「いらっしゃいませー! お客様何名様でしょうか?」

 賑やかな居酒屋に即した、金髪にピアスをつけた店員が明るい声で、誠と昴に問いかける。二名であることを伝えると、手前の机を手早く片し、案内してくれた。
 ファーストドリンクと食事を三、四品頼み終わると会話が始まる。

「んで、この前は何があったの」

 この前とは花岡とのいざこざがあった日を指しているのだろう。昴も自分のことを探してくれたのだから、もちろん知る権利がある。
 誠は言葉を慎重に選びながら、過去の出来事も交えつつ花岡との一件について話した。
 もちろん、誠がゲイであることも。

「なんだそいつ。心せめぇーのな」

 誠の不安を他所に、昴はあっさりとそう言った。
 憐れみや偏見の視線を送らず、いつも通りのテンションの昴の様子は、誠を心底安心させた。
 的確な花岡への批判に、思わず笑ってしまう。

「まぁ、普通の人からしたら理解できないのはしょうがないだろ。ずっと言いなりになってきた俺も悪いし」

 誠が苦笑いしながらそう言うと、昴は眉を顰め不満そうな表情を浮かべる。

「何が普通かなんて誰にも分かんないだろ。俺からしたら花岡ってやつの方が人間性狂ってるように見えるんだけど」
 
 またも的確な昴の言葉に誠は驚く。
 やはり、昴はチャラチャラしているだけの大学生ではないようだ。
 ただ、周りに合わせているだけではない。彼はきちんと芯の通った人間のように思う。
 他人に合わせる所は合わせ、楽する時は楽をする。けれども、ここは曲げないという芯を持つことで、自分をしっかりと保っているのだ。

