誠は朝が苦手だ。
 しかし、今朝は違った。アラームと共に起き、そこから10分も経たない内に、顔を洗い、歯を磨き、着替えも済ませた。
 朝は亀のように動きが遅い誠からすると、これは異例のことである。今日は楽しみにしていた劇場版第二弾『ヒーロー大戦』の公開日だから身体が自然と動くのだろう。
 誠はこの日をずっと心待ちにしていたのだ。当然、誠の心は期待と高揚感で舞い上がっている……はずだった。
 誠の心臓は何やら表現し難い、緊張感で締め付けられていた。映画が楽しみすぎて緊張しているのだろうか。
 いや、原因は多分、それだけではない。

【デートみたい】

 黒澤陽太、やつが放ったこの言葉のせいである。
 別に映画を観て、いつもみたいに感想を言う合うだけだ。そんな特別なことじゃない。
 そう自分の心に何度も言い聞かせてみるものの、謎の緊張感と熱りは引いていく気配がなかった。そんな自分の身体を心底煩わしく思う。
 グダグダと考えながら、濡らした髪をドライヤーで乾かしていると約束の時間になっていた。一分も経たない内に、インターホンが鳴る。
 激しく暴れている心臓に手を置き、深呼吸をした後、誠は扉を開けた。
 目の前に立っていた黒澤の格好は、いつものカジュアルな雰囲気とは異なった。
 五分袖の白いTシャツの上には、薄手でサラリとした生地の焦茶のニットベストを重ねている。ゆったりとした上半身のシルエットに対して、下は細身の黒いパンツを合わせ、足元は少し高めの黒のショートブーツを履いている。

 ──え、いやいやいや。モデルかよって……。

 黒澤のスラリとした体型と脚の長さを強調するようなコーディネートに、誠は思わず瞠目してしまう。
 同時に、自分の高校生みたいな格好が恥ずかしくなってくる。誠はインディゴブルーのジーパンに茶色いTシャツを着ている。
 ちなみにズボンは他に、全く同じ種類のブルーと黒のものを持っている。Tシャツは胸元にポケットが付いていたり、付いていなかったりする程度の違いしかないものを、複数色持っている。ファッションに興味のない誠はそれを適当に組み合わせて着ているのだ。
 もちろんそれは今日も例外ではなく、手前にあるジーパンとTシャツを適当に選んだ。靴だって二足しか持っておらず、今日は白地に黒のブランドのマークが入ったシューズを、動きやすさ重視で選んだ。
 そんな自分が黒澤の横に並んだら、もともとの身長差もあるし、兄弟なんかに見えるのではないだろうか。
 自分は高校生、いや、下手したら中学生にでも間違われるかもしれない。

「固まってどうした? なんかついてる?」

 黒澤の困惑した声が、思わずフリーズしてしまっていた誠を引き戻す。

「あ、いや、なんでもない。なんか雰囲気違うから驚いただけ」

「あー。今日はデートだし、いつもよりオシャレしてきた」

「デ、デートって言うな!」

 誠の必死の叫びを黒澤は綺麗な笑顔で交わし、「行こ」と誠の手を掴む。

「ちょ、引っ張るなよ!」

「下までだから」

 上機嫌な黒澤は、誠の手を引き、階段を降りる。力の差は明確で、振り切れないと察した誠は、眉間に皺を寄せながら、マンションの外に出るまでは大人しく従った。   
 しかし、外に出たら容認することはできない。「放せ」と低いトーンで厳しく言う。
 こんなとこ、誰かに見られたら、たまったもんじゃない。あらぬ噂を流されるのはごめんだ。
 自分の性指向が明らかになることは、ホラー映画よりも、お化け屋敷よりも恐ろしい。
 黒澤は「ちぇっ」と不服そうに唇を尖らせながらも、素直に誠の手を放した。
 急速に熱くなった体温を下げるため、ジリジリとした熱い日差しの中で、必死に涼しい夏の風を探した。

