世の中は不公平だ。通勤、通学する人の群れが落ち着いてきた駅前の通りを全速力で駆け抜けながら思う。
俺たちが住むこの世界は、真面目な奴が馬鹿を見て、ずる賢い奴だけが得をするようにできている。
十数分前ほどに立ち寄った公園で蟻の行列を見た。働き蟻といえば働き者の代名詞であるが、そのうちの二割の蟻はせっせと餌を運ぶ訳でもなく、巣を守るために外敵と戦う訳でもなく、サボっているという。
人間の世界も同じだ。俺が今必死に向かおうとしている高校にもいる。掃除当番を気の弱い生徒に押し付けてさっさと帰る奴。毎朝、勉強の出来る友達の宿題を写させてもらってる奴。
俺は人のことをどうこう言えるほど立派な人間ではないが、少なくともこういう奴らの生き方は到底理解できるものではない。相容れない。
夏にはまだ早いというのに、額と首筋に汗が伝う。スマホで時間を確認すると、八時四五分。どれだけ急いでも遅刻確定なのがわかって俺は走るのを止めた。
必死に息を整えながら校門を抜けた頃には汗は引いて、ひんやりとした朝の風が心地よく体に染みる。
だだっ広い敷地内は清々しい程に人の気配がない。ぼんやりと視界に流れてくる綺麗に整備された花壇。休み時間や放課後にバカップルや動画を撮影する女子たちのたまり場になっている噴水。植え込みに囲まれている謎の銅像は真ん中に丸っこくデフォルメされた人間、両脇に羽ばたくように四肢を伸ばした亀、太陽の上に乗った逞しい鳥の三体。
庭を抜けてやっとたどり着いたメインの校舎は大きな窓が開放的なデザインで、有名な建築家が設計したものらしい。
こんなにもキラキラとした校内を、息も絶え絶えに歩く俺は明らかに浮いている。
身長は無駄にデカく百八十六センチ、金に近い明るい茶髪のツーブロック頭。そのうえ今日は顔にでかい絆創膏を貼りつけて、グレーのジャケットとチェックのスラックスというお上品な制服をシワや砂まみれにして着崩している。そんな俺、御嶽 大牙(みたけ たいが)が歩けば学校に限らず、街中どこでも人が避けて通る。
俺は大きく息を吐いて、やっとたどり着いた教室のドアを開いた。
「御嶽、授業始まってるぞ」
数学教師の呆れた声と同時に、侵入してきた虫を観察するような好奇と侮蔑の視線が四方八方から投げかけられる。
「……っす」
俺が小さく言って入室すると、教室内がにわかにざわつきはじめた。
「……うわっ、ボロボロじゃん。また喧嘩したんじゃね」
「前に怪我してたときは他校のヤンキーボコボコにして警察沙汰になったって聞いたよ」
「怖っ」
違う。全部違う。そして全部聞こえている。
この前怪我してたのは、バイト帰りに酔っ払いに絡まれていた女の人を助けようとしたら殴られただけ。そのあと返り討ちにして警察に突き出したけど。
倒れ込むように勢いよく椅子に座るだけで隣から「ヒッ……!」と小さな悲鳴が聞こえる。化け物か俺は。体がデカい分、物音も大きくなってしまうのは許して欲しい。
一時間前――
俺はいつも通り、登校時間の一時間ほど前に家を出た。
昨日は学校が終わってから夜まで居酒屋のバイトで疲れていたけれど、重い瞼を擦りながらもちゃんと目覚めた。こう見えて根は真面目なので、わざと遅刻しようだなんて考えたことはない。
俺の家から学校までは徒歩と電車で三十分弱。全く大した距離じゃない。入学したての頃はそう思っていたのだけれど。
今朝は家の近くで大きな荷物を抱えたおばあちゃんがふらふらと歩いていたからつい声をかけてしまった。
こんな身なりでも何故かご老人にはあまり怖がられない俺は、世間話をしながら目的地まで荷物を運んであげた。
そこまでは想定内。歩けば困っている人に遭遇してしまうという謎体質の俺は、いつも時間に余裕を持って登校しているからだ。
いつもと違う道から駅へ向かうと、今度は通りがかった公園から猫の鳴き声が絶え間なく聞こえてきた。見渡すと、木の上に首輪をつけた太った猫。どうやら降りられなくなったらしい。
助けてやろうと自分も木に登ろうとしたら、パニックになった猫に顔や手を引っかかれ、挙句の果てに踏み台にされて逃げられた。
そのあとコンビニで消毒液と絆創膏を買って、傷の手当をしていたらいつの間にか登校時間が過ぎていた。
入学してからずっとこの調子で、三年生になってから二ヶ月程しか経っていないが遅刻は既に九回。ギリギリセーフは数え切れないほど。ちなみに欠席はゼロ。体が頑丈なのは唯一の取り柄だ。
遅刻を繰り返す度に教師たちからはペナルティを課され、俺はそれを素直に受け取っている。
今日も「遅刻の反省文と遅れている課題の提出が終わるまで今日は帰れないからな」と担任から命じられ、仕方なしに居残り勉強。バイトがない日でよかった。
「ヤンキーくん居残りだって」
「また? 懲りないよね~」
最後まで教室に残っていた女子の集団がクスクス笑いながら出ていく。小声で話してるつもりかもしれないが、思いっきり聞こえている。