「そんな風に言ってもらえて良かったよ。正直、引かれたらどうしようって不安だった」

 安心したからか、思わず本音が溢れてしまう。

「今時そんな珍しくもないだろ。てか、俺も両方いけるし」

「……は!?」

 安堵から一転、昴の衝撃の告白に、誠は椅子から転げ落ちそうなほど驚く。

「最近、両刀のやつ意外と多いぞ。男同士の方が良いとこ分かるしな」

 ニヤリと笑みを浮かべながら、昴が放った生々しい言葉に、誠は顔を真っ赤してしまう。

「あらあら、誠くん。意外と初心なのね。ちょっとキュンとしちゃう」

「おいっ! 馬鹿にするなよ!」

 耳まで赤くしながら必死に講義する誠の様子に、昴は今まで見たこともないほど大爆笑しだす。

「まぁ冗談だから安心しな。お前は俺のタイプとは正反対」

「俺も昴なんかタイプじゃないよ!」

 そんな小学生みたいな言い合いに、二人はしばらく笑い合った。

「あ、そういえば、猫。今度見に行っても良いか?」

 昴のこの一言で、誠の心にまた靄がかかる。それでも必死に感情を抑え、言葉を絞り出す。

「……もちろん。来週でいい?」

 昴は快く承諾してくれ、二人は再び、くだらない話を再開した。



「は!?」

 黒澤の大きい声に、誠の肩は驚きでビクッと上下した。

「……びっくりした。いきなり大きい声出すなよ」

 誠は、いつものようにステップを持って家にやってきた黒澤に、先日の昴とのやり取りを、かいつまんで話していた。その途中で、何故か黒澤が大きな声を上げたのだ。
 
「待って、待って。今、昴くん両方いけるって言った? ねぇ、言ったよね?」

 焦った様子で黒澤が言う。

「……まぁ、驚くよな。そんな素振り全く無かったから俺もびっくりした。でも、どちらかと言うと女子の方が好きらしいよ」

「いや、そうじゃなくて……」

 そう言いかけてやめた黒澤は、これまでにないほど深い深いため息をついた。
 一体どうしたのだろうか。
 誠には黒澤のため息の原因がどこにあるのか、全く分からない。

「なに、そんな昴が両方いけるの嫌なの? 俺は割と嬉しかったけど」

「は!? 嬉しかった!?」

「え、だって……俺のこと気持ち悪がらないでくれるし、相談もしやすいし……」
 
「相談!?」

「ちょ、なんでさっきから半ギレしてんだよ……」

 誠が眉を顰めながらそう言うと、黒澤は再び深いため息をつく。その様子に、さすがの誠も少しイラッとしてしまう。
 
 ──言いたいことあるなら言えば良いのに……。

「誠。俺がなんでこうなってるか、ほんとに分かんない?」

 今度は少し寂しげな表情で、黒澤がそう言う。黒澤の情緒が不安定すぎて誠も困惑しだす。

「わ、わかんねぇよ……」

 誠は本当に何が何だか分からず、困り果ててしまう。

「そっか……。ごめん、今日は帰る」

 黒澤はそう言うと、足早に部屋を去っていってしまった。誠は状況が飲み込めず、ポカンとしてしまう。
 
 ──なんだよあいつ……。もう知らん……。
 
 気分を切り替えようと、楽しみだったステップを手に取る。しかし、どんなに集中しようとしても内容が頭に入ってこない。
 誠は生まれてはじめて、大好きなステップを読むことを諦め、ベッドに投げ置いた。



「おー! この子がポツか! 真っ黒だな」

 昴は誠の部屋に入るなり、ポツをまじまじと見つめる。そんな昴に驚いたのか、ポツは素早くカーテンの後ろへと隠れてしまう。
 その様子は誠に、初めてポツを拾った日のことを想起させた。

「いつもはこんなんじゃないんだけど……。慣れれば人懐っこい子だよ」

「まぁ、最初はこんなもんだろ。はじめましての人間に怖がるのは当たり前」

 そう言ってくれて安心する反面、本当にポツを引き取る気なんだと、思わず消沈してしまう。もう覚悟はできているはずなのに。
 ポツを怖がらせないように、二人はしばらく雑談を交わしていた。三〇分ほど経ったところで、やっと昴への警戒心を解いたのか、ポツがのそのそとカーテンから出て来る。
 そして、一直線に歩みを進め、当たり前のように誠の膝の上に乗っかった。
 そんなポツに誠は思わず大きな笑みを浮かべる。

「おー。すっげぇー懐いてんな。安心し切った顔してるわ」

「そうかな……。慣れれば……昴のお姉さんにもこうなると思うよ」

 自分で言っておいて、胸にチクリと痛みを感じる。
 昴は一緒にポツに会いに行こうと言ってくれているし、お姉さんもそれを了承してくれている。
 だから、別にポツと会えなくなるわけではない。でも、自分がポツにとって一番の存在では無くなるのかと思うと、なんだか複雑な気持ちになる。
 いつからこんなに贅沢になってしまっていたのだろうか。

「なぁ、ほんとに良いの?」

「え?」

「ポツを姉貴のとこに譲ってほんとに良いんだな?」

 昴からの虚を突かれるような問いかけに、誠は思わず、言葉を詰まらせてしまう。

「な、なんだよ……急に……。俺がお願いしたんだろ」

「いや、俺も厚意のつもりで姉貴に聞いたけど……」

 昴はそこでなぜか言葉を飲み込む。

「けどなんだよ?」

「……なんか、誠があまりに寂しそうな顔してるから」

 その言葉に、誠は恥ずかしさと情けなさで言葉を失ってしまう。身勝手すぎる自分に心底呆れる。

「なぁ、本当にポツと離れて良いのかよ?」

 再び、昴が誠を捕らえるかのように問いかけてくる。 
 お願いだから、そんな風に聞かないで欲しい。
 固めていたはずの決意がまた、揺らいでしまいそうだから。

「なんで、そんなこと言うんだよ……。別に会えなくなるわけじゃないし」

「そういうこと言ってんじゃないだろ。お前、少しは自分の気持ちに素直になれよ」

「っ……!」

 昴からの言葉が、誠の胸に突き刺さる。
 何度、自分の気持ちを無視してきただろうか。
 そのせいで、何度後悔したことだろうか。
 変わらなければ。そう決意したはずではないか。
 自分から踏み出さないと、何も始まらないんだ。

「……ない」

「なんだよ。聞こえない。大きい声で言えよ」

「俺だって本当はポツと離れたくないよ!」

 そう言い放った途端、涙が溢れそうで、誠は必死に目元に力を入れた。
 ここで泣いたら、まるで駄々をこねる小学生のようだ。
 誠は唇を噛み締めて堪える。

「じゃあこの話はなしってことで」

 昴はなんでもないことのように言った。
 呆気に取られた誠は、思わず閉じ切っていた唇から「へ?」とだらしない声を溢してしまう。

「なんだよ。誠がポツと離れたくないなら、それで話は終わりだろ」

「いや……そ、そんな自分勝手なこと普通ダメだろ……」

 引き取って欲しいと自分から言っておいて、今度は離れたくないだなんて、そんな都合の良いことが許されるわけがない。
 何か言われると思っていた誠は、昴の反応に、逆に戸惑ってしまう。
 
