「あ、志田! おはよう! 体調平気そう?」
月曜日の朝、扉を開けると目の前には、なぜか黒澤が居た。月曜日に一限を取っているのは自分だけのはずだ。誠は驚きで、一瞬静止してしまう。
「……ん。もう平気。てか、なんで居んの……。今日お前一限ないだろ……」
「病み上がりだし、心配だから一緒に行こうかと思って。どっちみちレポートのために図書館行きたいし」
「なら、昨日の内に連絡しろよ……。わざわざ外で待ってなくても……」
「だって、あらかじめ言っといたら、志田は絶対そんなことしなくていいって言うじゃん! だから実力行使」
黒澤はもう、誠の性格を熟知しているようだった。たしかに、昨日の内に一緒に行こうと誘われてたら、自分はその通りに返していただろう。
誠に反論の余地はなかった。
渋い顔をしている誠を他所に、黒澤は「ほら、行こう」と歩き出す。
誠は不満気な表情の裏で、どこか満ち足りたものを感じながら、黒澤の後に続いた。
「今日はバイトないって言ってたよね? 一緒に帰れる?」
黒澤はどうやら本当に、自分を送り迎えするつもりらしい。
どれだけ過保護なんだと思う反面、その心配をどこか嬉しく思ってしまう自分も居た。
中々の重症である。
誠は浮き立つ感情を抑えながら、慎重に口を開く。
「……っと、今日は講義の後、昴と飲むから一緒には帰れない」
黒澤に聞かれた時のために、予め用意しておいた言い訳だったにも関わらず、少し言葉に詰まってしまった。
嘘をつくというのは、実は意外と難しいのだ。
「すばる?」
「あ、同じ学部の友達。サークルも一緒なんだ」
「ふーん……。志田、大学でそんな仲良いやつ居たんだ」
黒澤は、なぜかやや不満気な表情を浮かべる。少し棘のある黒澤の言葉に、思わず誠もムッとしてしまう。
「なんだよ、俺だって友達くらい居るし……」
「あ、ごめん! 別にそういう意味で言ったわけじゃなくて……。志田が下の名前で呼ぶなんて珍しいから、つい……」
「ついってなんだよ?」
誠は黒澤の言葉の意味が理解できず、首を傾げる。
「いや、なんでもない! 気にしないで! そっか、了解! じゃあ明日の朝、また一緒に行こう」
「うん。今日もわざわざ……ありがとな……」
「いやいや、俺が勝手についてっただけだから気にしないで。志田は本当にいい子だなー」
先程まで黒澤がなんだか浮かない顔をしているように思えたが、杞憂だったようだ。満面の笑みの黒澤を見て、誠も思わず笑みがこぼれる。
「いい子って、ちょっと馬鹿にしてんだろ!」
「してないって! じゃあ、俺は図書館行ってくるね。病み上がりなんだし、あんま遅くなんないように」
「子供扱いするなって。もう平気だから。じゃあ、また……」
笑いながら言い合う、そんなくだらないやりとりが心底幸せに感じた。
黒澤に背を向け、寂しい気持ちに蓋をするように、誠は足早に教室へと向かった。
「誠くん、お疲れ様! もう上がって良いよ」
「はい。お先に失礼します」
誠はバックヤードにあるPCの退勤ボタンを押すと、憂鬱な気持ちでスマホを手に取った。
パスコードを入れ、画面を開くと、予想通りの名前が表示される。
その忌々しい名前をタップすると、「二三時、いつもの場所で」という、これまた予想通りの文面が表示される。
メッセージを見た途端、誠の足は鉛のように重たくなり、気持ちは地の底まで沈んでいく。
それでも、行くしかないのだ。
そんな弱い自分を認めた上で、立ち向かうのだ。
誠は根性を入れるため、自分の両頬を軽く叩いてから、店を後にした。
いつもの場所こと、遊具の錆び切った侘しい公園にたどり着いた数分後、花岡は現れた。
「お、今日は遅刻してないね」
不敵な笑みを浮かべ、タバコを吸いながらゆっくりとこちらへ歩いてくる。
「ん、金」
花岡は当然のように右手を、誠の胸元の前にひらひらと差し出してくる。
そんな花岡の態度に、誠の身体は反射的に震えてしまう。でも、今日の震えは恐怖によるものだけではない。