 映画館があるのは五つ隣駅の繁華街だ。
 電車に乗り込むと、中は割と混んでいた。つり革と手すりの近くにはどこも人が居り、誠達はドアとドアの間の何もない位置に立った。
 運動神経が絶望的な誠には、これは非常にキツイ状況だ。体幹が弱すぎて、少し電車が揺れるたびに、身体がグラグラと揺れてしまう。
 そして、電車が大きく横に揺れた瞬間、誠の身体はいよいよ耐えきれずに、よろけてしまった。

「志田、大丈夫? ここ掴まってていいよ」

 誠の肩をスマートに支えてくれた黒澤が自分の腕を指差しながら言う。

「え、いや大丈夫。ちょっとバランス崩しただけだし」

「どこがちょっとなんだよ。さっきからずっとフラフラしてるじゃん。見てるこっちが不安だから掴まってて」 

 誠は無言で拒否する。こんな人目があるところでそんなことはできない。少しでも変な目で見られるのは困る。

「大丈夫。誰もそこまで俺らの事なんか見てないよ」

 黒澤はまるで全てを見透かしているかのように、落ち着き払った様子で言う。
 こうなると、気にしすぎている自分の方が恥ずかしい。
 誠はおずおずと、黒澤の腕に手を伸ばした。触れてみると、意外にもしっかりと筋肉があり、ゴツゴツとした男らしい腕だった。その感覚に、身体はいつもの如く、急速に熱を持ち出す。
 黒澤が火傷するのではと心配になるほどの、自分の手の熱を冷ますために、誠は必死に心を宥めようと努めた。
 たった二〇分程度の電車が酷く長く感じた。
 目的の駅に着き、五分程歩いたところで、映画館の前にたどり着いた。商業施設と一緒になっており、茶色とベージュで塗装された、横にも縦にもデカい建物だ。
 東京で映画を見るのは初めてで、誠の胸は大いに高鳴った。
 三階の映画館に着くと、黒澤は慣れた手つきで自動発券機にスマホをかざし、チケットを発券する。発券機の上にある大きなモニターに視線を向けると、ヒーロー大戦の一〇時からの回は満席と表示されている。
 田舎の映画館はいつ行っても席が空いていたので、さすが都会だなと、誠は密かに感心する。そして、予約してくれていた黒澤に心の中で拍手を送った。

「どっちの席がいい?」

 二枚のチケットを目の前に差し出される。内心どっちも変わらんなと思いつつ、真ん中寄りのチケットを取る。

「ありがと。大学生だから、たしか一五〇〇円だよな。ちょっと待って」

「あ、良いよ。俺が誘ったんだし」

「は? 意味わかんない。俺も見たかったんだし、絶対払う」

「じゃあ、後で昼ごはん奢ってよ」

 思わず「え」という間抜けな声が漏れる。映画を見たらすぐに家に帰ると思っていたからである。

「安いとこでいいからそこで奢って」

 そう言われると、しかも映画のチケット代を持ってもらってるとなると、断りにくい。

「……ん」

「ありがとう」

 なんか上手く乗せられたような気がすると思いつつも、売店の方に向かう黒澤に大人しくついて行った。
 飲み物を買ったところで、ちょうど開場の時間になり、いよいよシアターへと足を踏み入れた。
 黒澤は飲み物も、スマートに誠の分を買ってくれた。ただ、「何にする?」と聞かれ、「アイスココア」と言った瞬間、吹き出したことは許さない。
 そんな黒澤は右手に、アイスコーヒーを持っている。もちろんミルクもガムシロも入れずに。
 ブーというブザー音が鳴ると、数分間のありがちな注意事項の動画と予告が流れ出す。そして、制作会社のロゴが表示されると、ついに本編が始まった。
 期待で気持ちが昂る。
 しかし、物語中盤で問題が発生した。
 主人公は友人に裏切られ、鍵の無い、不思議な空間に閉じ込められてしまう。そして、主人公の心情を表現するかのように、外では雨が降り出すという演出がなされていたのだ。
 暗いだけの映画館は別に平気だ。映像があるお陰で真っ暗ではないし。しかし、この描写はまずかった。主人公の絶望を表すため、スクリーンには必要最低限の光しか映っていない。そして極め付けに雨の音。
 誠は自分の震える手を握り締め、必死に焦る心を宥めようとする。しかし、冷や汗が滲み出し、呼吸が少しずつ浅くなっていく。