本物のヤンキーなら、こんなもの破り捨てて勝手に帰るだろうが。自称進学校におけるヤンキーの解像度はツチノコと太った蛇を見間違えるぐらい低い。
「はぁ……」
俺はプリントとノートの山を見て大きくため息をついた。
中二の時、デカい喧嘩をした。上級生三人にカツアゲされていたクラスメイトを助けようとしたところ、囲まれてボコボコにされた。リーダー格の男に胸倉を掴まれたとき、殺されると思って反撃に一発ぶん殴ってしまった。のが運の尽き。殴った頬の内側が切れて流血騒ぎとなってしまった。集まってきた野次馬たちには犯罪者扱いされ、教師にはこってり絞られ、俺はしばらく自宅謹慎させられることになった。
その事件がきっかけですっかりヤンキー、不良のレッテルを貼られるようになってしまった俺。高校に入学してからもなお、どこからか噂が流れて誰も俺に近づこうとしない。
今日も教室で一人、遅くまで居残り勉強。慣れたものだ。
そもそも俺のクラスの生徒で残って自習してる奴なんてまずいない。ホームルームが終われば誰もがさっさと教室からいなくなる。
その証拠に、俺がいる三年二組の教室はもちろん、フロア全体がしんと静まり返っている。
「あー、ったく……さっさと終わらせねーと……」
ここで提出時間を守らないと、更なるペナルティが課されてしまうのだ。一年の頃から遅刻と課題未提出の常習犯である俺はその辺のことは熟知している。
こういうものは、やってる感が出ていればとりあえず許される。反省文は、内容がなくてもとにかく字数を稼ぐこと、課題に関してはわからなくてもとりあえず回答欄を埋めること。これに尽きる。
これで何度目であろう、信じてもらえない遅刻の言い訳と反省のお気持ち、今後の対策を薄っぺらく述べた文章を書き終えて、俺は大きく伸びをした。
教室の掛け時計を見ると、最終下校時間が迫っている。急いで荷物をまとめて電気を消すと、いつの間にか窓の外は雲が立ち込めて暗くなっていることに気付いた。早く帰らねばと思っていると、廊下の方から人の足音が聞こえてきた。
まさか担任が様子を見に来たのか。そんなことは今までなかった。俺は驚いてドアを小さく開けて廊下を覗いてみる。
心許ない自然光だけが頼りの薄暗い廊下の先。
フロアの端にある俺の教室から二つ先の教室の前に人影が二つ。
無駄に視力の良い俺が目を凝らして見てみると。一人は、くたびれたスーツを着た瘦せ型の男性教師。特進クラスの担当教師なので関わりはないが理科教師で会田という名前だったと思う。もう一人は、制服を着た男子生徒。見たことのある顔。生徒会の役員で集会や行事の時に前に出て挨拶や司会をしていた奴だ。真面目そうな黒髪。色が白くてスラっとしていて、細いフレームの眼鏡をかけている。ガリ勉くんの割には顔が整っていて、クラスの女子たちがキャーキャー騒いでいたから覚えている。
俺の高校は一般クラスと特進クラスで分かれており、俺は当然一般クラス。特進クラスは難関大学を目指す成績優秀者だけが入れるクラスだ。教室の棟も離れており、部活動などで一緒にならない限り俺たちが特進クラスの人間と関わることはほとんどない。
特進クラスの奴らがこんなところで何してんだ。首を傾げていると、教室のドアを開けて中に入ろうとする教師が、生徒の背中に手のひらを当て、するりと腰の下辺りまで手を滑らせた。目を疑った。俺の考えすぎかもしれないけど、下心のある手つきだった。このあと教室でどんなことが繰り広げられるのか、想像しただけで身の毛がよだつ。頭に血が上ってきた。体がジリジリと疼いてくる。
校内ではできるだけ大人しくしていようと思っていたが、無理だ。
俺は音を立ててドアを完全に開くと、足早に廊下を歩きながら大きな声を上げた。
「先生ー、こんなところで何やってんすか? ここ一般クラスの教室っすけど」
ビクリと肩を震わせた教師は、この世の終わりのような表情で俺を見上げてくる。
「なっ、何だ君は……もう下校時間は過ぎているだろう……」
「そっちこそ。さすが特進クラスはトクベツなんすね?」
よく怖いと言われる目で睨みつけながら嫌味たっぷりに言ってやると、教師は目を泳がせながら言葉を詰まらせる。
「チッ……狐嶋くん、話はまた今度に……」
教師は慌てた様子で足早に去ってしまった。
「はい、先生……」
狐嶋(こじま)と呼ばれた男は、遠慮がちな細い声で教師の後姿に返事をした。二人の間になにがあったのかは知らないが、怖かったのかもしれない。俺は心配になって声をかけた。
「おい、大丈夫かよ」
「……は? なにが?」
声のトーンが急に低くなって、儚げな表情が不機嫌そうな顔に切り替わる。
「余計なことしてもらっちゃ困るんだよね」
狐嶋は腕を組み、じっとりした目で俺を見上げながら言う。
同年代の人間からビビられることなく接されるのが物凄く久しぶりで、驚いてしまう。見かけによらず肝の据わった奴のようだ。それはそうとして、どうして俺が非難されなきゃいけないのか。
