驚きのあまり言葉を失っている誠を、黒澤が不思議そうに見つめている。
 なんでこんなとこにいるんだ、と焦るものの、よく考えたら同じ家に住んでいるのだから、帰路で出会うのは、そうおかしな話ではない。
 黙りこくる誠を他所に、黒澤が弾んだ声を上げる。

「え! 黒猫じゃん! かわいいっ!」

 黒澤はまるで子供のようにそう言うと、焦げ茶の綺麗な瞳を輝かせる。印象とは異なる反応に、思わず唖然としてしまう。

「あ、志田くんもしかしてこの子拾おうとしてたの?」

 急に名前を呼ばれたことに驚きつつも、口と身体に動け!と命令を下す。なんとか、口だけは言うことを聞いてくれるようだ。

「えっと……いや、まぁ……」

 しかし肝心の言葉がなかなか出てこない。自分は想像以上に動揺しているようだ。
 そして、焦りや困惑という感情は、自覚すると、さらに加速していくものである。

 ──どうしよう……。これ以上こいつとは関わりたくないけど、黒猫を見捨てるわけにもいかないし……。よしっ! とりあえず黒猫を連れて逃げよう!

 誠は困惑のあまり、黒猫に触れることすらできていない現状を忘れ、そんな結論を導き出した。

「あの、ご迷惑おかけしました! とりあえずこの子連れて帰るんで! じゃあ!」

 黒猫の上から覆い被さるように、脇のあたりを掴もうとする。その瞬間、右腕に衝撃が走った。

「いっ……!」

 発した悲鳴と共に、慌てて右手を上に挙げる。その手を黒澤に力強く掴まれた。

「ちょ、何やってんの!?  そんないきなり抱っこしたら警戒するに決まってるじゃん! ほら、とりあえずこれで拭いて!」

 黒澤はどこか焦った様子でそう言うと、ポケットからハンカチを取り出し、誠の傷口にそっと当てた。青いハンカチが、傷口に触れた場所から、徐々に赤く染まっていく。

「す、すみません……弁償するんで……」

「いいから。そんなことより志田くん猫慣れてないの?」

 誠の言葉をぴしゃりと遮断した後、黒澤は強い眼差しで問いかけてくる。

「触ったこともないです……」

「……はぁー。よくそれで連れて帰ろうと思ったね」

 血を流し冷静になったこともあり、本当にその通りだと思った。
 自分の衝動的な行動に、じわじわと恥ずかしくなってくる。そして、それを黒澤に指摘されたことが悔しいのか、悲しいのか複雑な気持ちになった。ただ、黒澤に迷惑をかけたことはちゃんと自覚していた。
 そこは反省しているので、素直に謝るしかない。

「本当にすみませんで」
「とりあえず、俺が一緒に連れて帰るよ」

 言いかけた謝罪に黒澤の言葉が被さる。すぐに意味を理解することができず、誠は目を丸くした。

「え?」

「だって志田くん猫、抱っこできないでしょ。俺、実家で猫飼ってたから慣れてるし、一緒に志田くんの部屋まで連れていくよ」

 急展開すぎて頭が追いつかない。
 再び言葉を失っている誠を他所に、黒澤は黒猫へと近づいていく。

「怖がらないで。大丈夫だよ」

 そう言いながら、黒澤は黒猫の頭や顎の下を優しく撫でる。

「急に抱っこするんじゃなくて、こうやって徐々に慣れさせていかないと。この子、人懐っこそうだね。そろそろ平気かな……」

 黒澤はそうつぶやくと、慣れた手つきで、ひょいっと黒猫を抱えた。

「え、すごっ……」

 誠は思わず感嘆の声を上げてしまう。

「ほら、行くよ」

 夜風に髪を靡かせ、黒猫を抱えながら黒澤が振り返る。その姿はまるで、一枚の絵画のように綺麗だった。
 美しい絵画に吸い込まれるかのように、誠は自然と黒澤の後を追いかけていた。