 ──やばい、一旦抜けよう。

 立ち上がろうとした瞬間、ふと冷えきった左手に温もりを感じた。
 黒澤の暖かい手が、誠の左手を二人の間にある手すりへと誘導する。
 手すりに置かれた誠の左手を、黒澤は自分の右手で優しく覆う。そして、宥めるように、優しくゆっくりと誠の手を一定のリズムで叩く。
 驚き顔を上げると、綺麗な横顔が視界に入る。 
 真っ暗な空間のはずなのに、暖かいオレンジ色の照明が、黒澤にだけ当たっているような錯覚を起こす。
 暖かくて、優しい光。
 もう何度か触れている黒澤の手の感触は、どこか不思議な安心感があり、いつの間にか震えは止まっていた。
 スクリーンに視線を戻すと、主人公は、裏切られた友人のことも救うと決意し、渾身の力で部屋の扉を打ち破った。
 もう震えていない誠の手の上から、黒澤の手が退けられる気配はなかった。誠はなぜかそれが心地よく、映画が終わるまで振り解けなかった。


「うっ……。ほんと良かった」

 途中、邪念が入ったものの、終盤は物語に引き込まれ、誠は結局、号泣していた。

「裏切った仲間を倒すんじゃなくて……救う展開……めっちゃ良かった」

 言葉を詰まらせながらも、誠は溢れんばかりの感動を共有する。

「ね。俺もあそこは泣きそうになった」

「でも泣いてないのかよ……。俺だけカッコ悪い……」

「いやいや、ほんとにうるっとしたよ。泣いてる人いっぱい居たし、カッコ悪くなんてないから。ほら、目擦ったら赤くなっちゃう」

 黒澤は目を擦る誠の手を静止させると、ポケットから出したハンカチで涙を優しく拭いてくれる。

「ちょ、いいって。もう泣かない」

「あ、そう? じゃあご飯食べながらゆっくり語ろっか」 

「ん」

 映画館を抜け、二人は駅前の商店街へと向かった。



「なぁ、ほんとにこれで良いの?」

「なんで? 俺が食べたいって言ったんじゃん」

「そうだけどさ……」

 ハンバーガーを持ちながら誠は困惑した表情を浮かべる。黒澤の要望で、某ファストフード店で昼食を取ることにした。安さが売りの店なので、食べ盛りの学生でもせいぜい、500円が相場といったところだ。

「全然チケット代に足りてないんだけど……」

「もう、ほんと気にしなくていいって。どうしてもハンバーガーの気分だったってだけだよ。お言葉に甘えてダブルバーガーにさせてもらったし」

 そう言いながら、大きな口を開けて、黒澤はハンバーガーに齧り付く。あんな分厚いのを零すことなく、綺麗に食べている。
 最近感じることだが、黒澤はチャラいくせに意外とちゃんとしている。食べ方であったり、箸の持ち方であったり、いつでもハンカチ持っていたり……。

 ──別にだからどうってわけじゃないんだけど。なんかそうゆうのズルいよね。

 自分の思考を誤魔化すように、チーズバーガーを一口齧る。
 誠は、自分の中で黒澤の好感度が上がってきている事に焦っていた。
 もちろん人としての好感度の話だ。
 それでも、信用しすぎたくはない。人間関係は不思議なもので、人を好きになればなるほど、信用すればするほど、脆く崩れやすくなる。
 積み上げれば積み上げるほど、崩れた時の悲しみは大きい。そんなリスクを孕んだ上で、多くの人は恋人や友人を作ってるのかと思うと、すごいなと思う。強いなと思う。

