メイクで隠れているとはいえ、傷をさらけ出して歩いている――その事実に心臓がバクバクしていたのは、大学を出て電車に乗るまでのことだった。
 誰一人、俺の顔を見なかったからだ。
 すれ違う学生たちも、改札を通る時に目が合った駅員も、まったく表情を変えることはなかった。混んでいる蒸し暑い地下鉄に揺られ、地元に向かう私鉄に乗り換え、家の最寄り駅に降り立ってからも、それは同じだった。
 誰も、俺を見ない。
 目が合っても、傷を指して笑わない。
 その事実に、不安でこわばっていた気持ちがふっと軽くなった。
 浮き立った心のままに買い物でもしたかったけど、寄り道せずに帰宅する。メイクがどうなっているか、確認しなければならない。
 玄関から洗面所に直行し、鏡を見た俺は息を呑んだ。
 誰も変な顔をしなかったから、ある程度わかってはいたけど。三橋の魔法のようなメイクで隠された傷は、見事に隠れたままだった。いつもは汗や皮脂でドロドロになっていたのに。
「すっごい……」
 信じられなくて、何度も鏡を見てしまう。
 さらけ出された額はつるんとしていて、不自然な凹凸も、肌の色になじんでいない部分もない。初めから、傷跡なんかなかったみたいだ。
「……すごいなあ、本当に」
 思わず、二度目の独り言がこぼれ出た。
 ファンデーションなのかコンシーラーなのかわからないけど、化粧品って本当にすごい。それらを使いこなして、俺に魔法をかけてくれた三橋も。
 そう思ったら、なんだかたまらない気持ちになってきた。洗面所に立ったままメッセージアプリを立ち上げ、三橋に電話する。
 短い呼び出し音のあと、『もしもしー』と三橋の声が聞こえた。
「あのさ、これすごいな! 全然崩れてない!」
 自分でもびっくりするほど興奮した声が出た。やばい、テンション高すぎたかも、と我に返ったけれど、
『そうだろ、そうだろ!』
 と返す三橋の声は、俺と同じくらい興奮していた。心なしか、ちょっと誇らしげにも聞こえる。
『あー、よかった! 下地をさ、カバー力より密着重視でいったのが正解だったかも。あとファンデ! 舞台メイクのメーカーが新しく立ち上げた、日常メイクのブランドの商品第一弾で。立ち上げ後すぐの商品って、言っちゃ悪いけど可もなく不可もなく、って感じの商品も少なくないし、ちょっと不安だったけど。やっぱ老舗の商品は間違いないな』
 生き生きとした、はずむような声が鼓膜を震わせる。今の三橋はきっと、雨上がりの空の太陽も勝てないほどの、まぶしい笑顔を浮かべているんだろう。
 胸の内側がじんわりとあたたかくなる。本当に、メイクが好きなんだ。これまで何度か思ったことを、また思う。
 今までは三橋のメイク愛を目の当たりにするたび、まぶしくてちょっと圧倒されるような気持ちになっていた。
 だけど、今は違う。胸をあたためるこの気持ちは、嬉しさだ。
 三橋が、まっすぐで熱い「好き」の気持ちで磨いてきたメイク技術を、俺に惜しみなく使ってくれたことが……そうやって、傷のない俺の顔を見せてくれたことが、たまらなく嬉しかった。
「……ありがとう、本当に。三橋はすごいな」
 鏡に映る綺麗な額を見ながら、俺は噛みしめるようにして言った。そんな心の底からの言葉を、三橋は『照れるな』と軽く受け流す。自分が特別なことをしたとは思っていなさそうなその様子を、かっこいいなあと思う。
『じゃ、ひとまずメイクは完成ってことで。あとは瀬田が、このメイクを一人でできるようになれば完璧だな』
「お、おう……できるかな……」
 とたんに、プレッシャーがズンと肩にのしかかり、一気に気が重くなった。洗面所の鏡に映った俺の顔も、わかりやすく引きつっている。
 ――そうだ、毎回三橋にメイクしてもらえるわけじゃないんだ。
 ミーティングルームの机にずらりと並んだ化粧品たちを思い出すと、ウッと声が出そうになる。あんなたくさんの化粧品を、用途別に使いこなすなんてできるのだろうか。
『大丈夫だって、できるようになるまで俺が教えるし。悪いんだけどあさっては俺仕事で行けないからさ、来週の火曜にでも。あ、でもその前に使った化粧品の情報送るよ。メイクの順番も、なるべくわかりやすく説明書いて送る。それなら俺に会う前にも、自分で練習できるだろ?』
「え、ありがとう……うん、それならがんばれる」
 多忙な三橋がそこまでお膳立てしてくれるなら、泣き言なんか言っていられない。「ありがとな」と改めて言うと、受話口の向こうで三橋がふっと笑った気がした。
『いいんだよ。俺がやりたくてやってるんだから』
「三橋って本当に好きなんだな、メイク」
『……うん、まあ、そうだな。メイクもだけど……』
 三橋の声がゴニョゴニョと小さくなる。珍しく歯切れが悪い様子だった。……もしかして、受話口の調子が悪い?
