できるようになるまで教える、という暁斗の言葉はうそではなかった。
 俺は次の日には化粧品を買い揃え、さっそくメイクの練習を始めた。暁斗が送ってくれた手順のメモを見ながら、白かったりベージュだったり薄いピンクだったり、さまざまな液体や粉を傷跡に乗せていく……のだが、これが本当に難しい。
 量を見誤る、乗せる順番を間違える、粉をはたきすぎて白く浮く……そういう失敗をするたび、俺はすがる気持ちで暁斗に連絡した。忙しいだろうに、暁斗はわりとすぐに返事をくれた。
『下地は額全体に伸ばすほうがいいかも』
『順番間違えた時はメイク落としで全部落として、一からやり直す! やり直す前に保湿忘れずにな』
『そのパウダーは本当にちょっとだけ、さっとなでるみたいに乗せるイメージ』
 どんな失敗をしても、暁斗は根気よくアドバイスをくれる。ていねいな説明を読んでいると、無機質なはずの文字から暁斗の優しさが伝わってくるようで嬉しかった。
 忙しい暁斗がここまでつき合ってくれるんだからがんばろうと、俺は気合いを入れ直し、次の日も、その次の日もメイクの練習に励んだ。
 練習を重ねるうちに、少しずつ化粧品の扱いに慣れていくのがわかる。慣れてくると、下地やファンデーションの適量もなんとなく見えてきて。さらに、適量をいっぺんに塗るのではなく少しずつ肌になじませる、ということを意識してみたら、仕上がりが一気に自然になって驚いた。練習を初めて四日めの、土曜日の朝のことだ。
 傷が隠れた額を鏡で見ると、やっぱりこのうえなく嬉しい。化粧品の魅力やメイクをする楽しみが、俺にもわかってきた気がする。
 洗面所を片づけていたら、スマホが震えた。パッと画面が明るくなって、暁斗からのメッセージが来たことを知らせる。
『起きてる? 雨やばいのにスニーカーで出てきちゃった』
 爪先を濡らす雨水にしょんぼりする暁斗を思い浮かべたら、申し訳ないけど顔がほころんだ。
 こういうメイク以外のことも、暁斗はたまに送ってくるようになった。『課題終わらん、やばい』とか『昨日変な夢見た』とか、内容は本当に他愛もないものばかりだ。だけど暁斗が忙しい時間の隙間を縫うようにして、ささいなできごとを俺に共有しようと思ってくれたことが嬉しかった。
 だから俺も、真緒から教わったスタンプを活用したり(真緒には「もしや彼女できた!?」と騒がれたが無視した)、通学中に聞くおすすめの曲を送ったりする。
 そうやってメッセージを送るたびに、ああ、本当に友達になったんだなって思う。春のひなたを歩いた時のように、じんわりとあたたかく優しい気持ちで。
 そんなことを考えていたら、新しいメッセージがぽこんと増えた。
『そういや、火曜ってミーティングルームでOK?』
 俺は「大丈夫です」としゃべる猫のスタンプを送り、『雨、気をつけて』と付け足してスマホを消す。洗面所の片づけを終え、薄暗い廊下に出たところでまたスマホの画面が輝いた。即座にアプリを開き、メッセージを確認する。
『じゃあ、いつもの部屋で』
『靴下終わったから新しいの買った かわいくね?』
 ゆるいポメラニアン柄の靴下の写真に、俺は噴き出す。「かわいい」としゃべる犬のスタンプを送った。
 暁斗のメッセージは、流れ星みたいだ。退屈で代わり映えのなかった俺の日常に、きらめきと発見をもたらしてくれる。

 約束の火曜日は朝から大雨で、キャンパスを歩く人はまばらだった。必修もいつもより欠席が多く、教授は悲しげな顔で「雨の日の外出がダルいのもわかるけど、発表まで時間ないんだから欠席はくれぐれも計画的に。サボりの人にはそう伝えておいてください」と授業を締めくくった。
「小沼先生、もっと厳しく言えばいいのに。サボりに寛容すぎるっていうか」
「まあ、一年の頃からあんな感じだし、あの先生は。……ごめん夕也、ちょっと目つぶって」
「あ、うん」
 暁斗に言われるまま、目を閉じる。瞼の上を一瞬、冷たくやわらかなものがなでた。ブラシやスポンジやパフではなく、暁斗の指だろう。
 いつものミーティングルームで、暁斗にメイクを教わっているところだった。メイクをやってみて感じた疑問をリストアップしてきた俺に、暁斗は「すごい気合いだな」と最初は驚いていた。
「いや、なんかメイク楽しいなって思ってきて。ここまできたら、もっとできるようになりたいっていうか」
 俺の言葉に、暁斗はぱあっと顔を輝かせた。本当に、発光しているんじゃないかってくらいまぶしかった。イケメンが喜ぶ顔の破壊力はすごい。
「自分が好きなものに興味持ってもらえるって、こんなに嬉しいんだな」
