そこからの展開は早かった。五十嵐が連絡した数分後には「キツネの庭」の店長から返信があったのだ。「なるべく早めに来てほしい、今日でもいい」とのことだったので、俺は夕方には面接に向かった。
 店は大学から歩いて二十分ほどの、都営団地の広場の一画にあった。広場で遊ぶ子どもたちの声や店内のレトロな内装は、どこか懐かしさを感じさせる。写真の印象よりはずっと親しみやすい雰囲気だったから、正直ちょっとホッとした。
「あー助かったわあ、ほんとに急に辞められて困ってたの。で、瀬田くんはいつから入れる? あ、学生さんだし学業優先で大丈夫だけど」
 四十半ばくらいの女性の店長は、俺の履歴書をロクに見もせず言った。あっさり採用されて面食らったものの、面接の合間にコーヒーを淹れたりレジに立ったりする店長を見て、本当に人手が足りていないんだろうなと納得した。
 大学の空きコマにシフトを入れ、週三回働くことになった。先輩バイトや店長に、接客のコツやコーヒーの淹れ方などをていねいに教えてもらう。お世辞かもしれないけど「覚えが早いね」と褒められて嬉しかった。
 仕事を少しずつ覚えて、一人でできることが増えていって、時にはミスをして落ち込む。そんな日々は新鮮で、純粋に楽しかった。少し前までは家と大学の往復で一日が終わっていたのがうそみたいだ。
 そうして新しいバイトを始めてから一週間ほど経った、七月初めの水曜日。キツネの庭のランチタイムも終わり、無人の店内に平和な空気が漂っていた午後二時のことだった。
 カラン、とドアベルが鳴る。テーブルの紙ナプキンを補充していた俺は顔を上げ、すっかり慣れた営業スマイルを浮かべた。
「いらっしゃいま……」
 出入り口に立つ背の高い影を認めたとたん、定番のあいさつは途中で消えてしまった。接客業にあるまじきミスだけど仕方ない。
「あ、暁斗!?」
「おー、ほんとにここでバイトしてるんだ」
 暁斗はひらひらと手を振る。バケットハットとマスクのせいで顔はほとんど見えない。だけど、いたずらっ子みたいに笑ってるんだろうなと声でわかった。
「なんで知ってんの!? え、仕事行かなくて大丈夫!? あ、てか久しぶり」
 混乱のあまり、聞きたいことが全部口から出てしまう。ここのところ暁斗は必修授業にちゃんと出席できておらず、欠席と早退が続いている。必然的に必修後のメイクの時間もご無沙汰になっていて、会うのは実に二週間ぶりだった。『仕事が忙しくなりそうで、ごめん』と連絡が来ていたから、心配はしていなかったけれど。
「久しぶり。仕事は大丈夫だけど、もうすぐ行かなきゃならないんだ。あ、バイトしてることはたまたま航大から聞いて」
 矢継ぎ早に放たれた俺の疑問に、マスクを外しながら暁斗はていねいに答える。
「……てか、いつのまに航大たちと仲良くなったん? 瀬田にバイト紹介したんだけど、ってサラッと言われてさ、え、夕也? 聞き間違いか? ってなったわ」
「……へ? あ、月曜の演習が一緒でさ。必修はもうグループできあがってる感あるし、ちょっと話せないけど。演習ではけっこう話すようになった」
 マスクを外すとオーラがすごい。お客さんがいなくてよかった、絶対騒ぎになってただろうから……なんて考えていたせいで、反応が少し遅れてしまった。
 暁斗は「ああ、そうなんだ」とつぶやいて目を泳がせる。
 ――なんか、珍しくそわそわしてるな。
 そう思っていたら、「えーっと、さ」と暁斗がまた口を開いた。
「そこまで航大と仲良くなったのって、なんで? いや、単に気になるだけなんだけど。意外だったからさ、俺の中では」
「なんでって……メイクして行ったら、夏目と五十嵐に声かけられただけだよ。で、メイクって金かかるから金欠で、って話の流れから、バイト紹介できるって言ってもらって」
「……あ、なるほど。わかる、金かかるよな」
 とたんに、暁斗はパッと明るい顔になった。メイクのことになると、わかりやすく表情が変わる。この感じ、なんだか久しぶりだなあ。そう思うと、自然と顔がほころんだ。
「瀬田くん、お友達?」
 キッチンの奥にいた店長が顔を出す。と思う間もなく、「うえッ!」と叫んで店長は飛び上がった。
「ちょっと店長、どうしたんですか?」
「ちょ、そ、その人知ってる! なんだっけ、ラブなんちゃらの……」
 あわあわと口を開け閉めする店長に、暁斗はにっこり笑う。メイクの話をしている時とはまた違う、輝かしいアイドルの笑顔だった。