「んだよそれ。俺はお前が困ってるように見えたから助けようと……」
「困ってるように見えた? 僕の自主的な課外活動が?」
鼻で笑いながら聞かれて、俺はつい声を荒げてしまう。
「はっ?」
「はぁ……君のせいで推薦もらえなくなったらどうしてくれるの?」
「推薦ってなんだよ、大学受験の……?」
「そう。一般クラスの君には関係ない話かもしれないけど、僕たち特進クラスの人間にとっては死活問題なの」
狐嶋は小馬鹿にするように言って、眼鏡の細いブリッジを指で押し上げた。
「いや、お前まさかそれだけのために先公に色目使ってたのか?」
「うん。悪い?」
さも当然のように狐嶋は言う。
「はぁああっ? 悪いに決まってるだろ。受験ってのは、ちゃんと勉強して実力で勝ち取るもんだろ?」
頭に血が上って思わず大声を上げてしまった。
「まさか一般クラスの生徒に勉強についてお説教されるとはね……僕、無駄な努力はしたくないタイプなんだ。効率重視」
狐嶋は鼻で笑いながら言う。全く話が通じない。俺は自分の頭を乱雑に掻きながら言った。
「っあーーーわかんねー……お前さ、もっと自分のことを大切にしろよ」
「なんのこと?」
呆れたような顔で狐嶋が顔を見上げてくる。煽られているようで、俺は苛立ちを抑えきれずに言った。
「気持ち悪いだろ、あんなジジイに触られて。それ以上のことされたりしたら、どーすんだよっ」
「ふっ、あははは、君って見た目とは大違いの馬鹿真面目だね」
「んだと……!」
からかわれて、俺は怒りに身を任せて教室の壁を強く叩いた。やっちまった。と思ったが、狐嶋は顔色一つ変えずに俺を見上げ、にやりと口元で笑った。
「そんなんじゃ、こんな腐った世の中を渡っていけないよ」
「てめぇ、ホントにいかすかねーやつだな」
低い声で言って睨みつけると、狐嶋は少し沈黙した後、レンズの奥の瞳を軽く細めながら言った。
「……でも、ありがと。今日のはちょっとやばかったかも」
「え」
「餌を与えすぎて調子に乗らせたのは僕の責任だ。次からはもっと上手くやるよ。それじゃ」
それだけ言うと、狐嶋は颯爽と去って行ってしまった。
「はあああああっ!?」
廊下に自分のバカでかい声が虚しく響く。窓の外では雨が降り始めていた。
狐嶋 秀也(こじま しゅうや)。アイツの名前はそういうらしい。俺と同じ三年生で、生徒会の副会長。学年便りに名前が書いてあったし、先日あった全校集会の時、ご丁寧に全校生徒を前に名乗っていたからわかった。断じてアイツを意識して調べたりした訳ではない。断じて。
狐嶋と出会ってから、ずっと頭の中がモヤモヤして落ち着かない。人助けが久しぶりに不発に終わったからなのか。それとも、異星人のようなあの男のことが気になるからなのか。正直気にならないといったら嘘にはなるが、変に意識してしまうとか、恋心みたいにドキドキするとかそういうんじゃない。そもそも男に興味はないし、まあ確かに見た目は綺麗な奴ではあるけれど、性格は腹に一物も二物も抱えたとんでもない奴だし。俺はただ、思わぬところで遭遇してしまった地球外生命体の生態が気になって仕方ないだけだ。それ以上でもそれ以下でもない。
不可解な気持ちを抱えながらも、最近は大きな遅刻もせずに毎朝時間通りに登校できていた。テストの点数は相変わらず赤点だし、バイトが忙しくて授業中に居眠りしたりなんかはあったけれど。卒業に関わる遅刻に比べたら大したことではない。
目覚ましの鳴る前に清々しく目覚めた朝。なんと今日遅刻しなければ、一ヵ月間無遅刻記録更新! これまでの高校生活の中で初の偉業だ。今日は腹黒で嫌味な男のことを考えている場合じゃない。まずは洗顔、歯磨き。くたびれた半袖シャツにいつも以上にきっちりとネクタイを巻きつけ、擦れたスラックスに脚を通す。それから台所に立ち、味噌汁を作る小鍋で出汁用の昆布を煮立たせながら好物の卵焼きと塩鮭をちゃちゃっと焼く。味噌汁なだけに手前味噌だが朝食作りも慣れたもので、俺が作る男飯は普通に美味い。テレビから流れてくる不穏なニュースも今日は優雅なBGMのように感じてくる。それに画面の上部には天気予報の晴れマーク。これは幸先がいい。
そう思っていたのだが――
俺は意気揚々と家を出て、初夏の爽やかな日差しを浴びながら駅へと向かい、満員電車に乗り込んだ。車内で時おり遭遇する喧嘩などのトラブルも今日は見当たらない。平和だ。二駅先の学校の最寄り駅で降りて、軽やかな足取りで学校へと向かう俺に壮大なフラグ回収が待ち構えていた。
早めの時間帯なので人もまばらな通学路を外れ、交番へ向かおうとする俺の前に立ちはだかる人影。
「あ」
思わず漏れた声が重なる。綺麗にハモってしまった声の主、狐嶋秀也。よりによって今一番会いたくなかった男だった。
