「……えっと、これって……」

 黒澤の困惑した声に、誠の焦りはさらに募る。

「だ、誰にも言わないでくれっ!」

 誠は俯き、真っ赤になった顔を上げることが出来ない。

「ってことは、これは志田のやつなのか」

 黒澤にそう言われてから、「友達の」とか「妹の」とか適当に言い訳しようがあったことに気がつく。

 ──とりあえず、なんか言わなきゃ。どうにかしないと。

 そう思うものの、言葉が何一つ出てこない。誠の頭の中は、恥ずかしさ、焦り、恐怖、色々な感情がごちゃ混ぜになり、とっ散らかっている。出来ることは、ただ溢れそうな涙を堪えることだけだった。

「んっと……」

 さすがの黒澤も酷く困惑しているようで、次の言葉に迷っている。その様子に誠の瞳にはさらに涙が溜まっていく。
 良い年して、こんなことで泣きそうになってちゃダメだ。
 そう、()()()()()だ。
 まだ、どうにか誤魔化せるかもしれないし、そもそも黒澤自身もゲイであり、周囲に言いふらすことはしないかもしれない。しかし、誠の頭の中には、過去のトラウマが決壊したダムの水ように勢いよく、流れ出していく。

【おい、志田、プールの時に俺の身体じろじろ見てただろ。気持ち悪りぃーな】

 ──見てないっ……! そもそもお前の身体になんて興味ない……!

【こいつ、触ると顔真っ赤になるんだぜ。ほんっと気持ち悪い】

 ──これはそうゆう体質なんだ、そう思うなら触らないでくれ……!

【ごめん。俺、男とか無理だから】

 ──ただ友達になりたくて話しかけただけだよ……。男なら全員恋愛対象なわけじゃない……。

【名前が志田ゲイだもんな! 生まれた時から普通じゃなかったんだな!】

【男が男好きって理解出来ない。ゲイは同じ人間とは思えないな】

 毎日繰り返される心ない言葉に、誠も初めは反抗心を抱いていたが、次第に心は弱っていった。そして、何を言っても理解してくれない周囲の反応に、本当に自分は普通じゃないのだと思った。
 自分にとってはただ、恋愛対象が男なだけ。後は普通の人と何も変わらない。しかし、それは一般人にとっては、異常すぎることで、まるで宇宙人かのように扱われる。それを知ってからは、普通じゃない自分が悪いんだと考えるようになった。だから反抗せずに耐え、もう誰にもバレないようにしようと決意した。
 それなのに、黒澤にバレてしまった。
 また悪魔のような日々が始まるのかと思うと、真っ赤だった誠の顔は、次第に色をなくしていく。頭はハンマーで殴られたかのようにズキズキと痛む。
 そんな誠を、整った眉を寄せ、黒澤が心配そうに覗き込む。

「志田? 大丈夫? 俺、別に誰かに言ったりなんてしないから」

 そんな黒澤の気遣いも誠の心には届かない。いつもの少年のような笑顔ではない彼の表情は、むしろ誠の不安を、より一層掻き立てた。
 もう一瞬でも目の力を緩めれば、涙が溢れて止まらないだろう。

「……えっと、志田ってゲイなの?」

 黒澤が遠慮がちに投げかけた言葉を聞いた瞬間、誠の目からは、ついに涙が溢れ出した。
 信じてくれるかは置いといて、「漫画は趣味なだけで、ゲイではないよ」とか、いくらでも誤魔化すことはできただろう。しかし、皆が怪訝そうに発するその質問は、いつも悪夢の始まりだった。
 「ゲイ」という言葉は誠の心臓を突き刺す、最も鋭利なナイフだった。そのナイフを黒澤に持たれると、なぜか涙を堪えることができなかったのだ。