そこには確かに、怒りの感情も含まれている。
黒澤に言われて、少しは自分に対する気遣いが生まれたのかもしれない。
この時、誠は確実に怒りを感じていた。
花岡が、自分にこんなことをする権利なんてない。
絶対にないんだ。
「……ない」
「は? 何?」
「……お、お前に渡す金なんてないっ!」
誠は拳を握り締めながら、できる限り大きな声で叫んだ。情けないことに声は震えてしまう。
「おい、お前マジで何言ってんの? そうゆうの良いから。早く金出せって」
誠の言葉はまるで花岡に届かない。
まぁ、そんなことは最初から分かっていた。
そもそも、花岡みたいなタイプの人間が、自分の意見なんか聞くはずがない。
むしろ、逆上させるだけだろう。
それでも、自分の気持ちを言うことに意味があると思った。
NOと言う勇気。
それこそが今の自分に必要であると、そう思ったのだ。
「出さない! もう、絶対に金は渡さないし、お前とも会わない! 今日はそれだけ言いに来た!」
「……ぷっ! なにそれ、そんなんで俺が引き下がると思ったの? 子犬がキャンキャン吠えてるようにしか聞こえないんだけど?」
花岡が小馬鹿にするように言う。
それでも誠はめげない。
「俺、もう帰るから。ゲイってことバラしたいなら好きにすればいい。でも、これ以上付き纏うなら俺だって、それなりの対応するから。立派な恐喝だし、警察に言うことだってできる」
それだけ言うと、誠は花岡に背を向け、立ち去ろうとする。
だがもちろん、そう上手くは行かない。
花岡が凄まじい力で誠の手首を掴む。
「……っ! 離せっ!」
「ほんと、どうしたの志田くん。反抗期なの? 一回ちゃんとお話ししようよ?」
「お、お前と話すことなんてないっ!」
「はいはい、良いから良いから、ちょっと落ち着いて」
言い終わらない内に、花岡は誠の手首を強く掴んだまま引きずるように公園を後にし、さらに人気のない路地裏へと連れ出す。
「志田くん、声デカいから近所迷惑になっちゃうでしょ。ここなら、どんなに大きな声出しても大丈夫だよっ!」
「……っあぁ!!」
路地裏に入るなり、腹部に花岡の拳が飛んでくる。
まだ治りきっていない箇所に燃えるような衝撃を感じ、誠の口からは思わず悲痛な叫びがこぼれた。
「ほら、茶番は良いから。はやく金出しなって。痛いの嫌いでしょ?」
「……やだっ。絶対出さないっ……」
「はぁ……。俺も無駄な暴力したくないんだけど……なっ!」
花岡が今度は誠の足を思いっきり踏みつける。
「……ったぁ!」
あまりの痛さに、誠の瞳が歪む。
怖い。逃げたい。楽になりたい。
でも、そしたら今までと同じになってしまう……。
弱い自分のままは嫌だ。
黒澤みたいに強い人間になるためには……ここで立ち向かわなければならないんだ。
誠は改めて、気合を入れ直す。
だが、悲しいことに、力ではどうやっても花岡に敵わないだろう。
それならば、現状で花岡に対して、自分ができる抵抗とは何だろうか。
花岡にとって一番嫌なことは何なのか、誠は必死に考える。
そして、思い出した。いじめっ子が最も嫌がること。
それは……。
「ほら、早くしろよ!」
そう言いながら、花岡は何度も、何度も、誠の足を踏みつける。
「……っ」
だが、先程と異なり、誠は一言も声を発さなかった。
何度踏まれても、唇を噛み締め耐える。
そんな誠の反応に、分かりやすく花岡は苛立ち出す。
「おい! 聞いてんのかよっ!」
再び腹を殴られ、視界が歪むほどの衝撃を感じる。それでも、誠は歯を食いしばった。
こんな奴のために、声も、涙も出したくない。
こいつが喜ぶ反応なんで絶対にしてやるもんか。
「おい、志田! 聞いてんのかよ! ああ、そっか。こっちの名前のが良いのか! 志田ゲイ! 何か言え、志田ゲイ!」
繰り返される暴言と暴力に、涙と悲鳴があふれそうになる。
それでも誠は耐える。
頭の中で黒澤とポツとの暖かい記憶を思い浮かべながら、必死に耐え続ける。
