「えと……、これは……」

 まずい、まずいぞ。どうにか誤魔化さないと。
 そう思うが、ここまではっきり殴られた跡を見られてしまっていると、上手い言い訳が思い浮かばない。

「あれ、ちょっとバイト中にぶつかっちゃってさ」

「そんなんで信じると思ってるの? どう、ぶつかったらこんな風になるんだよ。できるんなら説明してみな」

 誠の取ってつけたような言い訳は、予想通り、黒澤には通用しなかった。
 黒澤の瞳も声も今まで以上に冷たい。今の黒澤は正直、怖い。でも、それも自分を心配してのことなのだと思うと、恐怖の中に歓喜も混じる。
 そして、そんな優しい黒澤を、花岡との一件に巻き込みたくないと、誠は再び強く思う。
 いや、でも、それは良い人ぶりたいだけなのかもしれない。
 本当は自分がいじめられていたという事実を知られるのが怖いだけだ。奴らに立ち向かえない、弱い自分を黒澤に知られたくないのである。

「店が忙しくて、バタバタしてたら、机の角にぶつけちゃったんだよ。こんな酷くなってるなんて自分でも気づかなかった」

 自分の感情を整理したからか、先ほどより幾分かは、マシな言い訳が出来たかのように思う。それでも、黒澤の瞳は誠を捕らえたまま解放してくれる気配はない。

「誰にやられたの?」

 そして、核心へと近づこうとする。

「ぶつけたって言ってんじゃん。誰かにやられたなんて、そんなわけないだろ」

「寝不足になるまでバイトして、倒れるまで体調悪いの我慢して、そんな痣作って……。ねぇ、そんなに俺は頼りない?」

 冷たい表情だった黒澤は、今度は寂しげな表情を浮かべる。
 その方が誠には堪えると分かっての事なのだろうか。

「……正直、志田が何か心に抱えてることは、前から察してた。志田が自分から話してくれるまで、待とうって、そう思ってた。でも、もう限界。志田がこんな風になってるのに黙って見過ごすことは出来ない」

「黒澤……」

 真剣な瞳で訴える黒澤を見ていると、胸が締め付けられる。痛くて、苦しくて、でも嬉しい。
 誠の弱さなんて黒澤にはとっくにお見通しだったのだ。もしかすると、いじめられていることだって、察しているのかもしれない。
 それでもなお、自分に幻滅しないでくれている。それどころか、守ろうとしてくれている。
 嬉しさと、不甲斐なさが同時に誠を襲ってくる。
 しかし、誠が抱いた感情はそれだけではない。黒澤みたいに強くなりたい、そう思ったのだ。
 自分にはないと思っていた、勇気が湧き上がってくる。
 自分の弱さを受け入れ、立ち向かっていきたい。守られるだけではなく、守れるような人間になりたい。
 一人でもしっかりと立てるように、黒澤に少しでも恩返し出来るように。

「心配してくれてありがと。いつも黒澤には、俺には珍しいくらい頼ってるよ。でも、これは俺の問題」

「志田……! 俺は」

「黒澤、聞いて。隠してるとか、信用してないとかじゃないんだ。自分で向き合ってみたいんだ。俺はずっと逃げてきたから……。今度こそ、自分の意思で、自分の足で乗り越えたい」

 これは誤魔化しでもなんでもない。本当にそう思った。もう花岡なんて、周りの評価なんて気にならない。
 ただ、黒澤の隣で、例え友達としてでも、胸を張って歩けるような、そんな人間になりたいと強く思ったのである。
 そのためならきっと、恐怖にも、理不尽にも立ち向かって行ける。

「志田……。でも俺は、心配で心配でしょうがないんだ。俺は志田の力になれることが嬉しい。自分のためにも、志田のことを助けたい」

 黒澤はどれほど自分に希望と勇気を与えてくれるのだろう。もうどんなことがあっても、今の言葉、これまでの言葉があれば前を向いて歩いていけるだろう。

「ありがとう。でも今回の件だけは自分で乗り越えたいんだ。だけど、自分だけでどうにかなるとも思ってない。だから、黒澤には愚痴聞いてもらったり、前みたいに一緒にステップ読んだり、ポツと遊んだりしてほしい。もちろん黒澤が良ければだけ……」

「当たり前だろっ! てか、一限の時一緒に行くのも再開! それから、帰れる時は一緒に帰ろう。バイトの後も俺、迎えに行く。何があったかは、志田の意思を尊重して詳しく聞かない。でも心配するのは俺の勝手だから」

「え、いや、さすがにそこまでしなくても……。そんな、小さい子供じゃあるまいし……」

「その条件が飲めないなら、絶対に何があったのか、吐いてもらう」

 黒澤の瞳がまた、誠を厳しく捕らえる。

「わ、わかったよ。でも無理すんなよ……。時間合う時だけで良いから」

「無理すんなよはこっちのセリフだよ……。本当、どこまで心配かければ気が済むんだか」

 黒澤は大きなため息をつきながら、心底呆れたような表情を浮かべる。でも、瞳は少し緩んだような気がした。

「てか、急いで手当てしないと。興奮して話し込んじゃった」

 そう言われて、自分の貧相な腹が未だに顕になっていることに気がつく。なんだか急に恥ずかしくなってきた誠は、急いで捲られていたシャツを戻し、布団をかける。

「こら、志田! そのままで良いわけないだろ! 冷やさないと!」

「いいっ! ここは自分でやる!」

 誠はまるで駄々をこねる子供のように、顔ごと布団に潜り込む。顔が真っ赤なことがバレてしまわないように。
 しかし、元々の力量の差に加えて、熱で上手く力の入らない誠が、黒澤の力に敵うわけも無いのだ。あっという間に、布団を捲られてしまう。

