息せき切って自宅に駆け込み、玄関の鍵を閉めたところでようやく安堵の息がこぼれた。
「ちょっと夕也(ゆうや)、ドタバタうるさいよ」
「お兄ちゃん、頼んでたノート買ってきてくれた?」
 母さんと妹の真緒(まお)が、そろってリビングから顔を出す。が、返事はせず、のろのろ洗面所に向かった。
 鏡に映る自分の姿は、ひどいありさまだった。全力疾走したせいで髪はボサボサ、頬は真っ赤で目も血走っている。
 そして何より、乱れた前髪の下。額の真ん中に斜めに走る傷跡が、うっすら赤く、太い線となって浮かび上がっていた。
 ドッ、と心臓が大きく脈を打つ。
 いやな記憶が、ページをめくるように次から次へと思い出されそうになって、俺は乱暴に前髪を下ろした。
 この傷ができたのは、小学三年生の時だった。
 学校の裏山で、登っていた木から落ちた。そのまま運悪く斜面を転がり落ちて、枯れ枝で額を裂かれたらしい。
 その時のことを、俺自身はあまり覚えていない。パニックになっていた両親と妹の姿だけ記憶に残っている。
 何針も縫って、派手な傷跡が残ったけれど、生活に変化はなかった。後遺症なんてなかったし、友達も誰一人として傷跡を気にしなかったから。
 けれどそれも、親父の転勤で東京に引っ越し、転校するまでのことだった。
 傷跡は、新しい環境ではイジリの対象になった。……当時のことを思い出すだけで、いまだに心臓がバクバクして息が苦しくなる。
 有名アニメの、額に傷がある主人公のマネをさせられたり、傷を誇張した似顔絵を黒板に描かれたり。今となっては子どもっぽいイジリだなと思えるけど、小学生にとっては、傷つくのに十分な仕打ちだった。
 怒ったり泣いたりすればますます同級生たちを助長させることになったから、俺はしだいに感情を殺すようになった。どんなに自尊心が傷ついても、平気なふりをしてやり過ごした。
 同級生たちと離れたい一心で、中学からは遠くの私立に行った。その頃には前髪をうっとうしいくらい長く伸ばしていたから、傷に気づかれることはなかったけれど。誰と話していても、常にビクついてしまう自分がいた。
 ――今は普通に接してくれているこの人も、傷を見たら態度を変えるかもしれない。
 ――俺を、どう扱ってもいい人間と思うかもしれない。
 そう考え始めるとダメだった。俺は結局、親しい人間を全然作れないまま中高一貫校の六年を終えた。そして大学に入学してからも、二年生の今に至るまでほとんど人と話さずに過ごしている。
 こんなんじゃダメだって、一度も思わなかったわけじゃない。せっかく好きな映画やドラマのことを学べる学部に入ったのに、誰とも話さないまま終わるのは寂しいしもったいないんじゃないかって。
 ……だけど、傷がある限り。誰かに心を開くのが難しいこともわかっていた。
「ちょっと、邪魔」
 過去の記憶に打ちのめされていたら、真緒がいきなり割り込んできた。手を洗い、真剣な面持ちでカラコンを装着し始める。
「どっか行くのか」
「塾」
「塾行くのに化粧すんの?」
「うっさいなー、別にいいじゃん」
 真緒は俺をにらみ、頬に日焼け止めを塗っていく。ファンデーションは何を使っているんだろう、と気になったけれど、あまり見ていたら怒られそうだから退散した。
 傷跡をメイクで隠せると教えてくれたのは、ほかでもない真緒だ。今朝、跳ねた前髪が直らなくて苦戦していた俺に、並んで身支度を整えていた真緒が「もうメイクで隠したら?」と言ってきたのだ。
「え、メイクってそんなことできんの?」
 メイクとは顔を派手に見せるもの、という印象だったから驚いた。真緒は真剣に前髪を巻きながら「うちはやったことないけど」と続けた。
「前にそういうショート動画見たよ。ファンデだけなのにめっちゃ綺麗に隠れてた。まあ加工ありきだと思うけど」
「ファンデ……?」
「ファンデーション。クラスでも、ヒゲ跡濃くてやだからって塗ってる男子いるよ」
「へえー。それ、ドラッグストアとかで買えるかな」
「ドラッグストアは品揃え悪いとこもあるからなー。駅ビルのファンズとか行けばいいかも」
 普段は口を開けば反抗的なことばかり言う妹が、なぜそこまで親切なアドバイスをくれたのかはわからない。けれど俺は、ありがたくそれに従うことにした。
 傷跡を隠せたからといって、寂しい生活はすぐに変わらないことくらいわかってる。だけど、踏み出す勇気と自信はくれるんじゃないかって思ったから。
 誰にも見られたくなくて、大学からも地元からも離れたバラエティショップへ足を運んでみたのだが。……まさか三橋と会うなんて。
 しかも、傷跡を見られてしまうなんて、思いもしなかった。
 驚いたような、戸惑ったような三橋の顔がふとよみがえる。その瞬間、ブワッと冷たい汗が背中に噴き出した。
 他人に傷跡を見られたのは、本当に久しぶりのことだ。大学生にもなって、外見をからかうやつはいないだろう。頭ではそうわかっていても、正直怖くて仕方がない。
 三橋が何も見なかったことにしてくれますように。そして明日から、もう二度と話すこともなくなりますように。
 そう願うことしか、俺にはできなかった。