「こんにちは。『Love Sick』の三橋暁斗です。夕也とは大学の友達で」
「あ、ああそうだラブシのみいくんだわ! あの、娘がファンでして……!」
「え、そうなんだ。嬉しいです。ただあの、今は完全オフなので……申し訳ありませんが、僕が来たことはご内密にお願いします」
「ええ、ええ、もちろん。あの、サインだけお願いしても……?」
 サインだけでなくちゃっかり握手もしてもらった店長は、「ごゆっくり」と笑ってキッチンに引っこんでいった。暁斗はそれをアイドル笑顔で見送ってから、俺に視線を移す。
「夕也って、もう何か作れんの?」
 暁斗の完璧なアイドル所作に圧倒されていた俺は、その声ではっと我に返る。
「ま、まだブレンドコーヒーだけ」
「じゃ、それ注文したい」
「え、ホットだけどいいの?」
 今日は梅雨にしては珍しい快晴だ。こんな日に頼むのはアイス一択だと思ったけど、暁斗は「いいのいいの」と気にした様子もない。
 仕方なくキッチンに立って、教わったばかりのやり方で慎重にブレンドを淹れる。仕込みをしていた店長が「瀬田くん、それ終わったら上がっていいよ」と声をかけてきた。
「いいんですか? 二時半までじゃ……」
「今日暇そうだし、大丈夫。みいくんと一緒に帰っちゃいな。それにしても、すごい人と友達なのねえ。他のバイトの子いなくてよかったわー、いたら大騒ぎだったと思うし」
 ――暁斗って本当に有名なんだな。
 湯を吸って膨れたコーヒーの粉に目を落として、そんなことを今さら思った。わかってはいたけど、正直忘れかけてたな、とも。七月を迎えた大学では、一年生も暁斗の存在に慣れてきたのかあまり騒がなくなってきたし、教室に見物人が押し寄せることも少なくなってきたから。
 有名なアイドルと友達なんだな、俺。そう思ったら、ちょっと変な気持ちになってきた。なんていうか、なんで俺なんだろ、って。
 暁斗はメイクが好きで、俺の傷跡を隠すメイクが研究したくて……で、そこから個人的にも仲良くなりたいって思ってくれたんだろうけど。その理由がわからない。
 ――本当に今さらだ、こんなことに気づくなんて。
 だけど友達になるのって、大した理由はいらないものなのかもしれない。なにせ長いこと友達がいなかったものだから、俺にはそのへんがよくわからない。
 そんなことを考えているうちに抽出時間が過ぎてしまって、完成したブレンドはやや濃いめになってしまった。
「にがっ」
 だから、カップに口をつけた暁斗がそう言った時、俺は素直に「ごめん」と謝った。
「いや、大丈夫。俺がそこまでコーヒー慣れてないってだけだから」
「ええ、なんで頼んだんだよ……」
 あきれつつ、暁斗のテーブルの向かいに座る。店長が作ってくれたまかないのカレーに「いただきます」と手を合わせた。キツネの庭の人気メニューで、スパイスが効いているけれど不思議とクセがなくておいしい。
 カレーをぱくつく俺の前で、暁斗はもう一口ブレンドをすすって、
「どうせなら、夕也が淹れたやつ飲んでみたかったから」
 と照れくさそうに笑った。バケットハットの影の中なのに、その笑顔は太陽を背負ったようにまぶしく感じる。
 ――やっぱり不思議だ。こんなキラキラして優しい、リアル王子みたいな男子と友達だなんて。
 そんなことを考えていたら、二人組のお客さんが入ってきた。チラッとそちらを見てマスクを引き上げた暁斗は、
「それにしても、夕也がカフェでバイトって意外」
 とつぶやく。しみじみした言い方に、俺は「だよなあ」とつい笑ってしまう。
「俺も未だに信じられないよ。接客なんて絶対向いてないって思ってたし。でもやってみたら意外に楽しくて」
 お客さんと関わることも、コーヒーを淹れたりサンドイッチを作ったりするのもけっこう楽しい。だけどきっと、以前の俺だったらそんなふうに楽しむことなんてできなかったと思う。
 傷跡を気にして、ひどいことを言われるんじゃないかってビクビクして。笑顔でお客さんに接したり、店長や先輩たちと雑談しながらキッチンに立ったりするなんて、夢のまた夢だっただろう。
「……全部、暁斗のおかげだ」
 心にとどめておくつもりだった言葉がポロッとこぼれてしまった。あ、と思う頃には、暁斗がきょとんとした様子で俺を見ていた。
「俺のおかげ? 何が?」