「しだっ!」
さすがに限界なのか。ついに幻聴まで聞こえ出した。
最も愛しい声。
暖かくて、優しい声。
「おい、お前何やってんだよ。志田から離れろ」
しかし、そこで異変に気づいた。
たしかに、知っている声だが、ここまで冷え切った声は聞いたことがない。
しかも不思議なことに、声は徐々に近づいてくる。
──そんなわけない……。
真っ暗で冷たい夜に、あるはずがないのに。
それなのに、暖かい太陽が今、誠の目の前にたしかに存在している。
「く、くろさわ……なんで……」
「あ? なんだ志田ゲイのお友達か? あ、もしかして志田ゲイの彼……うわっ!」
花岡が言い終わらない内に、黒澤が胸ぐらを掴む。
「誠、誠だ。志田には誠っていう綺麗で誠実な心に相応しい名前があるんだよ……! ふざけた名前で呼ぶな!」
黒澤は、聞いたこともないような荒々しい声で怒鳴ると、花岡を掴んでいる手に思いっきり力を込める。
「……うっ」
花岡が苦しそうに顔を歪める。
黒澤はさらに手の力を強めていく。
「警察呼んでもいいけど、どうする? ……誠の姿を見ればお前に非があるのなんてすぐバレるだろうな。あとバカなお前は知らないんだろうけど、こういう路地裏にこそ、防犯カメラってつけてあるんだよ」
「……うっ! くっそ……! 分かったよ! もう志田には近づかないし、金も取らない!」
黒澤の冷え切った表情と声、そして容赦のない力の入れ方に怯えたのか、花岡の顔はもう真っ青になっている。
「……って言ってるけど、どうする、誠?」
「え」
こんな時だというのに、誠は黒澤に名前を呼ばれていることへの羞恥でいっぱいだった。
さっきまでは恐怖で音を立てていた心臓が、今は異なる意味で、爆発しそうだ。
「警察に突き出す? このまま逃がす?」
「あ……。俺もできれば警察沙汰にはしたくないし、もういいよ……」
それに、こんなに情けない花岡の表情は見たことがない。
頭の良い彼のことだ。多分リスクを冒してまで、誠には近づいて来ないだろう。
直感的にそう思った。
「……そう。だってさ。誠に免じて見逃してやるけど、今度、誠に近づいたら容赦しないからな?」
そう言うと、黒澤は再び手に力を込め、花岡を睨みつける。
「……うっ! わ、わかったから……! もう……絶対……近づかねぇからっ!」
花岡が苦しそうにそう言ったのを確認すると、黒澤は乱暴に手を放した。
花岡は地面に崩れ落ちると、息が整わない内に逃げ去って行った。
想定外の出来事の連続に、誠は情報の整理が追いつかない。
なぜ、黒澤は自分がここに居ると分かったのか。
なぜ、来てくれたのか。
なぜ、名前を……。
「志田、大丈夫か?」
誠がぐるぐると考えていると、いつもの暖かくて優しい声が耳に入ってくる。話し方も呼び方も、もう自分の知っている黒澤に戻ったようだ。
黒澤の声で緊張の糸が切れたのか、踏ん張っていた足に、急激に力が入らなくなる。
「志田!!」
崩れ落ちる誠を、黒澤は素早く抱き止めてくれる。誠は黒澤の腕の中にすっぽりと収まった。
黒澤の腕の中はいつも暖かくて、安心する。
「ごめん……。ちょっと力抜けた……」
「すぐ、救急車呼ぶ」
黒澤は珍しく冷静な判断ができないのか、スマホに番号を打とうとしている。
ってあれ、この感じ、なんか……。
「……ふっ! これなんかデジャヴ!」
誠が家で倒れた時に、すぐに救急車を呼ぼうとしていた黒澤を思い出し、誠は思わず吹き出してしまう。
「おい! 笑い事じゃないっ!」
笑う誠に、黒澤が険しい表情をしながら叫ぶ。
でも、不思議とそんな黒澤を、もう怖いとは感じなかった。
「……ごめんごめん。だけど、今回もそんな大怪我じゃないから」
「なっ……! そんなわけ……」
「でも、さすがに歩くのは、しんどいから肩貸してもらっても良い……?」
自分でも驚くほどすんなりと、誠の口からは黒澤を頼る言葉が出た。
誠はやっと学んだのだ。
