次の日の三限は必修クラスだったが、幸運なことに三橋は休みだった。いつも三橋とつるんでいるキラキラ男子二人が「あれ、暁斗は?」「あー、仕事だって」と、つまらなそうに話していたのが聞こえた。
「てか暁斗、いつCDデビューすんだろー。遅くない?」
「さあな。事務所の都合とかあるんだろ」
などと、彼らは授業後も教室に残って話していた。それを横目に教室を出る。三橋がいなかったことにも、三橋が傷跡の話を誰にもしなかったらしいことにも、とにかくほっとした。
安心したら、少し気分が上向きになった。空きコマの時間は、カフェテリアで新作のパンを買おう。天気もいいし、外で課題やってもいいかな。
……なんて、柄にもなくちょっと浮かれていた時だった。
「瀬田!」
背後から突然呼ばれ、びっくりして振り向く。そして、思わず「え」と声を上げてしまった。
廊下の向こうから、ものすごい勢いで三橋が走ってきたのだ。疾走する美形の姿に気圧されたように、居合わせた学生たちが道を開ける。
「あ、ラブシのリーダーじゃん」
「マジ? ほんとだ、三橋暁斗だ」
そんな声をものともせず、三橋は俺の前で足を止めた。「あー、帰ってなくてよかった」と笑う顔のまぶしさに、周囲がますますざわつく。
「瀬田、このあとヒマ?」
「五限あるけど、それまでなら……」
答えるやいなや、なぜかギュッと右手を握られた。そのままずんずんと歩き出した三橋に、引っ張られるようにして廊下を歩く。
――なんだ、この状況。
人はあまりに不可解な状況に陥るとパニックにもなれないらしい。しばらく手を引かれるまま歩き、階段を下りる直前になって、俺はやっと「いやいやいや、何これ!」と叫んだ。
「ちょっと三橋、どこ行くんだよ!」
「いーからいーから」
三橋は振り向きもせず、階段を下りて校舎を出る。すれ違う学生たちの視線が痛い。
学生棟の三階、予約制のミーティングルームに入ると、ようやく三橋は俺の手を放した。
「ちょっと、なんなんだよ。説明くらい……」
文句を言いかけた俺にかまわず、三橋は背負っていたリュックを下ろし、ファスナーを開けた。
「ごめん、あんまり人に聞かれたくないかと思ってさ」
リュックから大きなポーチを取り出し、三橋は俺に言う。丸く膨らんだポーチを開け、中身を机の上に並べた。
黒い円形のケース、大小さまざまなチューブ容器、絵の具パレットのようなプラケース……次々と並べられるそれらから、俺は目が離せなくなった。
「これって……」
「メイクさせてよ、瀬田」
俺の言葉を遮るように、三橋は俺の顔を覗きこむ。
形のいい大きな目に、キラキラとした光が宿っている。抑えがたい興奮が、三橋の顔をいつになく輝かせているのだとわかった。
「お前のその傷、俺が隠すから」
「……え、ええ?」
予想外の言葉に固まった俺に、「いや?」と三橋は眉を寄せて小首をかしげた。普通の男がやったら見られたもんじゃないと思うが、三橋がやるとさまになっている。
さすがアイドル、という感心とともに、俺は小さな声で答えた。
「いや、じゃないけど」
「おっしゃ、それじゃ座って」
そこからは、完全に三橋のペースだった。俺を半ば強引に椅子に座らせ、前髪をピンで留める。
傷跡を見られている――そう思うと、羞恥とも恐怖ともつかない感情で、じわじわ頬が熱くなる。三橋はそんな俺にかまわず、
「じゃあ、始めよっか」
と、化粧品を手に取ったのだった。
三橋の手つきは、思わず見とれてしまうほど鮮やかだった。白っぽい液体やベージュ色のクリームを、次々と俺の傷に塗り重ねていく。
他人に傷を触られるのは初めてだ。けれど、緊張はすぐに消えた。トントン、と化粧品を肌になじませる三橋の指は、程よい力加減もあって気持ちいいくらいだ。
片栗粉みたいな白い粉をブラシでさっと乗せたところで、三橋は手を止めた。リュックの外ポケットから手鏡を取り出し、俺に向ける。
「どう?」
おそるおそる鏡を覗きこんだ俺は、言葉を失った。
――あんなに気にしていた傷が、ほとんど見えなくなっている。
しかも、ただ見えなくなっているだけではなく、本当に自然に隠れている。化粧を施した部分だけが盛り上がっていたり、色が違ったり、そういう変化すらない。
「すっ……ごい」
素直にそう言った。
けれど三橋は「うーん」と首をひねっている。
「コンシーラーはいらなかったかもな……瀬田は皮膚が薄めっぽいから、どうしても厚塗り感が……前髪下ろすとなると崩れやすくもなるし……」
何やらブツブツ言いながら、三橋はテーブルに散らばった化粧品を片づける。
「また今度、俺に時間くれない? たぶん、今日のメイクは失敗だなー……」
「え? これで十分だけど」
――これのどこが失敗?