「暁斗にメイク教えてもらえなかったら、自信もないままで……誰かと関わるバイトしようなんて、一生思うことなかっただろうなって。だから、本当に暁斗はすごい。俺の人生、変えたんだから」
 照れくさいけど、本心だったから。一度口にしたらもう止まらなかった。
 暁斗は一瞬目を見開いて、すぐにふっと目尻を下げる。笑ったんだなってわかった。
「夕也って、ほんとにまっすぐでいいな」
「……褒めてる、それ?」
「褒めてるよ。そうやって、まっすぐでうそのない言葉を言える人って少ないから」
 暁斗の声は静かな店の中にふっと浮いて、思いのほか強く俺に届く。ストレートに褒められることなんてそうないから、なんだか耳が熱くなってきた。
「……夕也のそういうとこが、俺は――」
 マスクの下で、暁斗が続けて何か言いかけた時だった。
「あ、あのー……」
 遠慮がちな声に、俺たちは同時にそちらを見た。さっき入ってきた二人組のお客さんのうち一人が、もじもじしながら俺たちのテーブルのそばに立っている。メガネをかけた同い年くらいの女子だった。
 ――ああ、暁斗のファンか。
 そう判断するのと、彼女が口を開くのとが同時だった。
「あの、ここの店員さんですよね? 先週の金曜もいらっしゃった……」
「はい、そうですけど……」
 ――あれ、暁斗目当てじゃない? 
 内心首をかしげた瞬間、
「あの、この間はありがとうございました!」
 と、メガネ女子が勢いよく俺に頭を下げた。「え?」とたじろぐ俺に、彼女はバッと顔を上げて続ける。
「先週の金曜、私コーヒーカップ落としちゃって。その時掃除してくれたのが店員さんだったと思うんですけど、覚えてませんか?」
「……あー、あの時の」
 先週の金曜、ランチタイムで確かにそういうことがあった。割れたカップを片づけて、床のコーヒーを拭いて、周りのお客さんの荷物に被害がないか確認して……と俺が作業をする間、落としたお客さんはずっと平謝りしていて、そんなに謝らなくてもいいのに、と思ったのを覚えている。あの時のお客さんだったのか。
「店員さん、嫌な顔一つせずに片づけてくれて。それだけじゃなくて、『お客様に怪我がなくてよかったです』とまで言ってくれて……あの、本当に、う、嬉しかったです……!」
 絞り出すように、メガネ女子は言った。胸の前で組んだ手が震えている。
 それで俺は、彼女がすごく勇気を出して話しかけてくれたんだなって気づいた。一言、お礼の言葉を伝えるために。
 ――こんなことってあるんだな。
 そう思ったら、嬉しくて自然と笑顔が浮かんだ。
「こうしてお礼を伝えてもらえて、こちらこそ嬉しいです。ありがとうございます」
 目を見て伝えると、メガネの奥の目がカッと見開かれた。一瞬で赤くなった顔に「だ、大丈夫ですか?」と思わず声をかけてしまったけれど、彼女は「ひゃい……」と不明瞭な答えを残してふらふら去って行く。……大丈夫か、本当に。
 メガネ女子が自分の席に戻り、待っていた連れの女子にねぎらうように肩をたたかれた頃、黙って見守っていた暁斗が口を開いた。
「すごい、さっそくモテてるな。ま、イケメン店員に神対応されたらああなるか」
 からかうような口調だったから、俺は「違うって!」と言いながら暁斗のほうを見た。
 ただのお礼だし、モテとかじゃない。お前にイケメンとか言われたくない。そもそも当たり前の対応をしただけだから、神対応だなんておこがましい――そういうことを言おうと思っていたのだけど。
 暁斗の顔を見たら、それらの言葉は風に吹かれるみたいにしてふっと消えてしまった。
「航大たちとも仲いいし。……なんていうか、夕也ってもうすっかり人気者だな」
 そう言う暁斗の目は笑っている。だけど、どういうわけか少し寂しそうにも見えた。所在なさげに揺れる目は、まるで迷子の子どもみたいだ。
 ――なんでそんな顔するんだろう。
 戸惑いが胸の内にじわりと広がる。空気を変えたくなって、俺は「そういえば」とつとめて明るく言った。
「次にミーティングルーム予約するの、いつがいいかな。でも夏休み入ったら使えなくなるし、次は別の場所にしてもいいかも」
 暁斗は一つまばたきをしてから、「あ、えっと」と珍しく歯切れの悪い様子で言った。
「……あのさ、俺としては、もうメイクの時間はなくてもっていうか」
「え?」
 思いがけない言葉に、一瞬何も考えられなくなった。
 ――暁斗は、もう俺と会わなくていいと思ってる?