頼れる時は頼る、それはお互いにとって必要なことなのだと。
「……乗って」
「えっ」
黒澤はいつも予想外の行動をする。
背中に乗れ、そう言っているらしい。
──さすがにこの年でおんぶされながら道を歩くのは恥ずかしいんだけど……。
だが、こういう時に黒澤に何を言っても通用しないことも誠は学んでいた。
ここは黒澤の大きな背中に身体を任せることにしよう。
そして、いつか、自分も黒澤をおぶってやろう。
背負い背負われ。
そんな関係になれたら良いなと、温かい体温を感じながら誠はぼんやりと思った。
黒澤におぶられ、帰路を辿る。
時間が時間なので、人通りはほぼなく、誠は密かに安堵する。
一方黒澤は、誠をおぶってから一言も発していない。
多分、怒っているのだろう。
でも後悔はしていない。
今日初めて、自分の足で立てた、そんな気がするから。
──まぁ、結局最後は黒澤に助けられたけど……。
「志田」
「え! あ、何!?」
あれこれと考えていた誠は、急に名前を呼ばれたことに分かりやすく動揺してしまう。
やはり、呆れているのだろうか。
怒られるのだろうか。
誠の心臓が緊張で音を立て出す。
黒澤は規則正しく動かしていた足をぴたりと止める。
誠の不安は最高潮へと達する。
「……志田……。よく……よく頑張ったね」
「……え」
絞り出すように黒澤から発せられた言葉に、誠は戸惑った。
頑張ったなんて言われるほど、自分は何もしていない。
黒澤の方がずっと……。
「……あれ……?」
気づくと誠の瞳からは熱いものがあふれ出していた。
急に手足が震えだす。
──本当は怖かった。痛くて辛くて、逃げ出したかった。でも……それでも頑張れたのは……。
誠は思わず、黒澤の身体を強く抱きしめた。
黒澤は何も言わずに、再び歩みを進める。
言葉なんていらない。
広くて暖かい黒澤の背中は、誠に安心感と優しさを与えてくれる。
ずっと冷え切っていた心が温まっていく。
長い長い、夜が明けたような気がした。
月曜日の朝、扉を開けると目の前には、なぜか黒澤が居た。月曜日に一限を取っているのは自分だけのはずだ。誠は驚きで、一瞬静止してしまう。
「……ん。もう平気。てか、なんで居んの……。今日お前一限ないだろ……」
「病み上がりだし、心配だから一緒に行こうかと思って。どっちみちレポートのために図書館行きたいし」
「なら、昨日の内に連絡しろよ……。わざわざ外で待ってなくても……」
「だって、あらかじめ言っといたら、志田は絶対そんなことしなくていいって言うじゃん! だから実力行使」
黒澤はもう、誠の性格を熟知しているようだった。たしかに、昨日の内に一緒に行こうと誘われてたら、自分はその通りに返していただろう。
誠に反論の余地はなかった。
渋い顔をしている誠を他所に、黒澤は「ほら、行こう」と歩き出す。
誠は不満気な表情の裏で、どこか満ち足りたものを感じながら、黒澤の後に続いた。
「今日はバイトないって言ってたよね? 一緒に帰れる?」
黒澤はどうやら本当に、自分を送り迎えするつもりらしい。
どれだけ過保護なんだと思う反面、その心配をどこか嬉しく思ってしまう自分も居た。
中々の重症である。
誠は浮き立つ感情を抑えながら、慎重に口を開く。
「……っと、今日は講義の後、昴と飲むから一緒には帰れない」
黒澤に聞かれた時のために、予め用意しておいた言い訳だったにも関わらず、少し言葉に詰まってしまった。
嘘をつくというのは、実は意外と難しいのだ。
「すばる?」
「あ、同じ学部の友達。サークルも一緒なんだ」
「ふーん……。志田、大学でそんな仲良いやつ居たんだ」
黒澤は、なぜかやや不満気な表情を浮かべる。少し棘のある黒澤の言葉に、思わず誠もムッとしてしまう。
「なんだよ、俺だって友達くらい居るし……」
「あ、ごめん! 別にそういう意味で言ったわけじゃなくて……。志田が下の名前で呼ぶなんて珍しいから、つい……」
「ついってなんだよ?」