目が合って数秒。サラサラの黒髪を耳にかける仕草に目を奪われている隙に、狐嶋の目線はぐぐっと下がって俺の手元。繋いだ小さな手の主と俺を交互に見ては眉を顰める。
「え、何? 誘拐?」
狐嶋は素早くポケットからスマホを取り出すと、画面をタップし始める。
「おい、ナチュラルに通報しようとすんな」
俺はため息をついた。迷子の子どもを交番に連れていくところなんて見られたくなかったのに。
「じゃあ何、その子どもは。君の弟かなにか?」
狐嶋は訝しげに言う。ブランド物のポロシャツを着て、賢そうな顔をしている子どもと俺、どう見ても血縁関係があるとは思えないのだろう。
「違ぇよ」
「やっぱり誘拐じゃん。僕、大丈夫? 怖いことされてない?」
狐嶋はわかりやすい営業スマイルで子どもに話しかけた。
「はぁ……迷子だよ。保育園に行きたくなくて、こっそり家から逃げ出したんだとよ。そうだよな?」
「うん……」
四歳ぐらいと思われる男児は、泣き出しそうな顔で俺の手をぎゅっと握りながら小さく返事をした。
「これからかっこいいおまわりさんが助けてくれるから心配すんな。行くぞ」
俺がゆっくり歩き出すと、狐嶋は後をついてくる。
「へぇ、君って見た目によらず本当にイイヤツなんだね?」
俺は背筋がむず痒くなるのを感じながら、小さく口を開いた。
「そんなんじゃねえ、ただ……」
「ん?」
「俺、昔からなぜか困ってる人によく遭遇する体質で」
「体質って……あっははは、だからいっつも遅刻してるんだ」
狐嶋は思い出したかのように高笑いをして、冷やかすように俺の顔を覗き込んでくる。
「なっ、なんで知ってんだよ」
「集会や行事の時、よく途中から入ってくるでしょ。君、大きいから目立つんだよね」
「……っ、見てたのかよ……」
顔が一気に熱くなる。
「じゃあ、これからも頑張ってね、報われない人助け」
狐嶋はそう言って軽く手を降ると、スタスタと歩いて行ってしまった。
「……っっ!!」
文句の一つも言い返してやりたかったけど、子どもの手前、繋いだ手とは逆の拳をグッと握りしめて我慢した。相変わらずめちゃくちゃ癇に障る奴だ。仮にもあのとき助けてやったのに。
狐嶋の言う通り、俺がやっていることはおせっかいの自己満なのかもしれない。
電車で席を譲ろうとしたおじいちゃんに譲ってくれなんて頼んでない! ってキレられたり、道端で泣いている子どもに話しかけたら通りがかった人に不審者と間違われて通報されたり、空回りすることは少なからずある。
狐嶋のことだって、助けたことで逆に迷惑がられて……でも、もし俺が止めていなかったらどうなっていたんだろう。密室で、セクハラ教師と二人っきりであんなことやそんなこと……
アイツ確かに、男なのに肌すげぇ白いし、妙に色気があるというか……って何考えてんだ俺!!
「ああああああああ、もう!」
妙な妄想に脳を犯されて、頭を振りながら机を叩いた。
「うるさいぞ、御嶽! お前、今日中に溜まった課題全部終わらせないと帰れないからな」
我に返って周りを見渡すと、教室中の視線が俺に集まっている。子どもを交番に連れて行ったあと、なんとか遅刻ギリギリに滑り込もうと猛ダッシュして、疲れたせいかウトウトしていたけれど。そういえば授業中なんだった。
周りを見渡すと、俺を突き刺す無数の白い目。
「うーわ、なに今の。怖っ」
「アイツやべーよ」
「変なクスリでもやってんじゃない?」
もうなんとでも言え。机に頬を押し付けてうなだれる。やっぱり今日は最悪の日だ。結局、無遅刻一ヵ月記録は達成ならず。嫌な奴にも遭遇しちまうし。
自分でも訳がわからない。なんであんな奴のこと、グルグル考えてしまうんだろう。俺とは住んでいる世界も考え方もまるで違う異世界人。今後関わることなんてなさそうな相手なのに。
大学受験のためには教師に取り入って色目まで使う。そんな生き方、理解できるわけがない。そもそも高校に進学するのすら迷った俺に大学なんて無理だし。
やっぱり高校なんて行くんじゃなかった。一昨年に亡くなったばーちゃんに病床で懇願されて、仕方なく行くことにしたけれど。俺には向いてない。勉強はもともと苦手だし、周りの人間も俺の顔見て逃げていく奴らばかりだし。
学費を出してくれたばーちゃんに顔向けできなくなるから、卒業だけはちゃんとしようと思っているけれど。ばーちゃんは、未婚の母として俺を生み捨てた俺の母親の代わりに孫である俺をここまで育ててくれた。感謝してもしきれない。
俺が人助けを始めたのも、ばーちゃんの影響が大きかったと思う。二人で暮らしていたときは腰が悪かったばーちゃんに代わって力仕事をするのが俺の役目だった。
俺が重い荷物を運んだり、壊れた家具を直したりする度にばーちゃんは言った。
「いつもありがとうね。大牙は力持ちだから、その力を困った人のために使ってあげるんだよ」
俺の唯一の家族だったばーちゃんの言葉を胸に、俺は誰になんと言われようと信念をつき通す。