 音量キーを押すのと、三橋が急に『あのさ!』と声を張り上げるのが同時だった。いきなりの大音量に、心臓がギュンッと跳ねる。
「うわあ、な、何いきなり!?」
 さすがアイドル、声がよく通るな。飛び出しそうな心臓とはうらはらに、やけに冷静な頭の隅でそんなことを考えていたら、三橋がすうっと息を吸う気配がした。
『俺のこと、三橋って呼ぶのやめない? 仲いい人は下の名前で呼ぶし』
「……へ?」
 思ってもみなかった申し出に、思考が一瞬フリーズした。
 少し遅れて、言葉の意味がやっと脳に到達する頃。誰も見ていないのにブンブン手を振りながら、俺は「無理!」と叫んでしまった。鏡に映るパニック全開の顔を見ていられなくなって、洗面所を離れ自室へ移動する。
『えー、そんな断言しなくてもよくね?』
「いやいやハードル高いって! ……てか、俺たちって仲いいの?」
 顔がいいアイドルで、キラキラしていて、教室では同じようなキラキラ男子たちと一緒にいる三橋。地味で、暗くて、友達どころか教室で話せる人間もゼロの俺。
 そんな地味な俺が、メイクが好きで得意な三橋にたまたま傷痕を見られて、たまたまメイクをしてもらえることになった。
 ――それだけの関係を、はたして仲がいいと言えるのだろうか。
『仕事も授業も抜きで毎週会ってる時点で、俺の中では仲良し認定だったんだけどな……まあ、瀬田がそう思ってなかったんなら、これから仲良くなろ』
 俺の煩悶などつゆ知らず、なんとも軽い調子で三橋は言った。
 ――やっぱりこの人、キラキラ人間だ。陽キャだ。
 若干恐れをなしつつ自室のドアを開けようとした時、
『俺と仲良くなるの、いやなの?』
 と、三橋が続けた。さっきと同じ、軽い調子ではあるけど。俺に考える時間を持たせてくれているような、穏やかな問いかけだった。
 ドアノブに手をかけたまま、少し考えて俺は答える。
「……いやじゃない」
 三橋は俺とは全然違う人間だし、今もその認識は変わっていないけど。意外に話しやすくて、優しくて、好きなものを前にしたらとても生き生きとする。そういう姿は、ただのクラスメイトのままではきっと知ることもなかったんだろう。
 ――そういう、俺が知らなかった三橋の姿を、もっと知りたいなと思う。
 三橋はそんな俺の心の声が聞こえたかのように、
『じゃあ、今日から友達だな』
 と笑った。ともだち、と小さく口の中で繰り返す。すごく久しぶりに、この単語を口にした気がする。
 なんだかそわそわして、意味もなく手の中のドアノブを上下させた俺の耳に、三橋のいたずらっぽい声が届く。
『じゃあまず、俺のこと暁斗って呼んでみ?』
「そんな、ちょっと待ってって、まだ心の準備が」
『俺も瀬田のこと、下の名前で呼ぶし。名前、なんだっけ?』
「……夕也」
 しぶしぶ伝えると、間髪入れずに三橋が言った。
『じゃあ先に、俺が呼ぶな。夕也』
 鼓膜がぞわぞわする。思わず、少しだけスマホを耳から離してしまった。
「う、うわあ……なんか、すごい、変な気持ち」
 両親以外の人に下の名前で呼ばれるなんて何年ぶりだろう。気恥ずかしくて、照れくさくて、顔がカッカと熱い。
 ――だけど、決していやな気持ちじゃない。
 俺が名前を呼んだら、三橋も同じような気持ちになってくれるんだろうか。
 そう思ったら、口がするっと開いていた。
「暁斗」
 少しの沈黙のあと、三橋の――暁斗の声が、俺の声に答えた。
『……おお。不意打ちって、けっこう効くな』
 静かだけれど、確かに嬉しそうな声を聞いたとたん。心臓のあたりがきゅーっとなって、俺はドアノブから離した左手で軽く胸を押さえた。
 トクトク鳴る鼓動は決して激しくないのに、俺をどんどん苦しくさせる。
 だけどなぜか、それは悪くない気分だった。