誠は黒澤の言葉の意味が理解できず、首を傾げる。
「いや、なんでもない! 気にしないで! そっか、了解! じゃあ明日の朝、また一緒に行こう」
「うん。今日もわざわざ……ありがとな……」
「いやいや、俺が勝手についてっただけだから気にしないで。志田は本当にいい子だなー」
先程まで黒澤がなんだか浮かない顔をしているように思えたが、杞憂だったようだ。満面の笑みの黒澤を見て、誠も思わず笑みがこぼれる。
「いい子って、ちょっと馬鹿にしてんだろ!」
「してないって! じゃあ、俺は図書館行ってくるね。病み上がりなんだし、あんま遅くなんないように」
「子供扱いするなって。もう平気だから。じゃあ、また……」
笑いながら言い合う、そんなくだらないやりとりが心底幸せに感じた。
黒澤に背を向け、寂しい気持ちに蓋をするように、誠は足早に教室へと向かった。
「誠くん、お疲れ様! もう上がって良いよ」
「はい。お先に失礼します」
誠はバックヤードにあるPCの退勤ボタンを押すと、憂鬱な気持ちでスマホを手に取った。
パスコードを入れ、画面を開くと、予想通りの名前が表示される。
その忌々しい名前をタップすると、「二三時、いつもの場所で」という、これまた予想通りの文面が表示される。
メッセージを見た途端、誠の足は鉛のように重たくなり、気持ちは地の底まで沈んでいく。
それでも、行くしかないのだ。
そんな弱い自分を認めた上で、立ち向かうのだ。
誠は根性を入れるため、自分の両頬を軽く叩いてから、店を後にした。
いつもの場所こと、遊具の錆び切った侘しい公園にたどり着いた数分後、花岡は現れた。
「お、今日は遅刻してないね」
不敵な笑みを浮かべ、タバコを吸いながらゆっくりとこちらへ歩いてくる。
「ん、金」
花岡は当然のように右手を、誠の胸元の前にひらひらと差し出してくる。
そんな花岡の態度に、誠の身体は反射的に震えてしまう。でも、今日の震えは恐怖によるものだけではない。
そこには確かに、怒りの感情も含まれている。
黒澤に言われて、少しは自分に対する気遣いが生まれたのかもしれない。
この時、誠は確実に怒りを感じていた。
花岡が、自分にこんなことをする権利なんてない。
絶対にないんだ。
「……ない」
「は? 何?」
「……お、お前に渡す金なんてないっ!」
誠は拳を握り締めながら、できる限り大きな声で叫んだ。情けないことに声は震えてしまう。
「おい、お前マジで何言ってんの? そうゆうの良いから。早く金出せって」
誠の言葉はまるで花岡に届かない。
まぁ、そんなことは最初から分かっていた。
そもそも、花岡みたいなタイプの人間が、自分の意見なんか聞くはずがない。
むしろ、逆上させるだけだろう。
それでも、自分の気持ちを言うことに意味があると思った。
NOと言う勇気。
それこそが今の自分に必要であると、そう思ったのだ。
「出さない! もう、絶対に金は渡さないし、お前とも会わない! 今日はそれだけ言いに来た!」
「……ぷっ! なにそれ、そんなんで俺が引き下がると思ったの? 子犬がキャンキャン吠えてるようにしか聞こえないんだけど?」
花岡が小馬鹿にするように言う。
それでも誠はめげない。
「俺、もう帰るから。ゲイってことバラしたいなら好きにすればいい。でも、これ以上付き纏うなら俺だって、それなりの対応するから。立派な恐喝だし、警察に言うことだってできる」
それだけ言うと、誠は花岡に背を向け、立ち去ろうとする。
だがもちろん、そう上手くは行かない。
花岡が凄まじい力で誠の手首を掴む。
「……っ! 離せっ!」
「ほんと、どうしたの志田くん。反抗期なの? 一回ちゃんとお話ししようよ?」
「お、お前と話すことなんてないっ!」
「はいはい、良いから良いから、ちょっと落ち着いて」
言い終わらない内に、花岡は誠の手首を強く掴んだまま引きずるように公園を後にし、さらに人気のない路地裏へと連れ出す。
