火曜日と木曜日の必修授業のあとが、三橋のメイクの時間になった。
 授業が終わるとすぐに、俺は教室を出て学生棟のミーティングルームへ向かう。少し遅れて、三橋がやって来る。三橋は「え、一緒に行こうよ」と言ったのだけど、注目を集めてしまうと俺の心臓がもたなそうだったので、丁重にお断りした。
 三橋はミーティングルームに入るなりポーチを取り出し、手早く化粧品を机に並べる。そして、魔法のように俺の傷跡を隠していく。
 仕上げてもらった傷のない顔を見るたびに、すごく嬉しくなる。帰宅する頃には汗やら皮脂やらで崩れてしまうし、三橋はそれを知ると「ごめん、次は違うやり方試すわ」と詫びるのだけど。時間制限のある魔法だとしても、俺は本当に嬉しかった。
 胸の奥に力が宿るような。ピンと背筋を伸ばしてどこまでも歩いていけるような。そういう気持ちになれたのは、本当に久しぶりのことだったから。
 
 そんな不思議な関係が始まってからしばらく経った、五月の終わり。昼食を終えて学食を出た俺の耳に、
「ごめんなさい、写真はダメなんです」
 と、聞き慣れた声が届いた。
 思わず足を止める。学食から図書館へと伸びる小道の先に、三橋が立っていた。キャップを深くかぶっているけれど、困り顔をしているのが遠目に見てもわかる。
「えー、いいじゃん写真くらい。ウチらどこにもアップとかしないし」
「事務所にもバレないってー」
 キャンキャンした声は、三橋の前に立ちはだかった女子二人のものだ。厚底のサンダルを履いてなお三橋より背が低いのに、勢いというか、威圧感が半端じゃない。三橋の困り顔の原因はどうやらこの二人らしい。
 ちょっと迷った末に、俺は「三橋」と声を上げた。
「え、瀬田?」
 三橋が驚いた顔でこちらを見た。女子二人もはじかれたように振り向き、「え、なんなん?」「友達?」と俺と三橋を交互に見る。
 笑ってるけど、ちょっと笑顔が歪んでいるというかとにかく敵意がすごい。毛を逆立てた猫みたいだなと思いつつ、俺は続けた。
小沼(こぬま)先生が呼んでた。今後の予定聞きたいって。ただでさえ欠席遅刻早退多いんだから、早く行かないとやばいと思う」
「へ? ……あ、わかった。すぐ行く」
 三橋は最初こそぽかんとしていたけど、途中で俺の意図を察したらしい。女子二人に「ごめんなさい」と頭を下げて、さっさと立ち去る……かと思いきや、なぜか俺のほうにやって来た。
「え、なんで」
「ごめん、一緒にいて。そのほうが追ってこないだろうし」
 コソッとささやいた三橋は、俺の肩をつかんでその場を離れる。「タイミング悪ー」「マジそれ」とぼやく女子二人の声が遠ざかり、図書館の前を通り過ぎて学生棟が見えた頃、三橋は足を止めた。
「あー助かった……! ありがとな、瀬田」
 三橋は俺を拝むように手を合わせる。心の底からホッとしたのか、どこか力の抜けた動きだった。
「止めていいか迷ったけど、その様子だとよかったみたいだな」
「うん、正直どうしようかなって困ってたからさ、本当に助かった。……プライベートだし、どうしたって写真はダメだから」
 困ったように眉を下げて、三橋は「いや、声かけてもらうのは嬉しいけどな?」と付け足す。その顔を見ていたら、なんだかさっきの女子たちにだんだん腹が立ってきた。
「三橋を困らせてまで写真手に入れて、そんなに嬉しいもんかな」
「……え?」
「さっきの三橋、どう見ても困ってただろ。俺にだってわかるのに、あの人たちがわからなかったはずない。……三橋の気持ちも考えずに、なんなんだろ。腹立つな」
 言ってしまってからはっとした。……ただのクラスメイトで、三橋のファンでもない俺がこんなこと言うなんて気持ち悪かっただろうか。
 おそるおそるうかがった三橋は、綺麗な形の目を見開き、口をぽかんと開けて俺を見ていた。あっけにとられた顔ってこういうのを指すのかもな……なんて思っているうちに、その顔がふわっとほころぶ。
 ――あ、笑った。
 鼓動が少し速くなった気がした。アイドルじゃない時でもこんな綺麗に笑えるなんて、美形はすごい。
「瀬田って、いいな」
 笑ったまま、三橋がポツリと言った。
「え? どういう意味?」
 思わず聞き返してしまう。だって「いいな」って、かなりあいまいな言葉だ。けなされていないことだけは確かだけど。
「そのまんまの意味だよ」
 三橋は愉快そうに言ったきり、それ以上何も教えてくれなかった。

「そろそろ梅雨かー。メイクの持ちが心配だな」
 いつものように俺にメイクを施しながら、三橋がそう言ったのは六月の半ば――俺たちの不思議な関係が始まってから、一カ月が経とうとしていた頃だった。
「湿度ってメイクに関係あるんだ」
「ある、大ありだって。湿度で汗かきやすくなるし、エアコンで乾燥するのも心配だし」
 ふわふわの円形の布(パフというらしい)を、色とりどりのモザイク画みたいな固形のパウダーに押しつけながら、三橋は力説した。パフはそのまま、俺の額にそっと乗せられる。
「瀬田、ちょっと汗かきやすいみたいだしな。前髪があると仕方ないけど。……はい終わり。ちょっと確認させて」
 パフを離し、三橋は俺の顔をじっくり観察する。しばらく遠くで見ていたかと思えば、ずいと顔を近づけてきた。
