新しく顔用の化粧品も買い揃えると、財布の中身が一気に寂しいことになった。けれど心は抑えがたい期待でふくらんでいて。楽しみでわくわくするという気持ちを、久しぶりに思い出した。
 その日から俺は、額の傷隠しだけでなくベースメイクの練習も始めた。暁斗の教え方がよかったのか、それとも俺がメイクに慣れてきたのか、見られるメイクになるまでそう時間はかからなかった。
 木曜には暁斗に手ほどきをしてもらいながら、自分で一からメイクをしてみた。鏡に映った俺を見て、暁斗は笑った。
「上達が速いな、夕也は。それにメイクすると、やっぱ表情がよくなる」
 そうやって褒めてもらえたのが嬉しくて、家でも練習を重ねた。洗面所を独占してメイクの練習に励む俺に、真緒や母さんは思ったより寛容だった。
「え、お兄ちゃんメイクしてんの? いいじゃん」
「あら、夕也いつもよりかっこいいじゃない」
 といった調子で、怒るどころか、ちょくちょくアドバイスまでしてくれる。その一環で、「デコ出すの抵抗あるなら、せめて前髪切ったら? お兄ちゃん、せっかく目デカいんだから」「そうよ、母の遺伝子に感謝しなさいよ」と二人ともうるさかったから、観念していつも行っている床屋で前髪を切ってもらった。額を出すのはまだ怖いけど、前髪を短くするだけならまだ耐えられる。
「夕也くん、なんだか男前度が上がったじゃない」
 引っ越してきた頃からお世話になっている理容師さんにまで言われて、ちょっと照れくさい。だけど実際、鏡に映った俺の顔は、前髪で目まで隠れていた頃よりはるかにマシな印象になっていた。
 前髪が薄く短くなったぶん、額の傷は髪では隠せなくなった。早くメイクを上達させなければと、俺は真緒や母さんのアドバイスも取り入れつつ練習を続けた。

「……あのー、ここって批評実践の教室で合ってる……っすか?」
 おそるおそる、といったふうに尋ねられたのは、月曜の三限。演習授業の教室でのことだった。教室には俺と、問いかけを発した学生しかまだいない。
 緊張をはらんだタレ目と、綺麗な金髪を見て思い出した。必修のクラスメイトで、確か暁斗とつるんでいるキラキラ男子の一人だ。映画の考察を批評し合うこの演習は、必修のクラスメイトたちも何人か履修がかぶっているのだった。
「合ってるけど」
 俺の答えに、ドアを開けたまま固まっていた金髪くん(仮)は「だ、だよねえ」と笑った。タレ目が、ほっとしたように細くなる。
「すんません、見ない顔だったから教室間違えたかと思っちゃってー。もぐりの人?」
「いや、瀬田です俺。必修Bの」
「……え? 去年ベケットの発表した瀬田?」
「そう」
 金髪くんは「ええええ!」と叫んでのけぞった。あまりの音量に、ビクッと肩が跳ねてしまう。
「うっそだろ、瀬田!? どういうこと? 前髪切ったらこれって漫画かよー!」
「うるせーぞ夏目、なんだよ」
 金髪くんの後ろから、派手な柄シャツを着た男子が現れる。暁斗とつるんでいるキラキラ男子その二だった。そういえばこの人もこの演習いたっけ、と思う俺の前で、夏目と呼ばれた金髪くんが吠える。
航大(こうだい)、いいところに! これ誰かわかる?」
「人をこれって言うな」
 あきれたように言って、航大と呼ばれた柄シャツ男子が俺を見た。初めて近くで見たけれど、暁斗とはまた違ったタイプのイケメンだ。そういえば一年生の頃、韓国の有名なアイドルに似てるとか騒がれてた気がする。
「……おお、瀬田か。驚いた。前髪ってこんなに印象変わるんだな」
「いや冷静かよ! すごくない? ダイヤの原石どころじゃないって!」
「ちょっと黙れ、夏目(なつめ)。瀬田めちゃくちゃビビってるから。あ、俺必修のクラスメイトだけどわかるか? 五十嵐航大(いがらしこうだい)
 後半は俺に向けて、柄シャツ男子――五十嵐は言った。俺がうなずくと、「ほんと印象違うな」と笑って前の席に座る。