「えっ…! ど、どうした!?」

 滲んだ黒澤の姿が、これまでにないほど動揺して、立ち上がるのが分かる。それでも誠は肩を震わせ、静かに、涙を流し続ける。

「俺、本当に言いふらしたりなんて絶対しないよ! それに知っての通り、俺もゲイだ。志田と同じだよ」

「それは違う!」

 黒澤の言葉は、誠の不安をかき消すどころか、以前から腹の底にあった黒い感情をどんどん湧き上がらせた。

「お前と俺は違うよ……! 俺は、ゲイなのに……男が好きなのに……それなのに、男が嫌いで、怖くてしょうがないんだ!」

 男というだけで、自分が恋愛対象だと勝手に勘違いし、容赦なく言葉の暴力を振るってくる。そんなやつらが誠は大嫌いだった。それでも、女性を好きになることを、この身体は受け入れてくれない。熱を持ち、触れたいと思うのはどうしても男性なのだ。
 しかし、男性への疑心と恐怖が朝顔の蔓のように、誠の心臓にはきつく、まとわりついている。そんな自分はゲイにすらなりきることが、できていないのだろう。

 ──だから、ちゃんと恋人もいて、周囲にゲイとして受け入れられながら、しっかりと生きているお前とは、全然違うんだよ……。

 誠は心の中でそうつぶやくと、もう言葉は発さなかった。これ以上、口を開けば、黒澤に対する八つ当たりしか出てこないとを自覚していたからだ。

「ごめん。同じとか言って。無神経だった」

 俯く誠に黒澤は真剣な表情で頭を下げた。
 誠はまさか自分が謝られるとは思っておらず、唖然としてしまう。
 黒澤は再度、誠の前に腰を降ろし、床に置いてあった漫画をパラパラと読み出す。

「だって俺、志田ほど綺麗な心持ってないし。こんなキラキラした展開で抜けるほど、純粋な恋愛してきてないわ」

 黒澤は眉を八の字に寄せ、少し困ったような笑みを浮かべた。
 黒澤の言葉を、誠は上手く咀嚼することができない。とりあえず、漫画を取り上げねばと思い、誠は「返せよ」と言いながら手を伸ばし、黒澤の方へと身体を乗り出した。
 すると、伸ばした右手を黒澤に強く掴まれる。

「ダメ! だってこれが志田の理想の恋ってことなんでしょ? じゃあ、知っておかなきゃ」

「……は?」

「俺はこんな恋愛してきてないし、志田のタイプじゃないかもだけど、これから頑張るよ。てかノンケじゃないってだけで、大分難易度下がった」

 ──タイプ……? 難易度……?

 誠の頭の中は先刻とは異なる種類の混乱でいっぱいだった。「へっ?」とか「はっ?」とか情けない声を出すばかりで、言葉を紡ぐことができない。
 黒澤は誠の手を解放すると、急に正座をしだし、そのまま続けた。

