の得にもならないと当時は思っていたのだけれど。
 
 教室の一番後ろの窓際の席。ここが僕のベストポジション。学級委員長を務める僕が多少の不正を行ってでも最後列の席を死守し続けているのは、クラスのリーダーとして皆を見渡すことができるから。なんて尤もらしい理由がある訳ではない。
 初老の男性国語教師の間延びした声をBGMに黒板に書かれた漢文の文字列を無心でノートに写す。学習用タブレットで辞書アプリを開きながら別のタブでネットニュースを流し見る。眠気覚ましに机に忍ばせたスマホの画面をつけるとメッセージが複数届いていた。新着順に、生徒会OGの一つ上の先輩、中学まで習っていたピアノの先生、スマホのオンラインゲーム仲間の男。

「遅くにごめんね。受験勉強がんばってるかな。家の片づけしてたら過去問とか色々でてきたから今度渡すね。今週は試験前で忙しいけど来週以降でもし時間が合えば会いたいな」

「お久しぶりです。先日、街中で秀也と同じ香りがして思わず立ち止まってしまいました。香水は気に入ってもらえたでしょうか。また必要なものがあったら遠慮なく言ってくださいね。一緒に買いに行きましょう」

「昨日はログインしてなかったみたいだけど大丈夫でござるか? 明日から限定アイテム配布のクエストが始まるでござるよ! 拙者は必要ないから忙しいsyu殿のためにゲットしておきます故ご安心を」

 流し見したあと、軽く天を仰いでからスマホの画面を消した。考えることを止めて、再び授業に耳を傾ける。
 僕が志望する医学部の推薦入試に国語は必要ない。しかし、全教科満遍なく好成績をキープしなくては内申点に響く。僕は欠伸を嚙み殺しながら頬杖をついた。
 チャイムが鳴るのと同時に教卓に乗せられた課題のノートの山を確認した僕は、素早く教師の元へと移動して声を掛けた。
「先生、重そうなので持ちますよ」
「おお、狐嶋、いつも悪いね」
 僕はずしりと重いノートの束を両手で抱えながら、職員室へと向かう教師の後に続く。
「いえ、とんでもないです。今日の授業内容は凄くためになりました。曹丕は世界史でも習って魏の初代皇帝のイメージが強かったんですが、文学者として優れた論文を残していたんですね」
「ああ、論典の書き下しは次のテストにも出すつもりだから勉強しておくんだぞ」
「そうなんですね。僕は書き下しの再読文字が苦手で……」
「前回のテストも間違う奴多かったからな。前と同じ問題も出ると思って見直しておくといい」
 テストの出題傾向をそれとなく聞き出すことに成功した僕は、顔がにやけるのを堪えながら職員室を後にした。廊下を歩きながらスマホにメモを残した。