 金髪くん――夏目もそれにならって座り、俺の顔を正面からまじまじと見て言った。
「もしかしてちょっとメイクもしてるー?」
 ドキッとした。今日は暁斗に教わったメイクを、額と顔に施していた。家を出る前に母さんに見てもらったし、学校に着いてからも鏡で確認したから、変なところはないと思うのだけど。
「……変かな」
 うるさく響く鼓動を必死になだめて、そう尋ねた。俺の緊張をよそに、夏目はきょとんとした様子で「え、どこが?」と言う。
「あ、崩れてないかってこと? 平気平気、テカってもないしー」
 夏目は笑って、「てか暑くねー? エアコンつけていい?」と席を立った。なんでメイクしてんの? って聞かれるんじゃないかと身構えていた俺はちょっと拍子抜けした。けれど、男子のメイクってもう当たり前のことなんだなと思ったら気が楽にもなった。
「瀬田、ベースなに使ってる? めっちゃ仕上がり綺麗だな」
 五十嵐が穏やかに尋ねる。つるんとした肌はほどよく赤みが差していて綺麗だ。この人もメイクをしてるのかも、と思うと親近感がわいて、俺は暁斗に教えてもらった下地とファンデをスマホで調べて五十嵐に見せる。
「これなんだけど」
「へー、下地はよく見るけど、ファンデのほう初めて見たな。……てかこれ、両方揃えると高くないか?」
「うん、マジで高い」
 的を射た言葉だったから、即座に肯定してしまった。「めっちゃ感情乗ってんな」と五十嵐が笑うのと、「なになに?」と夏目が戻ってくるのとが同時だった。
「いや、化粧品って高いよなって話。今月金欠だけど、俺もそろそろ下地買わないとな」
「それなー、化粧水とかもこだわりだしたらどんどん高くなる。でももう、すっぴんで外歩くのも抵抗あるからなー」
 しみじみと二人が言うので、俺もついうんうんとうなずいた。暁斗に教わった化粧品やスキンケア用品を一式揃えたら一気に貯金が減って、メイクってこんなに金がかかるんだな、と実感していたところだったから。
「金かかるよなあ、本当に」
 思わずつぶやくと、夏目が「瀬田はバイトしてないのー?」と尋ねてきた。
「買いたいものがある時だけ、単発バイトやるくらい」
「マジか、それ俺だったら絶対破産するわー。無欲なんだな、瀬田……」
「でも、毎回違う仕事やるのも大変だなって思ってたし、次は長期のバイトがいいな」
「あ、それなら。紹介できるバイトあるんだけど、興味ないか?」
 と、五十嵐が明るい声を上げた。スマホを操作して、画面を見せてくる。
 そこには写真で交流するSNSのアカウントが映っていた。アカウント名は「キツネの庭」で、北欧ブランドの食器やおいしそうなケーキ、湯気の立つコーヒーといった、おしゃれな写真が並んでいる。
 プロフィールには営業時間が書かれていた。カフェのアカウントだろうか。
「これ、母親の友達の店なんだけど、バイトが急に辞めちゃったらしくて。人手がほしいわーってずっと言ってんだよ、どう? 大学から歩いて行ける場所だし、空きコマで入りやすいと思う」
 おしゃれで雰囲気のいい写真たちをながめながら、しばらく迷った。
 少し前の俺だったら、こんなところでバイトなんて無理だと思っていただろう。暗くて地味な俺なんかが、こんなおしゃれな店で働いたら笑われる、って決めつけて。
 今だって、すっごいおしゃれだなあって気後れする気持ちは正直ある。だけど、興味がないかと聞かれれば、決してそんなことはない。
 何より、今はとにかく金欠から脱したかった。これからもメイクを続けるために。
「ちょっと興味ある、かも」
 ポツリと言うと、五十嵐は「お、じゃあ話しておく」とスマホをいじり始めた。
 本当に大丈夫かな、という不安が胸をよぎったけれど。それ以上に、期待や楽しみが胸の奥で息づいている。
 ドキドキと鳴る胸を押さえながら、暁斗に初めてメイクをしてもらった時も同じような気持ちになったなと、俺は思い出していた。