高校卒業まであと少しの辛抱。早く立派に働いて、天国にいるばーちゃんに少しでも安心してもらいたい。
俺たちが住むこの世界は、真面目な奴が馬鹿を見て、ずる賢い奴だけが得をするようにできている。
十数分前ほどに立ち寄った公園で蟻の行列を見た。働き蟻といえば働き者の代名詞であるが、そのうちの二割の蟻はせっせと餌を運ぶ訳でもなく、巣を守るために外敵と戦う訳でもなく、サボっているという。
人間の世界も同じだ。俺が今必死に向かおうとしている高校にもいる。掃除当番を気の弱い生徒に押し付けてさっさと帰る奴。毎朝、勉強の出来る友達の宿題を写させてもらってる奴。
俺は人のことをどうこう言えるほど立派な人間ではないが、少なくともこういう奴らの生き方は到底理解できるものではない。相容れない。
夏にはまだ早いというのに、額と首筋に汗が伝う。スマホで時間を確認すると、八時四五分。どれだけ急いでも遅刻確定なのがわかって俺は走るのを止めた。
必死に息を整えながら校門を抜けた頃には汗は引いて、ひんやりとした朝の風が心地よく体に染みる。
だだっ広い敷地内は清々しい程に人の気配がない。ぼんやりと視界に流れてくる綺麗に整備された花壇。休み時間や放課後にバカップルや動画を撮影する女子たちのたまり場になっている噴水。植え込みに囲まれている謎の銅像は真ん中に丸っこくデフォルメされた人間、両脇に羽ばたくように四肢を伸ばした亀、太陽の上に乗った逞しい鳥の三体。
庭を抜けてやっとたどり着いたメインの校舎は大きな窓が開放的なデザインで、有名な建築家が設計したものらしい。
こんなにもキラキラとした校内を、息も絶え絶えに歩く俺は明らかに浮いている。
身長は無駄にデカく百八十六センチ、金に近い明るい茶髪のツーブロック頭。そのうえ今日は顔にでかい絆創膏を貼りつけて、グレーのジャケットとチェックのスラックスというお上品な制服をシワや砂まみれにして着崩している。そんな俺、御嶽 大牙(みたけ たいが)が歩けば学校に限らず、街中どこでも人が避けて通る。
俺は大きく息を吐いて、やっとたどり着いた教室のドアを開いた。
「御嶽、授業始まってるぞ」
数学教師の呆れた声と同時に、侵入してきた虫を観察するような好奇と侮蔑の視線が四方八方から投げかけられる。
「……っす」
俺が小さく言って入室すると、教室内がにわかにざわつきはじめた。
「……うわっ、ボロボロじゃん。また喧嘩したんじゃね」
「前に怪我してたときは他校のヤンキーボコボコにして警察沙汰になったって聞いたよ」
「怖っ」
違う。全部違う。そして全部聞こえている。
この前怪我してたのは、バイト帰りに酔っ払いに絡まれていた女の人を助けようとしたら殴られただけ。そのあと返り討ちにして警察に突き出したけど。
倒れ込むように勢いよく椅子に座るだけで隣から「ヒッ……!」と小さな悲鳴が聞こえる。化け物か俺は。体がデカい分、物音も大きくなってしまうのは許して欲しい。
一時間前――
俺はいつも通り、登校時間の一時間ほど前に家を出た。
昨日は学校が終わってから夜まで居酒屋のバイトで疲れていたけれど、重い瞼を擦りながらもちゃんと目覚めた。こう見えて根は真面目なので、わざと遅刻しようだなんて考えたことはない。
俺の家から学校までは徒歩と電車で三十分弱。全く大した距離じゃない。入学したての頃はそう思っていたのだけれど。
今朝は家の近くで大きな荷物を抱えたおばあちゃんがふらふらと歩いていたからつい声をかけてしまった。
こんな身なりでも何故かご老人にはあまり怖がられない俺は、世間話をしながら目的地まで荷物を運んであげた。
そこまでは想定内。歩けば困っている人に遭遇してしまうという謎体質の俺は、いつも時間に余裕を持って登校しているからだ。
いつもと違う道から駅へ向かうと、今度は通りがかった公園から猫の鳴き声が絶え間なく聞こえてきた。見渡すと、木の上に首輪をつけた太った猫。どうやら降りられなくなったらしい。
助けてやろうと自分も木に登ろうとしたら、パニックになった猫に顔や手を引っかかれ、挙句の果てに踏み台にされて逃げられた。
そのあとコンビニで消毒液と絆創膏を買って、傷の手当をしていたらいつの間にか登校時間が過ぎていた。
入学してからずっとこの調子で、三年生になってから二ヶ月程しか経っていないが遅刻は既に九回。ギリギリセーフは数え切れないほど。ちなみに欠席はゼロ。体が頑丈なのは唯一の取り柄だ。
遅刻を繰り返す度に教師たちからはペナルティを課され、俺はそれを素直に受け取っている。
今日も「遅刻の反省文と遅れている課題の提出が終わるまで今日は帰れないからな」と担任から命じられ、仕方なしに居残り勉強。バイトがない日でよかった。
「ヤンキーくん居残りだって」
「また? 懲りないよね~」
最後まで教室に残っていた女子の集団がクスクス笑いながら出ていく。小声で話してるつもりかもしれないが、思いっきり聞こえている。