「ごちそうさまでした!」

 その声に視線を戻すと、ハンバーガーもポテトも誠の倍くらいの量があったにも関わらず、黒澤はぺろりと平らげてしまっていた。誠はまだ半分程しか食べてない。

「は、はや! ごめん急いで食べる」

「いやいや、ゆっくりで良いから。その間に感想まとめてるわ」

「うん」

 なぜだか今日はハンバーガーもポテトも喉につっかえ、誠は、いつもより食べるのに苦労した。
 誠が食べ終わると、二人は三〇分程、映画について熱く語り合った。店を出ると、電車に乗り、二人の家の最寄駅へと向かった。
 話の流れで、留守番していたポツにおやつを買ってあげることになり、すっかり常連になったホームセンターでチュールを買い、誠の部屋へと向かう。

「ポツ、ただいま」

 誠が声をかけると、ポツは部屋の奥からタタタタっと駆け寄り、二人の足にスリスリと頭を擦り付け、挨拶をしてくれる。
 誠が「チュールあげといて」と命じると、黒澤はすっかり慣れた足取りで部屋へと入り、ポツにチュールをあげてくれる。
 チュールを食べ終わると、ポツはいつものように机の下で、手足を伸ばし、気持ちよさそうに眠り出した。黒澤も定位置に座る。
 お茶を出し、一息ついていると、

「ゥニャ〜〜」

 ポツが聞いたことのない、新しい鳴き声を発した。

「ん? 何、今の声? ちょっと怒ってる?」

「あ、俺のせいだわ」

 黒澤が苦笑しながら言う。

「何したの?」

「ポツのケツ触ってた」

「……は? 何で?」

「いや、触ってみたら意外と柔らかくてさ。猫のお尻もちゃんとお尻なんだね」
 
 黒澤が終始何を言っているのか分からない。質問の答えになってない。

「……大丈夫? 疲れてんの?」

「んー。疲れてるってか欲求不満なのかも」

 ──……ツッコまない、ツッコまないぞ。これは絶対に無視した方が良いやつだ。

「最近セックスしてないからかな」

「セ、セッ……!?」 

 結局、動揺せずにはいられなかった。いつもこうやって振り回されるんだ。

「セフレと切ったからさ。ほんとずっとしてないんだよ」

「お、俺には関係ない!」

「志田のためだよ。本気度示すため。伝わってない?」

「……なっ……!」

「俺、本気で志田のこと好きだよ。可愛くて意地っ張りで、でも純粋で」

 そう言いながら、黒澤は顔の距離を近づけてくる。誠の頭はもうショート寸前だ。

「まっ! ほ、ほんとに……! ちょっと、待って……!」

 誠の顔は首まで真っ赤になり、瞳にはうっすら涙を浮かべている。

「大丈夫。合意の上じゃないとなんもしない。でも俺が本気ってことだけは信じて」 

「わ、わかったから! 一旦離れて……」

「ごめん。なんか俺デートしたからって舞い上がりすぎてるのかも。今日は帰るね」

 微笑みながらそう言うと、黒澤は立ち上がり、隣の部屋へと帰って行った。
 まずい、まずい。これは絶対にまずい。
 いつまでも冷めることのない熱に困惑する。
 困惑しつつも、もう逃れることができないほど、自分の気持ちが募っていることに気づいていた。
 後戻りできないほど、黒澤に心を持っていかれてしまっていると。
 ちらちらと降った雪が重なり、積雪となるように、少しずつ、好きと言う気持ちが積もっていっているのだ。
 意外と行動も考え方もしっかりとしていること。
 暗闇の中、冷たい手に温もりを与えてくれたこと。太陽のような笑顔。
 そして、先程の真剣な、熱っぽい瞳。
 もう、誠の心は黒澤陽太に、完全に捕らわれてしまっている。
 しかし、それを容易に受け入れられない臆病な自分。
 様々な感情が、複雑に絡まった糸のようにこんがらがって、上手く解くことができない。

「どうしよう……」

 誠の頭の中では、悲鳴のような危険アラートが、今までで一番大きな音で、鳴り響いていた。