水曜日の朝八時、黒澤陽太はすっかり見慣れた扉の前でインターホンを押した。
 共に一限を取っている水曜と金曜は、隣人の志田誠を起こすという使命があるのだ。
 三回目のインターホンを鳴らした頃、やっと眠そうな志田が、瞼を擦りながら扉を開けた。

「おはよう。起きたばっか?」

「……ん。五分で準備するから、ちょい待って」

「慌てなくて平気だよ」

「……ありがと」

 まだ寝巻き姿の志田は瞼をこすりながらも、玄関へと入れてくれる。今日はいつも以上に眠そうだ。
 今日の志田の寝巻きは、高校時代の体育で使っていたと思われる膝上の赤い半ズボンに、伸び切って、胸元がだるんだるんになった白Tだ。 
 志田が何かを取ろうと屈むたびに、桃色の突起が垣間見え、思わずため息がこぼれそうになる。

 ──相変わらず無防備すぎる。先週のことがあって、少しは意識してくれてると思ったんだけど。

 先週の土曜日、志田と初めてデートをした。まぁ、デートと思っていたのは俺だけのようだが。
 昨日は火曜だったが、ステップは休刊だったし、お互い課題に追われていたこともあり、会えなかった。
 つまり、デート後に会うのは今日が初めてだ。そのせいか、心臓が妙にざわつく。
 こんなのは自分らしくない。
 正直、初めは興味本位で志田に近づいたことは否定しない。でも、仲を深めるたび、本気で志田を欲しいと思うようになった。
 なんだろう。志田はとにかく可愛いのだ。
 この可愛さを他の人には知られたくない、独り占めしたいと強く思う。
 だから志田には猛アプローチをしてきた。志田は鈍くてピュアみたいだから、回りくどいことはせず、直接的に好意を伝えている。
 にも関わらず、志田は本気にしてくれる様子がまるでない。
 今日の無防備な様子を見ている限り、それは現在進行形のようだ。
 どうしたもんかと思考をめぐらせていると、ポツが部屋の奥からとことこと歩いてきた。その可愛さに、少し心が落ち着きを取り戻す。

 ──ポツは本当に癒しだな……。まぁ、焦らずゆっくりって感じかな。

 ポツの頭を優しく撫でながら、自分の心を宥める。
 そろそろ着替え終わった頃かと思い、視線を戻すと、持っていた鞄が、手のひらからするりと落ちる。
 視線の先には、Tシャツを右手に持ったまま、上半身裸で動きが停止している志田が居る。薄っぺらくて白い身体は今にも折れそうだ。
 志田は寝起きが人一倍悪い。朝は、いつも動きも頭の回転もすごくゆっくりだ。
 それにしても今日は酷い。着替えくらいはいつも素早く終わらせるのに。

「志田、早く服着て」

 動きが停止していた志田に、少し強い口調で言う。

「……慌てなくて良いって言ったじゃん」

「時間の問題じゃなくて」

 呆れ顔で言うと、志田は眉を顰め、首を傾げる。

「はぁー。もう。目のやり場に困るって言ってんの」

 開ききっていなかった、志田の目が大きく開き、まん丸になる。そしてあっという間に耳まで真っ赤になる。
 本当にこの反応はずるい。可愛すぎて許してしまう。

「は、いや、俺の裸なんて見てもなんもないだろ!」

「好きな子の身体に反応しない男なんて居ると思ってるの?」

「……なっ!?」

「とにかく早く服着て」

 思わずいつもより低いトーンで言うと、志田は困惑しつつも素直に従い、見慣れた無地のTシャツを身につける。

「準備できたなら行こう」

「あ、うん」

 感情を抑え、いつも通りの優しい言い方と笑顔で言うと、志田はわかりやすく安心した表情を浮かべた。
 こんな風に可愛い反応ばっかりするから、虐めたくなってしまうのだ。
 黒澤はなんだかやるせない気持ちになり、自分の髪をわしゃわしゃと掻きながら、部屋を後にした。


 いつものように志田とたわいもない会話を交わしつつ、大学へと向かう。会話のほとんどがポツとステップのことだ。
 志田はすっかりポツのことを溺愛しているようだ。写真を見せながら、「この前ポツが」と楽しそうに報告してくる姿は愛らしい。それでも、ずっと飼うつもりはないという。
 今更、離れることなんてできるのだろうかと心配になる。しかし、志田は一度決めると、意外と頑固で、もっと良い飼い主が居るはずだと言って聞かない。
 志田だって、十分良い飼い主だ。もっと自信を持てばいいのに。
 そう思いつつも、それができないのが志田誠という人間であるとも感じる。
 大学に近づくいていくと、学生と思われる若者がどんどんと増えていく。そして、前方に、何やら見覚えのある男三人組を発見した。
 なんとか記憶の奥から捻り出し、同じサークルの奴らだと思い出した。
 まぁ、名前も覚えてないくらいの仲だ。向こうもこちらには気づいていないようだし、声をかける必要はないだろう。
 志田との会話を続けていると、前方から大きな笑い声が聞こえてくる。