 固まった俺をよそに、暁斗はすっかり冷めたコーヒーに目を落として続ける。
「や、だって夕也もうメイク上手だし。俺が教えられること、もうないかなって」
「あ、そっか……そうだよな」
 そう言われてしまうと、納得するしかなかった。暁斗にメイクを教えてもらう、という名目で、俺たちは毎週一緒に過ごしていたのだから。俺が一人でメイクをできるようになったのなら、あの時間はもう終わりだ。
 だけど、まだ終わらせたくないって思ってしまう。メイクをしながら交わす他愛のない話も、メイクのコツや新しい化粧品の話も、すごく楽しかったから。
 暁斗も、すごく楽しそうにしてたから、もしかしたらあの時間がずっと続くんじゃないかって思っていたけど。
 ――暁斗は、同じ気持ちじゃなかった?
 ふとよぎった可能性は、俺をひどく寄る辺ない気持ちにさせる。何も言えないでいたら、コーヒーに視線を固定したまま暁斗が口を開いた。
「だから、さ。……次はあの、普通にどっか行ったり……メシとか……」
「え?」
 マスク越しだからか、声がうまく聞き取れない。暁斗がバッと顔を上げて、「だから!」とやや大きな声で言った時だった。
 ブーブーブー、と激しいバイブレーションの音が、静かな店内に響き渡る。暁斗ははっと目を見開いて、パンツのポケットからスマホを取り出した。
「……もうちょっといられる予定だったんだけど、ごめん」
「いやいや全然。気にすんな」
 首を振る俺の前で、暁斗はコーヒーを飲み干す。「にがっ」と顔をしかめるのがおかしくて笑うと、暁斗もつられたように目を笑みの形にした。
「コーヒーおいしかった。ごちそうさまでした」
「いえいえ、仕事がんばって」
 あわただしく席を立った暁斗は、出入り口の前で「じゃあな」と俺に手を振った。いつもどおりのやりとりに、さっきまでの不安で寄る辺ない気持ちが消えていく――と思ったのだけど。
「はい……すみません、今外です。……あー、申し訳ないです。すぐ行きます」
 ドアが閉まる直前、聞こえたその応対にはっとした。
 初めて聞く、ピシッと張ったような暁斗の声。大人びているというか、仕事をしている人間のよそゆきの声という感じだった。
 CDデビューはしていないけれど人気のアイドルで、たくさんテレビにも出ていて、店長だって知っている。それが三橋暁斗という人間だと、とっくにわかっていたはずなのに。
 今までの俺は、それがどういうことか本当の意味では理解していなかったんだと気づいた。
 暁斗は社会に出て、たくさんの人たちと働いている。俺みたいに、授業とバイト以外にやることがないし、友達も全然いない人間とは違う。
 ――あれ、もしかして俺、暁斗の貴重な自由時間を奪っているのでは?
 ふっと浮かんだその考えに、頭が一瞬で冷えた。……奪っているだけじゃなく、負担になっているとしたら? とも。
 忙しい時間の合間に、暁斗はあれこれ化粧品を買って、俺の傷を隠すメイクを考えてくれた。「好きでやってるから」という言葉を信じて、俺はそれに頼りきりになっていなかったか?
 だから、暁斗はそれが嫌になったのかもしれない。それで、メイクの時間は終わりだって言ったんだとしたら、納得がいく。
 ――だって、暁斗に俺は何も返せていないじゃないか。
 気づいたとたん、首の後ろのあたりがうすら寒くなった。うつむくと、すっかり冷めた食べかけのカレーが目に入る。俺はしばらく、綺麗な絵皿に残されたカレーから目が離せずにいた。