 目の前に迫った真剣なまなざしに、心臓が跳ねる。
 メイク中、あるいはメイクが終わったあと。三橋はたまに、こういう目で俺を見る。いや、正確には俺に施したメイクの出来を見ているわけだけど。真剣で、とても誠実なまなざしだから、いつもちょっとドキドキしてしまう。
 ただのクラスメイトに過ぎない俺でもこうなんだから、ファンが見たら卒倒するんじゃないだろうか。そんなことを思っているうちに、いつもは三橋が「うん、今日はこれでいこう」なんて言って顔を離すのだけど。今日の三橋は、なかなかそうしなかった。
 だから俺もつい、目の前に迫った顔をまじまじと観察してしまう。
 ――つくづく綺麗な顔だな。
 しみじみとそう思う。くっきりした二重の目は、そこまで大きくはないけれど形が綺麗だし、鼻筋もすっと通っている。左右対称のまっすぐな唇なんか、そのまま口紅の広告にできるんじゃないだろうか。
 あ、口元にほくろがある。そう気づいた時、じっと見つめていた形のいい唇が開いた。
「あのさ、そんなに見つめられると恥ずかしいんだけど」
「あ、ごめん。メイクの時の三橋って本当にかっこいいなと思って、つい。ふだんからイケメンだけど……なんでだろ、よりかっこよく見える。好きなメイクに向き合ってる時だからかな、うん」
 俺の言葉に、三橋が身じろぎをする。顔を離して、パチパチとせわしなくまばたきをした。ちょっと驚いているようにも見える。
 ――あ、しまった。変なこと言ったかもしれない。
 褒め言葉だからいいと思ったけど、友達でもなんでもない人間にいきなりかっこいいって言われたら気持ち悪かっただろうか。
 まともな人づきあいを長い間避けていたせいで、こういう時の正解がわからない。指先が冷たくなって、いやな汗が背中を伝う。
 けれど俺の心配をよそに、三橋は顔をくしゃっとさせて「あははっ」と笑った。
「ええ? 褒めたのに笑うなよ!」
「ごめんごめん、そんなふうに言われるとは思ってなくて。……嬉しい。ありがとな」
 目尻に、深い笑い皺ができている。初めて目にする、三橋の心底楽しそうな笑顔だった。
 その笑顔にも、ありがとう、という言葉にも、なんだか胸がそわそわする。礼を言われるようなこと言ったかな、俺。
「瀬田って、いつも一人だし気難しい顔してるからさ。クールっていうかなんていうか、俺のことなんか軽蔑してるかもなって思ってたよ」
 俺の前髪を留めていたピンをはずしながら、三橋は言う。思ってもみなかった言葉に、「ええ!?」とかなりの大声を上げてしまった。
「そんなわけないだろ、なんで俺なんかが三橋にそんなこと思うんだよ!」
「俺はほら、こんなだし、アイドルだし。チャラついてんじゃねえ、とか思われてるだろうなって。初めてまともに話した時さ、瀬田は『俺のこと知ってたんだ』なんて言ってたけど、それこっちのセリフだしって思ったよ正直」
「そんなこと思って……なかったとは言いきれないけど」
 尻すぼみになっていく俺の声に、三橋は「正直だなー」とおもしろそうに目を細める。なぜか俺の前髪をいじりながら、
「なんていうか、瀬田のそういう、意外ないいところが知れて嬉しいかも」
 と、ゆっくり噛みしめるように言った。
「意外ないいところって……何それ」
「クールに見せかけて、まっすぐで正直。言葉だけじゃなくて、行動も。この前も俺のこと助けてくれたじゃん」
「だってあれは、三橋困ってたし……」
「あ、あと顔がいい」
「へぁ!?」
 爆弾発言に、口から変な声が出た。こんなとんでもなく顔のいい男に顔がいいと言われるなんて、冗談としか思えない。
「な、な、何。からかうなよ」
「からかってないって。前髪の影で気づかなかったけど、すごい綺麗なアーモンドアイなんだな。鼻も天然でこれって相当恵まれてる。てか肌きれいだな。あー、韓国系のステージメイクしてみてえ……」
「ええ、うそだろ……?」
 生まれてこのかた、そんなふうに言われたことはない。だから三橋の気のせいだろうと思うのだけど。前髪をていねいにかき分け、しげしげと俺の顔を観察する三橋の表情は真剣そのものだ。
 なんだかまた胸がそわそわし始めた。頬のあたりもむずむずする。
 ――なんだ、なんなんだこれ。
 未知の感情に戸惑っていたら、やっと前髪から指を離した三橋が「瀬田」と俺の名前を呼んだ。
「抵抗あるかもしれないけど、前髪分けてデコ出してみない? そうしたら汗かかないし、メイクの持ちもよくなると思うよ」
「え……それはちょっと」
 そわそわむずむずから一変、おなじみの不安がやって来る。額をさらすのは、どうしても怖い。
 しかし三橋は、俺の不安を吹き飛ばすように明るく「大丈夫だって」と言った。
「今日ためしに前髪分けて帰ってみて。今日のメイクは自信あるから、前髪分けたら確実に崩れないと思う」
「……本当に?」
 こわごわ尋ねる。三橋は力強くうなずき、俺の前髪を再び指でかき分けた。
 額にかすかに触れた指先は冷えている。だけどそれは、心地いい冷たさだった。
「何よりさ、メイク後の瀬田の表情ってすごくいいんだよ。隠すのもったいないって」
 その言葉を信じていいものか、まだわからなかったけれど。俺を見るまなざしの真剣さに、つい「わかった」と答えていた。