「志田、今日、八月一七日は何の日か知ってる?」

「え、いきなり何……」

 誠の家に入るなり、黒澤は変なクイズを出してきた。言われてから、誠は一応カレンダーに視線を向けたが、数字は赤くなっておらず、やはり普通の平日のようだ。

 ──大学も普通にあったし、特別変わったことはなかったけど……。え、もしかして……黒澤の誕生日とか!?

 もしそうだったら大変なことだ。プレゼントなんて何も用意してないし、というか、そもそも二人で過ごすこと自体が大問題だ。
 黒澤が「実は今日は……」と話し出し、誠はごくりと唾を飲み込んだ。

「黒猫感謝の日です!」

「く、黒猫感謝の日……?」

 誠の焦りは杞憂だったようだが、聞いたこともない記念日に、誠は再び困惑した。

「な、なにそれ?」

「黒猫って写真映えしなかったり、不吉ってイメージがあったりで、飼い主が見つかりにくかったり、虐待されたり、捨てられたりすることが未だに多いんだって。だから黒猫感謝の日は、黒猫の可愛さとか魅力をSNSとかで発信したりする日らしいよ」

 誠は思わず、隣で気持ちよさそうに手足を伸ばして寝ているポツを、優しく撫でた。
 黒猫の魅力を広めるために生まれた記念日、というのは素晴らしいと思うし、大切にすべき日であると感じる。しかし同時に、黒猫への理不尽な差別が未だに残っていることに、心を痛めずにはいられなかった。 

 ──こんなに暖かくて、癒しを与えてくれる存在がなんで不吉なんだ。見た目だって、こんなに凛々しくてカッコよくて可愛いのに……なんで……。

 誠は小さく息を吐き、沈みそうな気持ちを、なんとか平面まで持ち上げる。

「そんな記念日あったんだ。全然知らなかった。でも、なんで今日なんだろう」

「アメリカの、とある黒猫と飼い主の話からなんだってさ。可愛がっていた黒猫が亡くなっちゃって、その飼い主も後を追うようにその二ヵ月後に亡くなったらしい。その方の命日が今日、八月一七日みたい」

「そっか……。その人にとって、黒猫は本当に大切で家族みたいな存在だったんだな……」

 何かを愛することは、幸せであり素晴らしいことであると同時に、切なく儚いものだと思う。どんな出会いにも別れは付き物で、いつかは訪れる。そう思うと、愛しい存在を作ることは、恐ろしいことのようにすら感じた。

「うん、そうだね。だから、お互いとても幸せに旅立っていっただろうね。愛している人に看取られるのも幸せなことだし、逆に旅立つ時、誰かが天国で待っていてくれるって思いながら逝けるのも幸せなことだよね。別れはたしかに悲しいことだけど、きっとそれだけじゃない」

 いつになく真剣な表情で紡がれた黒澤の言葉に、誠の心は震えた。同じ話を聞き、別れという同じ事を考えているのに、こんなにも解釈の仕方が異なることに驚いたのである。
 そして、黒澤の解釈は美しく、暖かいと思った。逆に、すぐに悲観的になったり、冷たい考え方をする自分が虚しい存在にも思えた。
 二人の間にしばし、沈黙が流れた。しかし、いつものごとく黒澤が明るい声で沈黙を破る。

「とにかく、俺たちは今日一日ポツを甘やかそう! ポツーー!」

 そう言いながらキスをしようとする黒澤から、ポツは不満げな顔で逃げる。そんな様子を見て、自然と頬が緩んだ。
 黒澤の声や笑顔は、暗闇に差し込む光のようだ。陽太という名前に恥じない存在だなと、誠は近頃、度々そう感じていた。

「てか、黒澤よくそんなこと知ってたな」

 黒澤から逃れるため、誠の膝の上に避難しているポツを撫でながら言う。

「最近、暇さえあれば、猫のこと調べてて、その時知ったんだよ。俺今めっちゃ猫のこと詳しいよ。何でも聞いて!」

「なんだそれ、ポツのこと溺愛してるじゃん」

 「人のこと言えないけど」と付け足し、誠は苦笑する。

「もちろん、ポツのためでもあるけど、志田のためでもあるよ」

「……は? なんで?」

「志田が困った時、何よりも、誰よりも先に俺に聞いて欲しいし、俺が助けたい。ようは、志田に頼りになる存在って思って欲しいわけですよ」

 微笑みながらさらりと言う黒澤の言葉に、誠の身体はじわじわと熱を帯びる。本気でないと分かっていても、最近の黒澤の言葉はストレートすぎて心臓に悪い。しかし、そのことを黒澤に悟られるのも癪で、誠はどうにか雰囲気を変えようと試みる。