そんな俺の心の声が聞こえたように、三橋は苦笑する。
「メイクって崩れるもんなの。だから、今がベストでどんどん劣化していくと思ってたほうがいい」
俺の前髪からピンを回収し、三橋はあわただしくリュックにポーチを放りこんだ。
「できれば崩れ方とか今日中に確認したかったんだけど、俺このあと仕事でさ。家に帰ってからメイクがどうなったか、連絡してよ」
「は? いや、連絡先知らないんだけど」
「クラスのグループトークあるだろ、そこから追加して。じゃ、待ってるから!」
現れた時と同じように、怒涛の勢いで三橋は去って行った。ミーティングルームには俺一人が残される。
「……なんだったんだ」
こぼれた独り言は、誰にも拾われることなく消えていく。狐につままれたよう、とでも言うのか、なんだかすべて夢みたいだ。
スマホのインカメラで、額を確認する。傷はしっかりと隠れていて、心底ほっとした……のだけど。
五限を終えて帰宅している最中、俺は、三橋の言葉の意味を思い知ることになった。
「うわ、マジか……」
と、本日二度目の独り言がこぼれたのは、最寄り駅のトイレの鏡の前。
三橋の言葉を思い出し、鏡に向かって前髪を上げてみたところ――隠してもらったはずの傷が、再び浮かび上がっていたのだ。
メイクをしてもらう前に比べたら、目立たないほうではある。しかし、傷を隠せているとは言い難い状態だった。たぶん、汗でメイクが落ちてしまったのだろう。
迷った末、俺はその場で額の写真を撮った。帰宅してから、三橋のアカウントを連絡先に追加する。
写真を送ってしばらくすると、いきなり電話がかかってきたので飛び上がった。
さすがアイドル、いきなり通話でも怖くないんだな。妙に感心しつつ、おっかなびっくり〈応答する〉のマークをタップする。
「も、もしもし」
『あ、今だいじょーぶ? 写真ありがと。やっぱり崩れちゃったかー。前髪に汗溜まるだろうし、まあ仕方ないかって感じだけど』
緊張する俺とは対照的に、三橋は一方的にまくしたてる。
『な、明後日の必修後って時間ある? もう一度メイクさせてほしいんだ』
「え、いや大丈夫だって。そこまでしてもらわなくても」
『ここまで来たら、乗りかかった舟っていうの? それに……俺がやりたいんだ』
その声に、なぜかドキリとした。陽気で軽やかなようでいて、奥に秘めた熱を隠しきれていない――そんなふうに聞こえたから。
三橋は、本当にメイクが好きなんだ。そう思ったら、口は勝手に「わかった」と答えていた。
――こうして、俺たちの不思議な関係は始まった。
「てか暁斗、いつCDデビューすんだろー。遅くない?」
「さあな。事務所の都合とかあるんだろ」
などと、彼らは授業後も教室に残って話していた。それを横目に教室を出る。三橋がいなかったことにも、三橋が傷跡の話を誰にもしなかったらしいことにも、とにかくほっとした。
安心したら、少し気分が上向きになった。空きコマの時間は、カフェテリアで新作のパンを買おう。天気もいいし、外で課題やってもいいかな。
……なんて、柄にもなくちょっと浮かれていた時だった。
「瀬田!」
背後から突然呼ばれ、びっくりして振り向く。そして、思わず「え」と声を上げてしまった。
廊下の向こうから、ものすごい勢いで三橋が走ってきたのだ。疾走する美形の姿に気圧されたように、居合わせた学生たちが道を開ける。
「あ、ラブシのリーダーじゃん」
「マジ? ほんとだ、三橋暁斗だ」
そんな声をものともせず、三橋は俺の前で足を止めた。「あー、帰ってなくてよかった」と笑う顔のまぶしさに、周囲がますますざわつく。
「瀬田、このあとヒマ?」
「五限あるけど、それまでなら……」
答えるやいなや、なぜかギュッと右手を握られた。そのままずんずんと歩き出した三橋に、引っ張られるようにして廊下を歩く。
――なんだ、この状況。
人はあまりに不可解な状況に陥るとパニックにもなれないらしい。しばらく手を引かれるまま歩き、階段を下りる直前になって、俺はやっと「いやいやいや、何これ!」と叫んだ。
「ちょっと三橋、どこ行くんだよ!」
「いーからいーから」
三橋は振り向きもせず、階段を下りて校舎を出る。すれ違う学生たちの視線が痛い。
学生棟の三階、予約制のミーティングルームに入ると、ようやく三橋は俺の手を放した。
「ちょっと、なんなんだよ。説明くらい……」
文句を言いかけた俺にかまわず、三橋は背負っていたリュックを下ろし、ファスナーを開けた。
「ごめん、あんまり人に聞かれたくないかと思ってさ」
リュックから大きなポーチを取り出し、三橋は俺に言う。丸く膨らんだポーチを開け、中身を机の上に並べた。
黒い円形のケース、大小さまざまなチューブ容器、絵の具パレットのようなプラケース……次々と並べられるそれらから、俺は目が離せなくなった。