「いや、ほんとそれ俺もずっと思ってた」

「だよな、あいつゲイなことカミングアウトしてるの絶対、女ウケのためだろ」

「な、俺は女の子の気持ちもわかるよ、的な? んなこと言って、絶対下心あるだろ」

「まぁ、むしろなくて本気で男好きなら、それはそれで気持ち悪いけどな」

 一通り言い終わると、スッキリしたのか、三人はまた下品な笑い声をあげる。
 ほんと、どうしようもない奴らだ。そんなんだからモテないってなんでわからないのだろうか。
 こんな陰口は、黒澤に一ミリのダメージも与えない。むしろ陰口でしか、己のストレスを発散することができない奴らには心底同情する。
 もちろん、ずっとこうだったわけではない。少しの陰口を気にし、塞ぎ込む時期だってあった。
 でもそんなことはとうに乗り越えた。そしてそれは自分が恵まれていた証拠だろう。
 自分のセクシュアリティを家族は悩みながらも受け入れてくれた。
 もちろん全員ではないが、ゲイだと知っても変わらず、仲良くしてくれる友人も居る。
 そして、同じ性指向を持ち、相談に乗ってくれる存在が自分には居た。
 ゲイがどのように生きるべきか。そいつは色んな場所に連れて行きながら、教えてくれた。性行為もそいつに教わった。
 まぁ、今は身体の関係はやめたわけだが。
 でも多分、志田は違う。自分の全てを認めてくれる人と、まだ出会えて居ないのだろう。
 詳しいことは聞いていないが、男が怖いと言っていた。暗闇で小さくなり震えていた。
 そして今も、自分が言われたかのように、顔を真っ青にしている。
 そんな志田を見ると、黒澤の心臓は握り締められたかのように、ジワジワと痛む。

「あれ、間違いなく俺のことだね。まぁ、慣れてるし、今更何とも思わないよ」

 俯いている志田に、黒澤は苦笑いを浮かべながら、なるべく優しい声色で言う。

「……うん」

「だからそんな顔しないでよ。みんなから認められなくったて、別に良いんだよ」
 
「……わかってるけど、でも……」

「もー。なんで志田の方が泣きそうになってんだよ」

「……なってない……。でも……俺……お前はみんなから好かれてると思ってた。苦労してないんだろうなって……。だから、なんか申し訳なくて……」

 その言葉に少し驚いた。志田が罪悪感を抱く必要なんて、どう考えてもないだろう。

「……まぁ、俺だって嫌われてる人には嫌われてるよ。でも理解者が多いことは確かだし、別に苦労してるわけでもない。だから志田が罪悪感抱く必要は全くないから」

「……うん」

「ほら、だからそんな落ち込まないで」

「でも、その……。俺だって、と、友達のこと……悪く言われたら嫌だよ」

「友達、ね」

「……ツッコむとこそこかよ」

 志田がやっと少し顔を上げる。その表情は眉間に皺を寄せ、不服そうだが、先程よりは顔色が良くなっている。

「ははっ。うそうそ。心配してくれて純粋に嬉しい。でもほんとに俺、気にしてないから大丈夫だよ」

「……ん。でも……傷つく時は傷ついても良いと思う」

「うん。ありがとね」

「……別に」

「今度からなんかあったら、志田に慰めてもらうね」

「……なっ! お、お前はすぐそういうこと言う!」

「ははっ! ごめんごめん。じゃあ俺こっちだから」

 黒澤は教室に向かいながら、大きなため息をついた。
 志田はなんて綺麗な心を持っているのだろう。誰かを思って傷つくというのは、簡単にできることではない。
 志田の心は純粋で綺麗で、まるで真っ白なキャンバスのようだ。そして、そのキャンバスを汚してしまいたいと思う自分が居る。
 キャンバスは絵を描くためにあるのだ。真っ白のままでは意味がない。
 色々な色を使って、グチャグチャにしてしまいたい。
 こんなに暴力的な感情は初めてだ。
 でも、それ以上に大切にしたいとも思う。
 志田の涙を拭ってあげたいし、震える肩を抱いてあげたい。自分が志田の怖いものを全て拭い去ってあげたい。そして笑って欲しい。
 この感情はなんだろう。
 答えは明確だ。
 これを恋と言わずしてなんと言う。
 こんなに誰かを渡したくないと思ったのは初めてだ。志田を誰にも取られたくない。
 笑わせるのも、泣かせるのも全部自分が良い。
 そうか、これが恋なんだ。これまで恋心だと思っていた感情は違った。
 
 ──志田が俺の初恋の人なんだ。