「な、なんだよそれ。あ、じゃあいくつかポツの行動で分かんないこと質問していい?」

「なんでもどうぞ」

「最近さ、ポツが窓側の本棚の上に乗っかって、窓の外にいる鳩を見ながら、なんか聞いたこともない声で鳴くんだけど、あれ何?」

「聞いたこともない鳴き声ってどんなやつ?」

「えと、なんかさ、にゃ、にゃにゃにゃって感じで、いつもより少し高いトーンで鳴くんだよね」

「……ふっ。可愛い」

「いや、そうなんだよ、可愛いんだけど、どうゆう感情なのかなって」

「いや、もちろんポツもだけど、今の鳴き真似した志田、めっちゃ可愛い……」 

 そんなからかいにもドクンと大きな音を立てる自分の心臓に嫌気が刺す。
 笑いを必死に堪えながら言う黒澤に、誠は顔を真っ赤にしながら、声を荒げる。

「お、お前! ほんとすぐそういうこと言うのやめろ! ぜ、絶交するぞ!」

 言いながら、絶交なんて小学生みたいなことを言う自分に呆れた。

「ごめん、ごめん。つい」

「お前、ついって言えば許されるって思ってる節あるだろ……」

「そんなことないって。あ、で、そのポツの鳴き声は獲物捕まえたい時の声だと思うよ! 興奮してる時とかに出すやつだと思う。獲物を捕まえたいけど、届かないもどかしい思いとかもあるんだろうな。分かるわ〜」

 そう言いながら、黒澤は誠を見つめてくる。

 ──こ、こいつ! 全く懲りてないな!

「他になんか分かんないことないの?」

 黒澤は何事もなかったかのように話を続ける。なんだかんだいつも黒澤のペースに持って行かれることを悔しく思いながらも、誠は黒澤を睨むだけに留めた。

「じゃあ、あれ、なんかお腹見せながら仰向けでクネクネする時あるんだけど、あれはどうゆう感情?」

「え! 凄いじゃん! それは相手に信頼と友好を示す動作だよ。ポツも志田のこと大好きなんだね」

 誠は思わず笑みが溢れた。
 信頼と友好か。嬉しいな。
 たまらず膝の上のポツの頭をわしゃわしゃと撫でる。上がった口角がしばらく下がりそうにない。

「あと、なんかよく布団とかを手でフミフミしてるんだけど、あれは?」

「それは甘えたい時とかにやるみたいだから、見つけたら撫でてあげな」

「なんか、すごいな。喋らなくても行動とかで結構、感情って分かるもんなんだ」

「そうだね。動物も人間と一緒で沢山の感情を持ってるし、発信してるよね。だからこそ言葉が伝わらなくても、汚い言葉を使ったり、罵ったりすることは絶対に許されない」

「うん……。ほんと、その通りだと思う」

 黒猫感謝の日が作られた理由を思い出し、また少し悲しくなった。

「まぁ、真剣な話はこの辺にしよっか」

「そうだな」

「なんたって今日は火曜日だし、さっそく読みますか!」

「だな!」

 黒澤の呼びかけに笑顔で答え、買ってきていたステップを、しばらく無言で読んだ。大抵、黒澤よりやや後に、誠が読み終わりステップを閉じる。それが合図のように、再び会話が始まる。

「いや、今週もヒーロー大戦、素晴らしかったな。なんか情報量多すぎて整理できない……」

 誠が興奮を抑えつつ呟くと、黒澤もそれに同意する。

「いや、ほんと最近佳境に入ったって感じだよな。アニメもやってるし、やっぱ作品自体の盛り上がりが伝わってくる」

「うん、ほんとそれ」

「あ、そういえば、映画も来週からだよな!」

 そうなのだ。来週からはなんと劇場版第二弾ヒーロー大戦が始まるのだ。一年程前、公開が決定してから誠はずっと楽しみにしていた。ついにもうすぐ観ることができるのかと思うと、胸が昂る。

「ほんっと楽しみ」

「いつ行く?」

「え?」

「え、一緒に観に行くよね?」

 不思議そうにポカンと口を開けている誠を、黒澤もまた不思議そうに見つめている。一瞬静まり返った空間に、ポツの間抜けなあくびの声が響き、やっと頭が回り出す。

 ──は……? なんで一緒に行くのが、決定事項みたいになってんの……?