 教室に戻ると、昼食を広げるクラスメイトたちで賑わっていた。僕も席に座り、ランチバッグから弁当箱を取り出して一呼吸。ゆっくりと蓋を開ける。祝い事もないのにお赤飯と、免疫力を高めるとかで根菜中心の煮物、DHAの摂取のための鯵の南蛮漬け、今日は塾のテストがあるからとゲン担ぎのヒレカツ。見ているだけで胸やけがしてくる。
 僕はどちらかというと食が細い方だし、弁当は少なめにしてくれと言っているのに。あと言ってはいないけれど、野菜全般が本当は好きじゃない。
 斜め前の席に集まって昼食を食べる女子生徒たちに視線を移す。彼女たちが一つの机に持ち寄っているのは、子どもが使うような小さなサイズの弁当箱に、学内のコンビニで買ったであろうおにぎり一つとカップスープ、サラダとサンドイッチ。それらを囲んで談笑している。
 僕は、重みのある弁当箱を手にしながら小さく息を吐いた。南蛮漬けに入っている細切りの人参をちまちまと口に運ぶ。野菜は嫌いだが、母が作る料理の味付けは普通に美味しい。見た目も華やかだ。
 それでも僕は、毎日「ダイエットしなきゃ!」と笑い合いながら各々が選んだ昼食を食べる女子生徒たちがいつも羨ましかった。
 食べきれないから残すという選択肢もないことはないが、帰ってから大袈裟に心配されるのが目に見えるからやらない。
 なんとか完食して一息ついていると、背後から軽く肩をつつかれた。 
「あっ、あのっ、狐嶋くん……ちょっといいかな……」
 振り向くと、隣のクラスの女子生徒だった。去年同じクラスだった斎藤あかり。クラスメイトだった時には最低限の交流はあったが、今は全くと言っていいほど関わりがない。
 頬を赤く染めた斎藤は、目線を泳がせながら俺を手招く。僕はとりあえず笑顔を作って重い腰を上げた。連れられて音楽室や美術室などがある一つ上の階へ行くと、廊下の先にある階段の踊り場から何人か女子生徒がこちらを覗き込んでいる。そういえば最近、隣のクラスの女子集団が休み時間などに教室を見に来ていた。よくあることなので気にしていなかったが。
 静まり返った音楽室の前で、斎藤の言葉を待つ。くるんと上がったまつ毛が僅かに震えている。斎藤は、可愛いか可愛くないかでいえば可愛いしクラスでは目立つタイプの女子だ。男子たちからも人気で、同じクラスだった時にはサッカー部のイケメンと付き合っていたはずだったがいつの間に別れていたのか。興味ないからどうでもいいんだけど。
 これから言われる言葉はわかっているので秒単位の沈黙でも長く感じる。
 目が合っては泳がされる大きな瞳を、捕まえるようにじっと見つめる。ぱっと見開かれ、期待するように揺れる瞳。ときめきを感じているところ申し訳ないけれど、僕はただ圧をかけただけに過ぎない。
 少しの間の後、ついに斎藤は口を開いた。
「狐嶋くん、すっ、好きです……私とつっ……付き合って……ください……!」
「ありがとう。気持ちは嬉しいけど、今は勉強に集中したいんだ」
 僕は定型文と化した言葉を口にしたあと、小さく微笑んだ。
「そっ……そうだよね、ごめんね……」
 ビー玉のような瞳の中に雨雲が立ち込め、今にも降り出しそうに揺れている。 
「僕こそごめんね。今は大事な時期だから……お互い勉強頑張ろうね」
 僕は言って、廊下の向こうへと走り去るサラサラのロングヘアを見送った。

 僕は恋愛に興味がない。少なくとも今の僕には必要がないものだと思っている。
 相互に縛り合う契約関係よりも、一方的にチヤホヤされて、より多くの人間からメリットを受け取った方が得だと思う。誰か一人のためにリソースを割くのは効率が悪いし失敗したときのリスクも大きい。
 そもそも、僕に好意を寄せてくる人間は総じて、僕の外見及び優等生的振る舞いに惹かれているだけであって、僕自身の人格に何ら興味がないのだ。大した交流もないのに告白してくる男女はもちろんのこと、積極的に搾取されようと近づいてくる者たちでさえ、捻くれた僕の本性に気が付かない。疑いすらしない。
 その方がこちらとしては都合がいいのだけれど。鼻で笑いながら教室へ戻ろうとすると、ざわつく廊下に一層響き渡る男子生徒の笑い声が聞こえてきた。 
「でもさー、俺、狐嶋だったら抱けるかも」
 声の主は同じクラスの問題児、高梨だった。よくつるんでいる茅根と廊下にだらしなく座り込み、IQ5ぐらいの会話をしている。こちらには気づいていない。
「ぎゃははは! マジかよ」
「そこらの女子より綺麗だろ、それにアイツの近くに行くとさ、すっげぇいい匂いするんだよなー!」
「きっもいな、変態かよお前」
 ぞわりと全身が粟立つ。誰がお前のようなちんちくりんに抱かれるかっていうんだ。冗談は顔だけにしてくれ。
 スルーして立ち去ることも考えたけれど、牽制する意味も込めて僕は二人のもとへ歩いていった。
「楽しそうに何話してるの?」
 僕と目が合うと、高梨はのけ反って変な声を上げた。
「うわっ、狐嶋……っ!?」
「なぁ狐嶋ー、こいつがさぁ……」
 親指で指をさしながら、茅根がニヤついた顔を僕に向けてくる。瞬時に高梨は焦った顔で茅根に掴みかかる。
「わーっ、やめろ! お前ふざけんな!?」
 こいつらは本当に僕と同じ高三で、同じレベルに振り分けられた学力の持ち主なのかと疑いたくなる。しかし、こんな奴らでも実はいいところの坊ちゃんだったりするので下手な態度は取らないほうがいい。
「ふふ、もうすぐ授業始まるよ」
 僕はそう言って微笑んで、その場から立ち去った。こんな奴らにまで優しくしてあげるなんて、僕はなんてイイヤツなんだろう。徳を積みすぎて来世では石油王にでも生まれ変われるんじゃないかと思う。