本物のヤンキーなら、こんなもの破り捨てて勝手に帰るだろうが。自称進学校におけるヤンキーの解像度はツチノコと太った蛇を見間違えるぐらい低い。
「はぁ……」
俺はプリントとノートの山を見て大きくため息をついた。
中二の時、デカい喧嘩をした。上級生三人にカツアゲされていたクラスメイトを助けようとしたところ、囲まれてボコボコにされた。リーダー格の男に胸倉を掴まれたとき、殺されると思って反撃に一発ぶん殴ってしまった。のが運の尽き。殴った頬の内側が切れて流血騒ぎとなってしまった。集まってきた野次馬たちには犯罪者扱いされ、教師にはこってり絞られ、俺はしばらく自宅謹慎させられることになった。
その事件がきっかけですっかりヤンキー、不良のレッテルを貼られるようになってしまった俺。高校に入学してからもなお、どこからか噂が流れて誰も俺に近づこうとしない。
今日も教室で一人、遅くまで居残り勉強。慣れたものだ。
そもそも俺のクラスの生徒で残って自習してる奴なんてまずいない。ホームルームが終われば誰もがさっさと教室からいなくなる。
その証拠に、俺がいる三年二組の教室はもちろん、フロア全体がしんと静まり返っている。
「あー、ったく……さっさと終わらせねーと……」
ここで提出時間を守らないと、更なるペナルティが課されてしまうのだ。一年の頃から遅刻と課題未提出の常習犯である俺はその辺のことは熟知している。
こういうものは、やってる感が出ていればとりあえず許される。反省文は、内容がなくてもとにかく字数を稼ぐこと、課題に関してはわからなくてもとりあえず回答欄を埋めること。これに尽きる。
これで何度目であろう、信じてもらえない遅刻の言い訳と反省のお気持ち、今後の対策を薄っぺらく述べた文章を書き終えて、俺は大きく伸びをした。
教室の掛け時計を見ると、最終下校時間が迫っている。急いで荷物をまとめて電気を消すと、いつの間にか窓の外は雲が立ち込めて暗くなっていることに気付いた。早く帰らねばと思っていると、廊下の方から人の足音が聞こえてきた。
まさか担任が様子を見に来たのか。そんなことは今までなかった。俺は驚いてドアを小さく開けて廊下を覗いてみる。
心許ない自然光だけが頼りの薄暗い廊下の先。
フロアの端にある俺の教室から二つ先の教室の前に人影が二つ。
無駄に視力の良い俺が目を凝らして見てみると。一人は、くたびれたスーツを着た瘦せ型の男性教師。特進クラスの担当教師なので関わりはないが理科教師で会田という名前だったと思う。もう一人は、制服を着た男子生徒。見たことのある顔。生徒会の役員で集会や行事の時に前に出て挨拶や司会をしていた奴だ。真面目そうな黒髪。色が白くてスラっとしていて、細いフレームの眼鏡をかけている。ガリ勉くんの割には顔が整っていて、クラスの女子たちがキャーキャー騒いでいたから覚えている。
俺の高校は一般クラスと特進クラスで分かれており、俺は当然一般クラス。特進クラスは難関大学を目指す成績優秀者だけが入れるクラスだ。教室の棟も離れており、部活動などで一緒にならない限り俺たちが特進クラスの人間と関わることはほとんどない。
特進クラスの奴らがこんなところで何してんだ。首を傾げていると、教室のドアを開けて中に入ろうとする教師が、生徒の背中に手のひらを当て、するりと腰の下辺りまで手を滑らせた。目を疑った。俺の考えすぎかもしれないけど、下心のある手つきだった。このあと教室でどんなことが繰り広げられるのか、想像しただけで身の毛がよだつ。頭に血が上ってきた。体がジリジリと疼いてくる。
校内ではできるだけ大人しくしていようと思っていたが、無理だ。
俺は音を立ててドアを完全に開くと、足早に廊下を歩きながら大きな声を上げた。
「先生ー、こんなところで何やってんすか? ここ一般クラスの教室っすけど」
ビクリと肩を震わせた教師は、この世の終わりのような表情で俺を見上げてくる。
「なっ、何だ君は……もう下校時間は過ぎているだろう……」
「そっちこそ。さすが特進クラスはトクベツなんすね?」
よく怖いと言われる目で睨みつけながら嫌味たっぷりに言ってやると、教師は目を泳がせながら言葉を詰まらせる。
「チッ……狐嶋くん、話はまた今度に……」
教師は慌てた様子で足早に去ってしまった。
「はい、先生……」
狐嶋(こじま)と呼ばれた男は、遠慮がちな細い声で教師の後姿に返事をした。二人の間になにがあったのかは知らないが、怖かったのかもしれない。俺は心配になって声をかけた。
「おい、大丈夫かよ」
「……は? なにが?」
声のトーンが急に低くなって、儚げな表情が不機嫌そうな顔に切り替わる。
「余計なことしてもらっちゃ困るんだよね」
狐嶋は腕を組み、じっとりした目で俺を見上げながら言う。
同年代の人間からビビられることなく接されるのが物凄く久しぶりで、驚いてしまう。見かけによらず肝の据わった奴のようだ。それはそうとして、どうして俺が非難されなきゃいけないのか。