 誠は焦った。映画には一人で行きたい明確な理由があるからである。ここは、なんとしてでも、二人で行く事態は回避しなければならない。

「い、行かないよ! なに勝手に決めてんだよ」

「え、だって毎週一緒に感想言い合ってるし、普通行く流れでしょ!」

「いや、俺は絶対一人で行く!」

「なんで!? 終わった後、感想言い合いたくないの?」

「いや、それはもちろん……」

 もちろん感動をすぐ共有したい気持ちはある。しかし、それでも、誠は一人で行きたいのだ。

「じゃあ、なんで……? なんか特別な理由でもあるの?」

「いや、特別っていうか……。恥ずかしいだけというか……」

「恥ずかしいってどうゆうこと? 俺と行くのがってこと!?」

 最後は消え入りそうな声で言ったが、聞こえてしまっているようだ。しかも壮大な勘違いをしている。
 誤解を解くには正直に言うしかなさそうだ……。

「いや、あのさ、俺多分、泣いちゃうから……見られたくないと言いますか……」

 黒澤は目を丸くしている。 

 ──だから言いたくなかったのに!

 誠は劇場版第一弾を見た時、ストーリーはもちろん、大音量、大画面で大好きなキャラクター達が動いていることに感極まり、号泣してしまった。
 そして第二弾のあらすじを見るに、今回も絶対に泣く自信があるのだ。なんていらない自信だろう。
 黙っている黒澤に再び視線を向けると、なぜかため息をつきながら、頭を抱えている。
 やっぱり引いているのだろうか。不安の波が身体に広がり始めた時、「はぁ……」と黒澤のため息が聞こえた。
 波がさらに大きくなっていく。

「なんでそんな可愛いの。ほんと勘弁して」

 黒澤は、鋭い瞳で誠を捕らえながら、心の底から感情を吐露するように呟いた。
 誠の体温は一気に上昇していく。鏡を見なくても、自分が耳まで真っ赤なことが分かる。

「お、男に可愛いは褒め言葉じゃないからな!」

 顔を真っ赤にしながら言っても、説得力はないだろう。それでも、せめてもの抵抗で必死に声を荒げた。

「志田と居ると口が勝手に動いちゃうんだよ……。てか絶対一緒に観に行くからね。俺も第一弾で感動したし、泣きそうになったし。別に変なことじゃないんだから。二人で感動共有しようよ」

 先ほどの鋭い視線から打って変わって、「ね?」と子犬のような瞳で、首を傾げながら問いかけてくる黒澤は確信犯である。その表情に弱い自分も本当にどうかしている。

「俺が泣いても、絶対笑うなよ……」

「そんなの当たり前」

 黒澤の即答に、誠は面食らう。

「公開初日に行くでしょ?」

「当たり前」

 今度は誠が思わず、即答する。そんなくだらないやりとりに、二人は笑いあった。

「じゃあ、公開初日の最初の回、予約しとく」

「うん。ありがとう」

 結局黒澤にほだされている自分に呆れつつも、正直ワクワクしていた。友達と映画を見に行くなんて初めてだ。
 しかし、黒澤が誠の部屋を出て行く時、残した言葉によって、その感情は形を変えることになる。

「今まで買い物行ったりとか、志田の家で遊ぶくらいしかしてなかったから、映画ってなんか楽しみだね。デートみたい」

 靴を履きながら、黒澤はそう呟き、「じゃ、また」と言って隣の部屋へと帰っていった。
 黒澤のその言葉は、誠から遠足前のようなワクワク感を奪い、代わりに心臓を締め付けるような緊張感と、冷めることのない激しい熱を与えていった。