 やっと放課後。今日は生徒会の集まりがないので塾の時間まではフリーだ。僕は職員室に向かおうとする担任教師に声を掛けた。
「先生、ちょっといいですか。授業でわからないところがあって……」
「狐嶋くんでもわからないところなんてあるの?」
 担任の渡辺は首を傾げる。渡辺は英語教師で三十代後半の既婚者。パンツスーツが様になっているスタイリッシュな女性だ。サバサバした性格で、僕が媚びを売ってもいつも反応はいまいち。それでも受験のためには担任教師とは何が何でも良い関係を築かなければいけないので、僕は日々攻略方法を探っている。
 僕は遠慮がちに言って、小さく頭を下げた。
「はい……長文の読解で少し不安な箇所があるので教えていただけないでしょうか」
「熱心ね、それじゃあ職員会議の時間までならいいわよ」
 渡辺は少し困ったように微笑んだ。姉御肌の女性は、頼られることには弱い。後はテストに出そうなところをそれとなく聞けばいい。僕は頭の中でガッツポーズをした。

 二十分ほどで終わった個別指導の後。まだ少し時間があったので、帰りがけに玄関付近の花壇の草むしりと水やりをすることにした。言うまでもなく点数稼ぎと、お高く留まっているというマイナスイメージを払拭するための戦略だ。
 上着を脱いでシャツを捲り軍手を着用し、黄色とオレンジのマリーゴールドが所狭しと咲く花壇にちらほらと生えているちっぽけな雑草の芽をちまちまとゴミ袋に入れていく。面倒だけれど塾まではどうせ暇だし、美化委員の生徒や教師に恩も売れるし損はない。
 塾のテストは同じ塾に通っていた先輩からもらった過去問と塾講師から聞いた範囲を軽く勉強しておいたから多分大丈夫。ゴミ袋を閉じて散水ホースで水を撒いていると、退勤する司書教諭に声をかけられた。
「狐嶋くん、いつもありがとうね」
 小柄な女性教諭は、ほんわかした口調で言う。
「いえ、少し時間があったので」
「前みたいに図書室にも顔出してね。新しいプログラミングの本も何冊か入ったのよ」
「はい。本当はじっくり本を読む時間が欲しいんですけどね」
「もう受験の時期だものね……狐嶋くんなら大丈夫でしょうけど、無理しないようにね」
 水を止めて立ち話をしていると、校舎の出入口から慌ただしい様子で門へと向かう生徒が目に映る。派手髪と体格の良さですぐにわかった、御嶽だ。
 僕の前を通り過ぎるときに一瞬目が合ったような気がしたけれど、御嶽は足早に去って行ってしまった。またからかってやろうかなと思ったのに。
 僕は司書教諭との内容のない会話に空返事をしながら、遠ざかっていく後姿を横目で見送った。
 御嶽大牙。一般クラスとはいえ、いったい何の間違いでこの学校に通っているのだろうと思うくらい異質な男だ。言っちゃ悪いけれど、もう少し治安の悪い高校で原付を乗り回しているようなイメージの風貌をしている。派手なツーブロックの髪に、常にメンチ切ってるような怖い顔。巨人かってぐらいに背が高くて筋肉質で、おとなしめの生徒が多いこの学校では鹿の群れにゴリラが紛れ込んでしまったような異物感がある。
 でも御嶽は、鹿の群れを襲う粗暴なゴリラではなかった。見た目通りの素行の悪いヤンキーかと思えば、大した悪さをする様子もない。それどころか、見返りを求めず人を助けようとする。面倒ごとに自ら首を突っ込んで、自爆する。なんて非効率な生き方をしているんだろう。
 僕はそんな御嶽を見ていると、どうしてか胸の奥がチリチリと燻るような苛立ちを覚えてしまう。彼に不快感や恐怖心を抱いている訳ではない。それなのに、八つ当たりをしたくなるような感情が芽生えてくるのだ。
 『受験ってのは、ちゃんと勉強して実力で勝ち取るもんだろ?』彼の放った言葉は、鉛玉のように胸の奥深くに食い込んだ。
 彼の生き方を肯定すれば、僕の生き方が否定されてしまう。逆もまたしかり。本能的にそう感じるから反発心が芽生えてしまうのかもしれない。我ながら子どもじみている。考え方の違う相手なんて、適当にスルーすればいいだけなのに。御嶽が相手だと、それができない。