「志田くん、声デカいから近所迷惑になっちゃうでしょ。ここなら、どんなに大きな声出しても大丈夫だよっ!」
「……っあぁ!!」
路地裏に入るなり、腹部に花岡の拳が飛んでくる。
まだ治りきっていない箇所に燃えるような衝撃を感じ、誠の口からは思わず悲痛な叫びがこぼれた。
「ほら、茶番は良いから。はやく金出しなって。痛いの嫌いでしょ?」
「……やだっ。絶対出さないっ……」
「はぁ……。俺も無駄な暴力したくないんだけど……なっ!」
花岡が今度は誠の足を思いっきり踏みつける。
「……ったぁ!」
あまりの痛さに、誠の瞳が歪む。
怖い。逃げたい。楽になりたい。
でも、そしたら今までと同じになってしまう……。
弱い自分のままは嫌だ。
黒澤みたいに強い人間になるためには……ここで立ち向かわなければならないんだ。
誠は改めて、気合を入れ直す。
だが、悲しいことに、力ではどうやっても花岡に敵わないだろう。
それならば、現状で花岡に対して、自分ができる抵抗とは何だろうか。
花岡にとって一番嫌なことは何なのか、誠は必死に考える。
そして、思い出した。いじめっ子が最も嫌がること。
それは……。
「ほら、早くしろよ!」
そう言いながら、花岡は何度も、何度も、誠の足を踏みつける。
「……っ」
だが、先程と異なり、誠は一言も声を発さなかった。
何度踏まれても、唇を噛み締め耐える。
そんな誠の反応に、分かりやすく花岡は苛立ち出す。
「おい! 聞いてんのかよっ!」
再び腹を殴られ、視界が歪むほどの衝撃を感じる。それでも、誠は歯を食いしばった。
こんな奴のために、声も、涙も出したくない。
こいつが喜ぶ反応なんで絶対にしてやるもんか。
「おい、志田! 聞いてんのかよ! ああ、そっか。こっちの名前のが良いのか! 志田ゲイ! 何か言え、志田ゲイ!」
繰り返される暴言と暴力に、涙と悲鳴があふれそうになる。
それでも誠は耐える。
頭の中で黒澤とポツとの暖かい記憶を思い浮かべながら、必死に耐え続ける。
「しだっ!」
さすがに限界なのか。ついに幻聴まで聞こえ出した。
最も愛しい声。
暖かくて、優しい声。
「おい、お前何やってんだよ。志田から離れろ」
しかし、そこで異変に気づいた。
たしかに、知っている声だが、ここまで冷え切った声は聞いたことがない。
しかも不思議なことに、声は徐々に近づいてくる。
──そんなわけない……。
真っ暗で冷たい夜に、あるはずがないのに。
それなのに、暖かい太陽が今、誠の目の前にたしかに存在している。
「く、くろさわ……なんで……」
「あ? なんだ志田ゲイのお友達か? あ、もしかして志田ゲイの彼……うわっ!」
花岡が言い終わらない内に、黒澤が胸ぐらを掴む。
「誠、誠だ。志田には誠っていう綺麗で誠実な心に相応しい名前があるんだよ……! ふざけた名前で呼ぶな!」
黒澤は、聞いたこともないような荒々しい声で怒鳴ると、花岡を掴んでいる手に思いっきり力を込める。
「……うっ」
花岡が苦しそうに顔を歪める。
黒澤はさらに手の力を強めていく。
「警察呼んでもいいけど、どうする? ……誠の姿を見ればお前に非があるのなんてすぐバレるだろうな。あとバカなお前は知らないんだろうけど、こういう路地裏にこそ、防犯カメラってつけてあるんだよ」
「……うっ! くっそ……! 分かったよ! もう志田には近づかないし、金も取らない!」
黒澤の冷え切った表情と声、そして容赦のない力の入れ方に怯えたのか、花岡の顔はもう真っ青になっている。
「……って言ってるけど、どうする、誠?」
「え」
こんな時だというのに、誠は黒澤に名前を呼ばれていることへの羞恥でいっぱいだった。
さっきまでは恐怖で音を立てていた心臓が、今は異なる意味で、爆発しそうだ。
「警察に突き出す? このまま逃がす?」
「あ……。俺もできれば警察沙汰にはしたくないし、もういいよ……」
それに、こんなに情けない花岡の表情は見たことがない。