「ほら、興奮すると熱上がっちゃうから。大丈夫だから、湿布だけ貼らせて?」

 誠の熱くなった頬を撫でながら、黒澤は優しい声で言う。誠はそんな黒澤の問いかけを、無言という形で了承する。

「服、捲るね」

 誠の腹の赤黒い痣を見ると、黒澤は再び、険しい表情を浮かべる。しかし、今度は、誠を怖がらせないようにか、すぐに優しい表情になった。

「ちょっと、冷やっとするよ。痛かったら言って」

 黒澤の細長くて綺麗な指が、丁寧に誠の痣に湿布を乗せる。その感覚に、思わず誠の身体はぴくりと跳ねてしまう。

「……っ」

「ごめん、痛かった?」

「……や、ちょっとびっくりしただけ……」

「とりあえず、今日はこれくらいしか出来ないけど、痛み引かないようなら、ちゃんと病院行くんだよ?」

「……うん」

「約束だからね? 何度も言うけど、俺とポツのためにも無理はしないこと」

 なぜだろうか。黒澤の強い視線は誠に有無を言わせない圧力がある。

「分かってる」

「それならよし! とりあえず今日はもう寝な。身体辛いのに、たくさん話させてごめんな。しばらく、俺もここに居るから」

「えっ!? いいよ、そんな……」

「俺がそうしたいの。ほら、もう良いから目閉じて。おやすみ、志田」

 黒澤がまた誠の頭を優しく撫でてくれる。心地良い手の温度とリズムに、誠の意識は次第に遠のいていった。



「……だ、志田」

「……んっ」

 聞き慣れた優しい声が耳に入り、誠は重たい瞼を開けた。カーテンの隙間からは日が差し込んでいる。
 どれほど眠っていたのだろうか。

「起こしてごめんな。昨日なんだかんだで、薬飲んでなかったよな。今なら何か食えそう?」

 身体はまだ熱っているし、頭も重たく靄がかかっているような感じだが、どちらも昨日よりはマシになっているようだ。腹の痛みも、冷やしたおかげか、大分引いている。
 
「……ちょっとなら、食えるかも」

「ほんと! よかった。おかゆとかなら食べれる?」

「うん。食えると思う」

「待ってね、すぐ作るから」

 その言葉に、思わず誠は「え」と、驚きの声をあげてしまう。レトルトかと思いきや、黒澤は、わざわざ作るつもりらしい。

「おかゆくらい作れるって。たしか、志田の家レンチンの米あったよね。一つ使って平気?」

「そ、それはもちろんいいけど。でも別にわざわざいいよ……」

「俺が作るって言ってるんだからいいの。できたら声かけるから、もう少し寝てな」

「うん……。ありがと……」

 おかゆなんて作ってもらったことがあっただろうか。なんだか熱を出してから、いい思いばかりしているような気がする。誠は黒澤の優しさを噛み締めながら、再び目を閉じた。


「……どう?」

 「おかゆくらい作れる」と威張ってた割に、黒澤は随分と不安気に問いかけてくる。

「……おいしい。本当に、すっごい美味しい」

 正直、熱のせいで味はよく分からなかった。でも、この言葉は嘘じゃない。
 黒澤の優しさと暖かさが、誠の冷え切った心と身体に染み渡っていく。今まで食べた物の中で一番美味しいと、本気でそう思った。

「よかった」

 黒澤は安心したような表情を浮かべ、優しく微笑む。

「本当にありがとな」

「いいってば。俺がやりたくてやったんだからさ。ところで、志田。明日は何もないよね? まさかバイトとか入れてないよね?」

 優しい表情から一転、黒澤は再び、刺すような視線で、誠に問いかける。

「……明日は、ないよ」

 今日は土曜日。本当に明日はバイトのシフトは入っていない。誠は基本、平日の夜にシフトを入れている。

「次のバイトはいつ?」

「……か、火曜」

 これは嘘だった。本当は、月曜から金曜までシフトを入れてしまっている。しかし、月曜は多分、花岡に呼び出される。誠は、この日に花岡へ自分の意思を伝えると決意していた。
 もう金は渡さないと。ゲイということをバラしたかったらバラせば良いと、そう伝えるのだ。
 だから、黒澤に迎えに来られるのは困る。

「分かった。終わったら連絡して。迎え行くから」

「……うん」

 黒澤が迎えに来てくれる火曜日。この日までに、必ず終わらせよう。
 弱い自分を終わりにしよう。
 そして、胸を張って、黒澤の隣を歩くのだ。
 誠は再び、強く決意する。

「てか、火曜だし、そのままステップ一緒に読もうよ!」

「……だな!」

「よし! じゃあ、志田はそれまでに、身体をしっかり休めて治すこと。分かった?」

「ふっ……! 分かったよ」

 母親のようなことを言う黒澤が面白くて、誠は思わず笑ってしまう。
 また、黒澤と友達に戻れる。一緒に楽しい時間を過ごせる。そう思うと、嬉しくて、心が暖かくて、幸せだ。
 それなのに、心の奥底では痛くて切ない気持ちが疼いている。
 でも、大丈夫。この感情は、しまっておこう。
 自分でも気づかなくなるくらい深い、深い、深い所に。