 学校の最寄り駅前にある塾には少し早く着いてしまった。仕方なく自習室に入り、勉強している風を装いながら朝に見たっきり放置していたメッセージに返信をする。その後、数学の講義と英語のテストを終えて帰宅。
「おかえりなさい」
 エプロン姿の母親が迎えてくれる。促されて空の弁当箱を渡してリビングに向かうと、兄の正也がソファに寝そべって本を読んでいた。父は不在のようだ。
「おかえり受験生。遅くまで塾なんて行かなくても勉強なら俺が見てやるのに」
「兄さんの方が忙しいでしょ。来年は国家試験もあるし」
 僕が言うと、シンクで洗い物をしている母が話に入ってくる。
「そうよ、さっきまで実習漬けで疲れたーって騒いでたじゃない」 
「はは、俺なら余裕、余裕」
 兄はそう言うと、手元の本に視線を戻した。分厚い本をよく見ると、読んでいたのは病理学のテキストだった。兄と僕は、兄弟なのに全然似ていない。線が細いと言われる僕とは違って兄は体格が良く、顔も骨格がはっきりとした男らしい顔つきをしている。中身だって、兄は幼い頃から抜きん出て賢く、僕が入れなかった難関の中高一貫校に通っていた本物の優等生だ。父親に似たのかプライドの高いところはあるものの、基本的に僕には優しいので悔しいけれど嫌いになれない。

 夕飯をなんとか回避し、僕は風呂場に逃げてきた。唯一のリラックスできる場所である風呂にゆったりと浸かり、一日の疲れを癒す。
 それからパジャマに着替え、自室にこもる。学習机にテキストや問題集を積み、塾の宿題を開きながら椅子に腰かけ、スマホゲームにログインする。
 ログインボーナスとゲームのフレンドたちからプレゼントされたアイテムを受け取り、溜まっていたクエストを消費していく。
 この瞬間だけは、素の自分でいられる。今日一番の集中力を発揮していると、背後から耳障りなノック音が聞こえてきた。
 僕は慌ててスマホを机の引き出しに放り込む。
「秀也、勉強お疲れ様」
 勝手に部屋に入り込んできた母親が、うどんの入った丼ぶりと、湯気の立ったマグカップが乗ったお盆を手渡してくる。
「ありがとう。母さん」
 夕飯要らないって言ったじゃんってツッコミたいけれど、ちょっと小腹も空いてきたし、うどんぐらいなら食べてやらないこともない。そう思いながらお盆を受け取る。
「秀也はお兄ちゃんに負けないくらいの頑張り屋さんね。あなたたちは私の自慢の息子よ」
 母親は満足気にそう言って、部屋から出て行った。前言撤回。食欲は消え失せた。