「これって……」
「メイクさせてよ、瀬田」
俺の言葉を遮るように、三橋は俺の顔を覗きこむ。
形のいい大きな目に、キラキラとした光が宿っている。抑えがたい興奮が、三橋の顔をいつになく輝かせているのだとわかった。
「お前のその傷、俺が隠すから」
「……え、ええ?」
予想外の言葉に固まった俺に、「いや?」と三橋は眉を寄せて小首をかしげた。普通の男がやったら見られたもんじゃないと思うが、三橋がやるとさまになっている。
さすがアイドル、という感心とともに、俺は小さな声で答えた。
「いや、じゃないけど」
「おっしゃ、それじゃ座って」
そこからは、完全に三橋のペースだった。俺を半ば強引に椅子に座らせ、前髪をピンで留める。
傷跡を見られている――そう思うと、羞恥とも恐怖ともつかない感情で、じわじわ頬が熱くなる。三橋はそんな俺にかまわず、
「じゃあ、始めよっか」
と、化粧品を手に取ったのだった。
三橋の手つきは、思わず見とれてしまうほど鮮やかだった。白っぽい液体やベージュ色のクリームを、次々と俺の傷に塗り重ねていく。
他人に傷を触られるのは初めてだ。けれど、緊張はすぐに消えた。トントン、と化粧品を肌になじませる三橋の指は、程よい力加減もあって気持ちいいくらいだ。
片栗粉みたいな白い粉をブラシでさっと乗せたところで、三橋は手を止めた。リュックの外ポケットから手鏡を取り出し、俺に向ける。
「どう?」
おそるおそる鏡を覗きこんだ俺は、言葉を失った。
――あんなに気にしていた傷が、ほとんど見えなくなっている。
しかも、ただ見えなくなっているだけではなく、本当に自然に隠れている。化粧を施した部分だけが盛り上がっていたり、色が違ったり、そういう変化すらない。
「すっ……ごい」
素直にそう言った。
けれど三橋は「うーん」と首をひねっている。
「コンシーラーはいらなかったかもな……瀬田は皮膚が薄めっぽいから、どうしても厚塗り感が……前髪下ろすとなると崩れやすくもなるし……」
何やらブツブツ言いながら、三橋はテーブルに散らばった化粧品を片づける。
「また今度、俺に時間くれない? たぶん、今日のメイクは失敗だなー……」
「え? これで十分だけど」
――これのどこが失敗?
そんな俺の心の声が聞こえたように、三橋は苦笑する。
「メイクって崩れるもんなの。だから、今がベストでどんどん劣化していくと思ってたほうがいい」
俺の前髪からピンを回収し、三橋はあわただしくリュックにポーチを放りこんだ。
「できれば崩れ方とか今日中に確認したかったんだけど、俺このあと仕事でさ。家に帰ってからメイクがどうなったか、連絡してよ」
「は? いや、連絡先知らないんだけど」
「クラスのグループトークあるだろ、そこから追加して。じゃ、待ってるから!」
現れた時と同じように、怒涛の勢いで三橋は去って行った。ミーティングルームには俺一人が残される。
「……なんだったんだ」
こぼれた独り言は、誰にも拾われることなく消えていく。狐につままれたよう、とでも言うのか、なんだかすべて夢みたいだ。
スマホのインカメラで、額を確認する。傷はしっかりと隠れていて、心底ほっとした……のだけど。
五限を終えて帰宅している最中、俺は、三橋の言葉の意味を思い知ることになった。
「うわ、マジか……」
と、本日二度目の独り言がこぼれたのは、最寄り駅のトイレの鏡の前。
三橋の言葉を思い出し、鏡に向かって前髪を上げてみたところ――隠してもらったはずの傷が、再び浮かび上がっていたのだ。
メイクをしてもらう前に比べたら、目立たないほうではある。しかし、傷を隠せているとは言い難い状態だった。たぶん、汗でメイクが落ちてしまったのだろう。
迷った末、俺はその場で額の写真を撮った。帰宅してから、三橋のアカウントを連絡先に追加する。
写真を送ってしばらくすると、いきなり電話がかかってきたので飛び上がった。
さすがアイドル、いきなり通話でも怖くないんだな。妙に感心しつつ、おっかなびっくり〈応答する〉のマークをタップする。
「も、もしもし」
『あ、今だいじょーぶ? 写真ありがと。やっぱり崩れちゃったかー。前髪に汗溜まるだろうし、まあ仕方ないかって感じだけど』
緊張する俺とは対照的に、三橋は一方的にまくしたてる。
『な、明後日の必修後って時間ある? もう一度メイクさせてほしいんだ』
「え、いや大丈夫だって。そこまでしてもらわなくても」
『ここまで来たら、乗りかかった舟っていうの? それに……俺がやりたいんだ』
その声に、なぜかドキリとした。陽気で軽やかなようでいて、奥に秘めた熱を隠しきれていない――そんなふうに聞こえたから。
三橋は、本当にメイクが好きなんだ。そう思ったら、口は勝手に「わかった」と答えていた。
――こうして、俺たちの不思議な関係は始まった。