「んだよそれ。俺はお前が困ってるように見えたから助けようと……」
「困ってるように見えた? 僕の自主的な課外活動が?」
鼻で笑いながら聞かれて、俺はつい声を荒げてしまう。
「はっ?」
「はぁ……君のせいで推薦もらえなくなったらどうしてくれるの?」
「推薦ってなんだよ、大学受験の……?」
「そう。一般クラスの君には関係ない話かもしれないけど、僕たち特進クラスの人間にとっては死活問題なの」
狐嶋は小馬鹿にするように言って、眼鏡の細いブリッジを指で押し上げた。
「いや、お前まさかそれだけのために先公に色目使ってたのか?」
「うん。悪い?」
さも当然のように狐嶋は言う。
「はぁああっ? 悪いに決まってるだろ。受験ってのは、ちゃんと勉強して実力で勝ち取るもんだろ?」
頭に血が上って思わず大声を上げてしまった。
「まさか一般クラスの生徒に勉強についてお説教されるとはね……僕、無駄な努力はしたくないタイプなんだ。効率重視」
狐嶋は鼻で笑いながら言う。全く話が通じない。俺は自分の頭を乱雑に掻きながら言った。
「っあーーーわかんねー……お前さ、もっと自分のことを大切にしろよ」
「なんのこと?」
呆れたような顔で狐嶋が顔を見上げてくる。煽られているようで、俺は苛立ちを抑えきれずに言った。
「気持ち悪いだろ、あんなジジイに触られて。それ以上のことされたりしたら、どーすんだよっ」
「ふっ、あははは、君って見た目とは大違いの馬鹿真面目だね」
「んだと……!」
からかわれて、俺は怒りに身を任せて教室の壁を強く叩いた。やっちまった。と思ったが、狐嶋は顔色一つ変えずに俺を見上げ、にやりと口元で笑った。
「そんなんじゃ、こんな腐った世の中を渡っていけないよ」
「てめぇ、ホントにいかすかねーやつだな」
低い声で言って睨みつけると、狐嶋は少し沈黙した後、レンズの奥の瞳を軽く細めながら言った。
「……でも、ありがと。今日のはちょっとやばかったかも」
「え」
「餌を与えすぎて調子に乗らせたのは僕の責任だ。次からはもっと上手くやるよ。それじゃ」
それだけ言うと、狐嶋は颯爽と去って行ってしまった。
「はあああああっ!?」
廊下に自分のバカでかい声が虚しく響く。窓の外では雨が降り始めていた。
狐嶋 秀也(こじま しゅうや)。アイツの名前はそういうらしい。俺と同じ三年生で、生徒会の副会長。学年便りに名前が書いてあったし、先日あった全校集会の時、ご丁寧に全校生徒を前に名乗っていたからわかった。断じてアイツを意識して調べたりした訳ではない。断じて。
狐嶋と出会ってから、ずっと頭の中がモヤモヤして落ち着かない。人助けが久しぶりに不発に終わったからなのか。それとも、異星人のようなあの男のことが気になるからなのか。正直気にならないといったら嘘にはなるが、変に意識してしまうとか、恋心みたいにドキドキするとかそういうんじゃない。そもそも男に興味はないし、まあ確かに見た目は綺麗な奴ではあるけれど、性格は腹に一物も二物も抱えたとんでもない奴だし。俺はただ、思わぬところで遭遇してしまった地球外生命体の生態が気になって仕方ないだけだ。それ以上でもそれ以下でもない。
不可解な気持ちを抱えながらも、最近は大きな遅刻もせずに毎朝時間通りに登校できていた。テストの点数は相変わらず赤点だし、バイトが忙しくて授業中に居眠りしたりなんかはあったけれど。卒業に関わる遅刻に比べたら大したことではない。
目覚ましの鳴る前に清々しく目覚めた朝。なんと今日遅刻しなければ、一ヵ月間無遅刻記録更新! これまでの高校生活の中で初の偉業だ。今日は腹黒で嫌味な男のことを考えている場合じゃない。まずは洗顔、歯磨き。くたびれた半袖シャツにいつも以上にきっちりとネクタイを巻きつけ、擦れたスラックスに脚を通す。それから台所に立ち、味噌汁を作る小鍋で出汁用の昆布を煮立たせながら好物の卵焼きと塩鮭をちゃちゃっと焼く。味噌汁なだけに手前味噌だが朝食作りも慣れたもので、俺が作る男飯は普通に美味い。テレビから流れてくる不穏なニュースも今日は優雅なBGMのように感じてくる。それに画面の上部には天気予報の晴れマーク。これは幸先がいい。
そう思っていたのだが――
俺は意気揚々と家を出て、初夏の爽やかな日差しを浴びながら駅へと向かい、満員電車に乗り込んだ。車内で時おり遭遇する喧嘩などのトラブルも今日は見当たらない。平和だ。二駅先の学校の最寄り駅で降りて、軽やかな足取りで学校へと向かう俺に壮大なフラグ回収が待ち構えていた。
早めの時間帯なので人もまばらな通学路を外れ、交番へ向かおうとする俺の前に立ちはだかる人影。
「あ」
思わず漏れた声が重なる。綺麗にハモってしまった声の主、狐嶋秀也。よりによって今一番会いたくなかった男だった。
目が合って数秒。サラサラの黒髪を耳にかける仕草に目を奪われている隙に、狐嶋の目線はぐぐっと下がって俺の手元。繋いだ小さな手の主と俺を交互に見ては眉を顰める。