頭の良い彼のことだ。多分リスクを冒してまで、誠には近づいて来ないだろう。
直感的にそう思った。
「……そう。だってさ。誠に免じて見逃してやるけど、今度、誠に近づいたら容赦しないからな?」
そう言うと、黒澤は再び手に力を込め、花岡を睨みつける。
「……うっ! わ、わかったから……! もう……絶対……近づかねぇからっ!」
花岡が苦しそうにそう言ったのを確認すると、黒澤は乱暴に手を放した。
花岡は地面に崩れ落ちると、息が整わない内に逃げ去って行った。
想定外の出来事の連続に、誠は情報の整理が追いつかない。
なぜ、黒澤は自分がここに居ると分かったのか。
なぜ、来てくれたのか。
なぜ、名前を……。
「志田、大丈夫か?」
誠がぐるぐると考えていると、いつもの暖かくて優しい声が耳に入ってくる。話し方も呼び方も、もう自分の知っている黒澤に戻ったようだ。
黒澤の声で緊張の糸が切れたのか、踏ん張っていた足に、急激に力が入らなくなる。
「志田!!」
崩れ落ちる誠を、黒澤は素早く抱き止めてくれる。誠は黒澤の腕の中にすっぽりと収まった。
黒澤の腕の中はいつも暖かくて、安心する。
「ごめん……。ちょっと力抜けた……」
「すぐ、救急車呼ぶ」
黒澤は珍しく冷静な判断ができないのか、スマホに番号を打とうとしている。
ってあれ、この感じ、なんか……。
「……ふっ! これなんかデジャヴ!」
誠が家で倒れた時に、すぐに救急車を呼ぼうとしていた黒澤を思い出し、誠は思わず吹き出してしまう。
「おい! 笑い事じゃないっ!」
笑う誠に、黒澤が険しい表情をしながら叫ぶ。
でも、不思議とそんな黒澤を、もう怖いとは感じなかった。
「……ごめんごめん。だけど、今回もそんな大怪我じゃないから」
「なっ……! そんなわけ……」
「でも、さすがに歩くのは、しんどいから肩貸してもらっても良い……?」
自分でも驚くほどすんなりと、誠の口からは黒澤を頼る言葉が出た。
誠はやっと学んだのだ。
頼れる時は頼る、それはお互いにとって必要なことなのだと。
「……乗って」
「えっ」
黒澤はいつも予想外の行動をする。
背中に乗れ、そう言っているらしい。
──さすがにこの年でおんぶされながら道を歩くのは恥ずかしいんだけど……。
だが、こういう時に黒澤に何を言っても通用しないことも誠は学んでいた。
ここは黒澤の大きな背中に身体を任せることにしよう。
そして、いつか、自分も黒澤をおぶってやろう。
背負い背負われ。
そんな関係になれたら良いなと、温かい体温を感じながら誠はぼんやりと思った。
黒澤におぶられ、帰路を辿る。
時間が時間なので、人通りはほぼなく、誠は密かに安堵する。
一方黒澤は、誠をおぶってから一言も発していない。
多分、怒っているのだろう。
でも後悔はしていない。
今日初めて、自分の足で立てた、そんな気がするから。
──まぁ、結局最後は黒澤に助けられたけど……。
「志田」
「え! あ、何!?」
あれこれと考えていた誠は、急に名前を呼ばれたことに分かりやすく動揺してしまう。
やはり、呆れているのだろうか。
怒られるのだろうか。
誠の心臓が緊張で音を立て出す。
黒澤は規則正しく動かしていた足をぴたりと止める。
誠の不安は最高潮へと達する。
「……志田……。よく……よく頑張ったね」
「……え」
絞り出すように黒澤から発せられた言葉に、誠は戸惑った。
頑張ったなんて言われるほど、自分は何もしていない。
黒澤の方がずっと……。
「……あれ……?」
気づくと誠の瞳からは熱いものがあふれ出していた。
急に手足が震えだす。
──本当は怖かった。痛くて辛くて、逃げ出したかった。でも……それでも頑張れたのは……。
誠は思わず、黒澤の身体を強く抱きしめた。
黒澤は何も言わずに、再び歩みを進める。
言葉なんていらない。
広くて暖かい黒澤の背中は、誠に安心感と優しさを与えてくれる。
ずっと冷え切っていた心が温まっていく。
長い長い、夜が明けたような気がした。