 と、暁斗は笑った。屈託がなくて明るくて、いっそ幼く見えるほどの笑顔にドキッとした。……本当に嬉しい時、こういう顔をするんだなって。
 妙にドキドキする胸を押さえようとした時、暁斗が「な、相談なんだけど」と身を乗り出した。
「今日、夕也さえよければ顔もメイクさせてくれない?」
「えっと……傷跡以外もってこと? なんで?」
 それはひょっとして、キラキラ男子たちが教室でたまに話しているメンズメイクというやつだろうか。そんなことしたら、あいつ調子乗ってね? なんて言われないだろうか。
 俺の不安が伝わったのか、暁斗は「いや、ばっちりメイクさせろってわけじゃなくてさ」と説明する。
「傷のところだけメイクするのもいいけど、全体的に整えたほうがより自然っていうか、傷が目立たなくなると思う。夕也は肌綺麗だし元がいいから、クマ消して色ムラ整える程度で済むし」
「うーん……それくらいなら」
「ほんと? じゃあさっそくやろう、はいそこ座って」
 そこからの暁斗の行動は早かった。座った俺の前髪をヘアピンで留め、「汗かくといけないから」とハンディファンを俺に持たせ、バッグから取り出し並べた化粧品を俺の顔に塗り始めて今に至る。
「はい、目開けて。目の周りの皮膚はやわらかいから、強い力で塗らないほうがいい。このファンデは顔全体に塗ったあと、額とか鼻とか、皮脂が出やすい部分をスポンジで押さえて余分な下地を取る。ファンデに限った話じゃないけど、余分なメイクは崩れのもとだから。傷跡のメイクの時も同じな」
 机に置いた鏡の中で、スポンジを持つ手がてきぱきと動く。
 実践を交えた暁斗のメイクの説明はわかりやすかった。メイクの順番だけでなく、細かい注意点や、用途に応じた化粧品の特徴まで教えてくれる。
「皮脂を抑える成分が入っているものは、乾燥しやすいから塗る場所に気をつける」とか、「下地はファンデーションを密着させる目的で塗るもの」とか。それまで謎めいた液体でしかなかった化粧品たちは、どういう理由で使うものなのかわかると一気に手順を覚えやすくなった。
「で、最後はこのパウダーを磨くようにさっと乗せる。パフでさっとだからな。これは肌の色を補正してくれるパウダーだから、乗せすぎに気をつけて。量が多いと白塗りお化けみたいになるぞ。あとはリップだけ塗って……はい、これで完成」
「……わ、すごい」
 鏡を見たとたん、感嘆のため息がこぼれた。
 額の傷が隠され、うっすら浮いていたクマが消えた顔は、まるで別人のようだった。顔色がよく見えるし、唇もリップクリームを塗っただけなのにつやがすごい。
 相変わらず、暁斗のメイクは魔法みたいだ。
「俺、リップ塗ってもこんなふうにならないけど……?」
「メンソール系のよくあるやつだとあんまり潤わないからなー。こういう、高保湿って書いてあるようなやつはおすすめ」
 暁斗が指の間にはさんだリップを俺に見せる。商品名をスマホにメモしようとしたら、リップを持ったままの手がひょいと俺の手を取った。
「あげるよ。新品だし、俺同じの持ってるから」
「え、いいよそんな」
「安もんだし気にすんなって。あ、じゃあここまでメイクさせてくれたお礼ってことで」
 俺の手にリップを握らせ、暁斗はニコッと微笑む。不覚にも心臓がキュンって跳ねた。
 一連の所作も言葉選びも、もちろん笑顔も、すべてがイケメンすぎる。アイドルだから、暁斗はこれくらい慣れたものだろうけど。
「それにしても、やっぱりベースメイクもやってみて正解だったな。傷、こっちのほうが目立たないと思わない?」
 と、暁斗が俺に鏡を向ける。キュン、の余韻を残した腑抜けた顔が映っていてあわてたけど、確かに暁斗の言うとおり、顔全体にメイクをしているほうが額も自然に見える気がした。
「これ、俺もできるようになるかな」
 ポツリとつぶやくと、暁斗がすごい勢いで俺を見た。……目の輝きが尋常じゃない。
「やろう。俺、教えるから」
「……いいの?」
「いいに決まってる。メイクに興味持ってくれて嬉しいし……傷が隠れて、夕也が自信持てるなら、それが一番じゃん」
 当然のことみたいにさらりと言って、暁斗は「とりあえず使った化粧品の名前とか送るなー」とスマホを操作し始めた。そういうところが本当にかっこいいなあと思う。暁斗にとっては友達の力になることに、特別な理由なんていらないんだろう。
 だから俺も、傷を隠して、自分に自信を持って、まっすぐ前を向けるようになりたい。忙しい中でも時間を作って、自分の技術を惜しみなく教えてくれた暁斗のためにも。