「え、何? 誘拐?」
狐嶋は素早くポケットからスマホを取り出すと、画面をタップし始める。
「おい、ナチュラルに通報しようとすんな」
俺はため息をついた。迷子の子どもを交番に連れていくところなんて見られたくなかったのに。
「じゃあ何、その子どもは。君の弟かなにか?」
狐嶋は訝しげに言う。ブランド物のポロシャツを着て、賢そうな顔をしている子どもと俺、どう見ても血縁関係があるとは思えないのだろう。
「違ぇよ」
「やっぱり誘拐じゃん。僕、大丈夫? 怖いことされてない?」
狐嶋はわかりやすい営業スマイルで子どもに話しかけた。
「はぁ……迷子だよ。保育園に行きたくなくて、こっそり家から逃げ出したんだとよ。そうだよな?」
「うん……」
四歳ぐらいと思われる男児は、泣き出しそうな顔で俺の手をぎゅっと握りながら小さく返事をした。
「これからかっこいいおまわりさんが助けてくれるから心配すんな。行くぞ」
俺がゆっくり歩き出すと、狐嶋は後をついてくる。
「へぇ、君って見た目によらず本当にイイヤツなんだね?」
俺は背筋がむず痒くなるのを感じながら、小さく口を開いた。
「そんなんじゃねえ、ただ……」
「ん?」
「俺、昔からなぜか困ってる人によく遭遇する体質で」
「体質って……あっははは、だからいっつも遅刻してるんだ」
狐嶋は思い出したかのように高笑いをして、冷やかすように俺の顔を覗き込んでくる。
「なっ、なんで知ってんだよ」
「集会や行事の時、よく途中から入ってくるでしょ。君、大きいから目立つんだよね」
「……っ、見てたのかよ……」
顔が一気に熱くなる。
「じゃあ、これからも頑張ってね、報われない人助け」
狐嶋はそう言って軽く手を降ると、スタスタと歩いて行ってしまった。
「……っっ!!」
文句の一つも言い返してやりたかったけど、子どもの手前、繋いだ手とは逆の拳をグッと握りしめて我慢した。相変わらずめちゃくちゃ癇に障る奴だ。仮にもあのとき助けてやったのに。
狐嶋の言う通り、俺がやっていることはおせっかいの自己満なのかもしれない。
電車で席を譲ろうとしたおじいちゃんに譲ってくれなんて頼んでない! ってキレられたり、道端で泣いている子どもに話しかけたら通りがかった人に不審者と間違われて通報されたり、空回りすることは少なからずある。
狐嶋のことだって、助けたことで逆に迷惑がられて……でも、もし俺が止めていなかったらどうなっていたんだろう。密室で、セクハラ教師と二人っきりであんなことやそんなこと……
アイツ確かに、男なのに肌すげぇ白いし、妙に色気があるというか……って何考えてんだ俺!!
「ああああああああ、もう!」
妙な妄想に脳を犯されて、頭を振りながら机を叩いた。
「うるさいぞ、御嶽! お前、今日中に溜まった課題全部終わらせないと帰れないからな」
我に返って周りを見渡すと、教室中の視線が俺に集まっている。子どもを交番に連れて行ったあと、なんとか遅刻ギリギリに滑り込もうと猛ダッシュして、疲れたせいかウトウトしていたけれど。そういえば授業中なんだった。
周りを見渡すと、俺を突き刺す無数の白い目。
「うーわ、なに今の。怖っ」
「アイツやべーよ」
「変なクスリでもやってんじゃない?」
もうなんとでも言え。机に頬を押し付けてうなだれる。やっぱり今日は最悪の日だ。結局、無遅刻一ヵ月記録は達成ならず。嫌な奴にも遭遇しちまうし。
自分でも訳がわからない。なんであんな奴のこと、グルグル考えてしまうんだろう。俺とは住んでいる世界も考え方もまるで違う異世界人。今後関わることなんてなさそうな相手なのに。
大学受験のためには教師に取り入って色目まで使う。そんな生き方、理解できるわけがない。そもそも高校に進学するのすら迷った俺に大学なんて無理だし。
やっぱり高校なんて行くんじゃなかった。一昨年に亡くなったばーちゃんに病床で懇願されて、仕方なく行くことにしたけれど。俺には向いてない。勉強はもともと苦手だし、周りの人間も俺の顔見て逃げていく奴らばかりだし。
学費を出してくれたばーちゃんに顔向けできなくなるから、卒業だけはちゃんとしようと思っているけれど。ばーちゃんは、未婚の母として俺を生み捨てた俺の母親の代わりに孫である俺をここまで育ててくれた。感謝してもしきれない。
俺が人助けを始めたのも、ばーちゃんの影響が大きかったと思う。二人で暮らしていたときは腰が悪かったばーちゃんに代わって力仕事をするのが俺の役目だった。
俺が重い荷物を運んだり、壊れた家具を直したりする度にばーちゃんは言った。
「いつもありがとうね。大牙は力持ちだから、その力を困った人のために使ってあげるんだよ」
俺の唯一の家族だったばーちゃんの言葉を胸に、俺は誰になんと言われようと信念をつき通す。
高校卒業まであと少しの辛抱。早く立派に働いて、天国にいるばーちゃんに少しでも安心してもらいたい。