「まずは親友目指そうと思ってたけど、やめた。正々堂々、彼氏を目指します」

「……いや、え? マジで何言ってんの?」

「え……可能性ゼロって感じ!?」

「いや、そうじゃなくて、いやなくないけど……。お、俺のこと引いてないの?」

 黒澤の驚きの発言の連続に、誠はあっけに取られる。しかし、そのおかげなのか、いつの間にか涙は引っ込んでいた。

「引くって何に? BLの漫画で抜いてること?」

 ──うっ……。はっきり言われるときつい。

「……良い歳して、漫画で抜いてるとか普通じゃないだろ……。それにゲイとか言いながら、男に嫌悪感があるのも変だろ……」

 誠が不安気にそう言うと、黒澤は「なんだ、そんなことか」と、目を細める。

「漫画は、まぁ少数派ではあるかもだけど、だからって別に変ではないでしょ。汚いとことか書かれてないし、ある意味、一番夢あるじゃん」

 誠の漫画をパラパラとめくりながら「けっこうエロいし」と、黒澤は続ける。そして、漫画を閉じ、床に置くと、今度は誠の瞳をしっかりと見つめ、話し出す。

「で、その男が怖くて嫌いってのはさ、今まで、そんなやつらしか志田の近くに居なかったってだけでしょ? それは志田に引くってより、周囲のやつらを軽蔑するよ」

「いや、でも俺にも問題がきっとあるわけで……」

「俺は自分を信じるよ。少なくとも、俺の見てきた志田は素直で、面白くて、可愛くて、引く要素なんて全くない」

 黒澤はそう言い切ると、机の上に置かれていた誠の右手に、自分の手を重ね、真っ直ぐ誠を見つめた。

「むしろ、どんどん惹かれてる」

「……っ!」

 誠は顔を真っ赤にし、あまりの恥ずかしさに、黒澤の手を思いっきり振り払った。

「な、な、ふざけるのも良い加減にしろよ!」

 叫びながら、心臓にまた痛みを感じた。しかしそれは、先程のナイフで切り裂かれたような痛みではなく、圧迫されたような痛みで、苦しいのに、どこか心地よい痛みだった。
 血液がすごい勢いで身体中を駆け巡っているような感じがする。身体が熱くてしょうがない。

「ふざけてないよ。本気で志田が欲しくなっちゃった」

「そもそもお前、彼氏いるだろ!」

「彼氏……? あ、もしかして、すっごい嫌そうな顔で見てた時の人のこと言ってる? 」

 誠は黙って頷く。

「……あの人はなんていうか、腐れ縁ていうか、まぁ簡単に言うと、セフレってやつだね」

「……セ、セフっ!」

 少女漫画脳の誠にとっては驚愕の事実で、開いた口が塞がらない。

「俺は純粋な恋愛してきてないって言っただろ……。でも志田のためなら、もう身体の関係は持たないようにするよ。だから志田も、俺のこと引かないで?」 

 首を傾げ、子犬のような瞳で見つめてくる黒澤は多分、確信犯だ。

「いや、驚いただけで、べ、別に、個人の自由だし。俺に関係ないし」

 そう言いながらも、誠の視線は泳ぎまくりで、黒澤の目を見ることもできない。

「関係なくないよ。志田とはちゃんとしたい」

「な、なっ……!」

 今日の自分の語彙力は五歳児以下のようだ。また言葉が出ず、口をパクパクさせてしまう。

「ははっ……! ほんと可愛い反応するなっ!」

「な、バカにしてんだろ!?」

 そう言いながらも、やっと少年のような満面の笑顔を浮かべた黒澤に、内心ホッとする。

 「してない、してない」と言いながら、笑い続ける黒澤の姿を見て、なんだか誠まで笑えてきた。もらい泣きだけじゃなくて、もらい笑いもあるんだと初めて知った。

「まぁ、とにかくこれから覚悟してよね」

「な、なんだよ覚悟って……」

「はい。黒澤陽太は、今日から志田にアプローチすることを、ここに誓います」

 ふざけながら、黒澤は右手を小さく挙げ、宣言する。馬鹿だなと思いつつも、ここで冗談っぽくしてくれたのは、彼の気遣いなのかもしれないとも思う。
 いや、考えすぎか。
 でも、いつもはムカつく、黒澤の軽いノリに、この時ばかりは感謝した。

「俺はそんな簡単に堕とされないからな」

 誠は自分に言い聞かせるように、宣言する。
 そう、黒澤は重い空気を変えるために、ノリで言ってるだけだ。絶対本気になんてしてはいけない。
 そんな誠を黒澤は楽しそうに、ニヤつきながら見ている。

「どうかなー。ご覧の通り、ポツは俺に堕ちているみたいですが」

 そう言われ、黒澤の膝の上に視線をやると、ポツが気持ちよさそうに丸まっていた。

「な、ポツ! ひどいぞ! 俺の膝に戻っておいで!」

 誠が必死にポツの名を呼んでいると、急に黒澤は、誠の顔を指差した。
 そして、どこからそんな声が出るんだ、というほど低い声で「次はお前の番だ」と言った。

「……ふっ!」

 黒澤のその仕草と言葉は、アニメ化もされている二人の大好きな漫画、ヒーロー大戦の悪役の決め台詞である。誠は思わず吹き出してしまう。

「微妙に似てるモノマネすんなよっ!」

 耐えきれず、大笑いしだした誠を見つめる黒澤は、どこか安心したような表情を浮かべている。
 その表情に、また胸が痛んだのは、きっと気のせいだ。
 最大の秘密がバレた最悪な日のはずなのに、なぜか誠の心は長年こびりついた汚れが取れたかのように、スッキリしていた。