講義後の本日の行き先はカラオケだった。曲への冒涜のような飲み曲ばかりに付き合うのはひどく疲れる行為だ。ようやく集団から解放された頃には、あたりはすっかり真っ暗だった。帰路を辿りながら、思わず深いため息が漏れた。
 東京の遊びは自分には合っていない、日々そう感じる。でも、別に地元でも楽しい遊びや、居心地の良い居場所があったわけでもない。そう思うと、環境の問題ではなく、そもそもの自分の性格によるところが大きいのだろう。誠はとにかく自分に自信が持てないのだ。ゲイである自分に──。


 自分の恋愛対象が男であると気づいたのは、中学一年生のプールの授業の時。入学して最初に仲良くなった友人の裸に、妙に興奮した。直視できず、下半身の熱を抑えることに全神経を集中させていた。自覚してからはもうダメだった。
 今まで普通にしていたこと全てに意識してしまうようになった。家で二人で遊ぶことも、肩を組むことも、回し飲みすることも、全て意識せずにはいられなかった。どんなに頑張っても、触れられると赤面してしまい、身体がびくん、と反応してしまう。
 そして、そんな反応をしていれば次第に周囲は気づき出すのだ。

【なぁ、お前って俺のこと好きなの?】

 友人に聞かれた時には、もう手遅れだった。違うと口で言っても、赤くなる顔、震えは止まってくれなかった。

【志田ってゲイらしいよ。志田誠じゃなくて、志田ゲイだな!】

 田舎の小さな街で噂が回るのは一瞬だった。
 誠は高校卒業まで悪夢のような日々を過ごした。そして、卒業と同時に逃げるように上京したのである。



 ──もう絶対バレないようにしないと。俺は普通だ。大丈夫。

 誠は街灯だけに照らされた暗闇の中で、自分の誓いを反芻した。
 暗い気持ちを拭うため、音楽を聴きながら家路を辿っていると、どこからか、小さな鳴き声が聞こえた。
 右耳のイヤホンを取り、もう一度耳をすませてみる。

「ニャー」

 か細いが、やはり聞こえる。足を止め、音の基へと視線を向けると、そこには闇と同化するような真っ黒な身体に、まるで月のように鮮やかな黄色い瞳を持った黒猫がポツンと佇んでいた。段ボールに入っているのを見るに、恐らく捨て猫だろう。
 どうしてこんなことができるのだろうか。
 人間はどうして自分と異なる存在を簡単に捨てるのだろうか。
 酷い憤りを感じる。
 でも所詮、自分もそんな汚い人間の一人にすぎないのである。
 お金や時間、手間など現実的な問題ばかりが浮かんできて、黒猫を拾うという選択ができない。
 罪悪感を感じながらも、再び歩みを進めた時、ふと、近くを通った女子高生の会話が聞こえてきた。

「うわ、あの猫真っ黒だ。これじゃインスタ映えしないね」

「ほんとだー。なんか黒猫って不吉なイメージもあるし怖いよね。だから捨てられたのかな?」

「やっぱ、猫買うなら普̀通̀に̀茶色とか白とかの方がいいよね!」 

「間違いないわ〜」

 スマホをいじりながら、互いの顔も見ずに会話する二人の少女は、思いやりの欠けらもない言葉を吐き捨て、黒猫の前を通り過ぎて行った。
 煮えたぎるお湯のように、腹の底からふつふつと怒りが湧いてくる。

 ──普通ってなんだよ。SNSのことばっか考えて、頭が空っぽなお前らが、なんで普通を決めるんだよ。

 なぜだか無性にイラついた。力強く拳を握りしめながら、ずんずんと歩いてきた道を戻る。黒猫の目の前に立ち、小さく深呼吸をする。
 黒猫と視線を合わせるように膝を曲げ、黄色い瞳に問いかける。

「お前も一人ぼっちなんだろ……。俺と一緒に来る?」

 二人の間に夏の生ぬるい風が通り抜ける。

「……ニャー!」

 黒猫は少し上を向き、口を大きく開け、元気に鳴いた。その様子に、誠は思わず目を細める。
 冷え切った心の中に、暖かい風が通り抜けるのを感じた。
 誠はとりあえず黒猫を連れて帰ることにした。ネットで調べればどうにかなる、そう思ったのだ。
 しかし、現実はそんなに甘くなかった。誠が黒猫に触れようと手を伸ばした瞬間、黒猫はうーっと唸り、激しく威嚇する。

「ちょっ! 暴れるなって! 抱っこしないと家連れてけないだろ!」

 誠の必死の説得も、警戒心マックスの猫にはまるで届かない。この世の終わりかのように威嚇する猫に、誠の心は既に折れそうだった。

 ──なんだよ…。お前も俺のこと嫌いなのかよ。
 
 今日はとことん悪い方に思考が行ってしまう。猫相手に馬鹿らしいとは思いながらも、誠はなぜか寂しい気持ちになっていた。夜中というせいもあるのだろうか。
 まるでこの世にひとりぼっちのような、そんな喪失感が身体全体を埋め尽くす。
 しゃがみこみ、ダンゴムシみたいに身体を丸め、寂しさを埋めるように、自分で自分を抱きしめた。
 その時だ。

「どうかしたの?」

 ふと、闇の中で明るい太陽のような声が聞こえた。
 光に導かれるように、顔を上げる。
 目の前の人物が視界に入ると、金縛りにあったかのように、身体が動かなくなる。
 あろうことか、闇を切り裂いたのは、大嫌いな隣人だった。