「自分勝手ってなんだよ。ポツのためにはそっちの方が良いに決まってんだろ。見てみろよ、その幸せそうな顔」

 昴が顎で誠の膝もとを示す。
 その先には、目を細め、気持ち良さそうに眠っているポツが居る。ゴロゴロと喉を鳴らしている音も聞こえる。
 そんなポツの様子はたしかに幸せそうに見える。

 ──自分だけではなく、ポツも一緒に過ごす日々を幸せに思ってくれているのだろうか。もし、もし、そうならば……。

「……昴。やっぱり俺、ポツを手放したくない」

 誠はきっぱりとそう言った。
 もう自分からもポツからも逃げたくない。

「はいよ。姉貴には言っとくから心配すんな」

 そう言って微笑む昴に、再び目頭が熱くなるのを感じる。自分は本当に人に恵まれている。生まれて初めてそう思えた。

「昴、本当にありがとう……」

「ちょ、そういうノリやめろって言ってんだろ!」

「いや、でも本当に感謝してんだよ。お礼くらい言わせて」

「やめろ。良いから。お前は感謝より反省しろ! もっとはっきり自分の意思を言え。手放したくないものの手は、ちゃんと握っとけ」

 昴にそう言われ、ふと黒澤の顔が思い浮かんだ。
 先日、急に家を出て行ってしまってから、黒澤とは顔を合わせていない。
 連絡を取っていないわけではない。毎朝、律儀に一緒に登下校できないという連絡は来る。課題やバイトなど理由は様々だが、避けられているのは明白だった。
 誠はそんな黒澤を気にしないようにしようと努めていた。でも、それで良いのだろうか。
 いつも何かあると、黒澤の方から手を差し伸べてくれる。黒澤が優しい言葉を投げかけてくれる。無意識に自分は、今回もそうなると思っていたのではないだろうか。
 そんな保証はどこにもないというのに。
 黒澤に甘えてばかりで何も進歩してないではないか。
 昴の言葉のおかげで、何か重要なことに気づけたような気がした。
 ふと、また一人で考え込んでしまっていたことに気づき、視線を昴の方に戻すと、なぜか彼は楽しそうにニヤついている。

「例えば、好きな人とかな」

「……は!?」

 昴が放った言葉に、誠は分かりやすく動揺してしまう。そんな誠を見て、昴は益々楽しそうに笑う。

「べ、別に……好きな人なんて……!」

「まぁ、誰とは言わんけどさー」

 意地の悪い笑みを浮かべながらそう言う昴を見るに、多分気づかれているのだろう。
 自分の恋心に。
 そして、その相手に。
 誠が思わず深いため息をついた時、聞き慣れたインターホンの音が聞こえてきた。
 この恥ずかしい空気感から抜け出したくて、誠は足早に玄関へと向かう。
 しかし、モニターに映る人物が視界に入った瞬間、誠の心臓の音は、さらに速まる。

「お、噂をすれば」

 誠の後ろからモニターを覗き込んでいた昴はそう言うと、すぐに身支度を整え出した。

「んじゃ、俺は帰るわ。まぁ、頑張れよ」

 そんなことを言いながら、昴は勢いよく扉を開ける。

「昴くん……」

「よう、黒澤。今日はポツを見に来てたんだ。でも結局、誠が飼い続けることになったから俺はもう帰るわ!」

「そっか……気をつけてね」

「おう! ありがとな!」

 どこか重たげな表情を浮かべる黒澤とは対照的に、明るい笑みを浮かべながら昴は自転車に跨り颯爽と去って行った。
 二人の間にしばし沈黙が流れる。
 その沈黙を破ったのは、誠だ。

「とりあえず入れよ。……俺、黒澤に話したいことあるし」

 そう口に出すと、心臓がはち切れそうなほど激しく動き出す。
 それでも、伝えようと思った。
 結果よりも、まずは行動することが大切だと、花岡の一件で学んだから。
 手放したくないものは、しっかりと口に出して言わなければならないと、昴のおかげで知ったから。
 黒澤が玄関に入ったのを確認すると、誠は力強く扉を閉めた。