「あ、みいくんじゃん」
「ほんとだー、かっこいい」
 人もまばらな電車内の、静寂を打ち破る声に顔を上げた。少し離れた席で、女子高生たちが車窓の外を指して「顔がいいなー」「眼福だわ」と言っている。俺もつられて、窓の外を見た。
 線路沿いに立つビルの、巨大な看板広告に暁斗がいた。リップクリームを手に持ち、唇のつやを強調するように笑っている。
 見覚えのある水色の蓋に、あ、と思う。かつて暁斗が俺にくれたリップクリームだった。それは今も、俺のポケットに入っている。
「あのリップいいよね、ちょい高いけど」
「うちお姉ちゃんのパクって使ってるよ」
「やば、バレたら殺されるやつじゃん」
 女子高生たちは口々に言って、次の駅で降りていった。大学の最寄り駅までは、あと一駅。まだ時間はあるなと、スマホを取り出しメッセージを打った。
『広告見た イメージモデル起用おめでとう』
『あのリップ、今も使ってるよ』
 送信を終えると、ちょうど電車が駅に着いた。改札を通過して、通りに出たところで後ろから肩をたたかれる。
「五十嵐」
「おつかれ。店、一緒に行こ」
「うん。なんだっけ、店の名前」
「イタリアン的な感じの名前だったことしか覚えてねえ」
 すっかり日が落ちた大通りを、五十嵐と並んで歩く。今日は松橋ゼミの合格者交流会だった。本来なら全休だったから、正直なところ参加はちょっとおっくうだったけど。五十嵐以外の未来の同期はどんな人たちか気になって、結局参加を決めたのだった。
 会場の創作イタリアンの店には、俺たち以外の参加者がすでに揃っていた。同期だけでなく先輩たちもいる。乾杯を終えると、そのうち一人が俺のとなりに座った。
「瀬田くん、久しぶり。ゼミ合格おめでとう」
 竹本さんだった。なんと言っていいのかわからず、俺はウーロン茶のグラスを片手に「どうも」と返す。
「お酒、飲まないの?」
「まだ十九なんです」
「あ、そうか。誕生日いつなの?」
「一月です」
「おー、来月かあ」
 そういう、間を埋めるような会話をひとしきりしたあと。竹本さんがふいに言った。
「ありがとね。トゥイッターで本当のこと言ってくれたの、瀬田くんでしょ」
「……えっと、はい」
 反応が遅れてしまったのは、今になってそれを言われるとは思わなかったからだ。
 あの炎上騒動から、一カ月が経とうとしている。クラスでも、もう誰もあの時のことを口にしない。人のうわさも七十五日と言うけれど、実際はそれ以上に短いものなんだなと思う。
「いや、私じゃなくて三橋くんのためにやったことだってわかってるけど。一度ちゃんと、お礼言わなきゃなって思ってたの。………私は怖くて何もできなかったのに、瀬田くんはすごいよ」
 竹本ー、と呼ぶ声がして、竹本さんはそちらに手を振った。席を立ち、「来年からよろしくね」と笑って去って行く。その直後にガタイのいい男の先輩がとなりに座って、「瀬田くんは優秀でいいなあ、俺なんて卒業危ういよ」とくだを巻いていたその人がいなくなったかと思えば「飲んでるー?」と同学年の女子三人に声をかけられて。そうこうするうちに、交流会も終盤になっていた。
「ねえねえ、瀬田くんも二次会行く? 行くよね? 行くって言えー!」
「せっかく同期になるんだからもっと話そうよー」
「何が好き? ねえねえ何が好き? あたしはベタだけどゴダール作品かなー」
 女子三人はまだ俺の周りを囲んでいる。酒のせいか、終盤なのに全員テンションが高い。ノンアルコール状態の俺にはついていけなくて、五十嵐に助けを求めようとしたけれどあっちはあっちで女子に絡まれていた。能面のような無の表情が怖い。
 こっそりため息を落とした時、ポケットの中でスマホが震えた。女子たちの目を盗んで通知を確認する。新着メッセージの通知だった。
〈三橋暁斗:飲み会終わった? 急だけど、今会えたり――〉
 文字の意味をちゃんと理解する前に、俺は立ち上がっていた。参加費をテーブルに置き、リュックを背負う。
「ごめん、二次会はパスで。ていうか、用事できたんで帰ります」
「ええ、マジでー?」
「急すぎるよー!」
「彼女か、やっぱり彼女いるんか! イケメンには彼女がいるのか結局!」
 女子たちの声を振り切るように、出入口へ向かう。その途中、トイレから戻った五十嵐とすれ違った。俺の顔と、俺の手の中のスマホを見比べて、五十嵐は目を細める。
「暁斗によろしくな」
 ぎくっとした俺を置いて、五十嵐はさっさと席に戻っていく。……暁斗との関係は誰にも言っていないけど、たぶん五十嵐にはバレてるのだろう。これまでも何度かこういうことがあった。
 ――いずれちゃんと話さないとなあ。
 そんなことを思いつつ、店の外に出た。歩みを止め、メッセージを改めて確認する。『飲み会終わった? 急だけど、今会えたりする?』『用あって、大学いるから今』と暁斗から届いていた。
『今飲み会抜けた』
 そう送るとすぐに既読がついて、『店、どこ? そっち行く』と返信が届く。
『理工キャンパス近くのリチェッタってとこ』
 文学部キャンパスからは遠いから、中間地点で会おうか……とメッセージを続けて打っていた時だった。
「あれえ、瀬田くんどしたの?」
 顔を上げると、喫煙所のほうから誰かが寄ってくるのが見えた。さっき「卒業が危うい」と絡んできた先輩だ。
「今日は帰ります、俺」
「あら、残念だ。……ん? なんかデコ赤くない? ぶつけた?」
 と、先輩が俺の額に目を留める。ぶつけてなんかないけど、と思ってから、俺はその原因に思い至る。
 ――あ、傷跡か。
 この時間のためだけにちゃんとメイクをするのが面倒で、今日はいつもより適当にメイクをしてしまっていた。そのせいで、額の部分のファンデーションが崩れてしまったのだろう。
「ここ、傷跡があって、体温上がると赤くなるんです。店の中暑かったし、それでかも」
 そう言うと、先輩は「ええ、マジか」と大げさに体をのけぞらせた。
「けっこう目立つでしょ、それじゃ。せっかく綺麗な顔してるのにもったいないなー!」
 アルコールでうるんだ両目が、俺の顔を上から下までながめ回す。好奇心とかあわれみとかを、抑えこもうとして失敗してる、そういう目だった。
 ――あ、この感じ久しぶりだな。
 慣れてるし、昔ほどは傷つかないけれど……やっぱりいやなもんだなと、他人事みたいに思った時だった。
「もったいなくなんてありません」
 聞き慣れた声と同時に、肩に手を置かれる。振り仰いだその顔は、マスクで半分ほど覆われていて。目は笑っているけれど、たぶん口は笑ってないんだろうなって思う。
「夕也の良さは、そんなことでは損なわれないので」
「え、誰このイケメン」
 戸惑う先輩を置いて、暁斗は「行こ」と俺の手を引いた。長い脚ですたすた早歩きをされて、時折転びそうになる。リーチが全然違うんだな、と少し悲しく思う。
「暁斗、ちょっと速い」
「ごめん。あんな失礼な人間からは一刻も早く遠ざかりたくて」
 暁斗がやっと足を止めて、俺に向き直った。近くの店のネオンサインが、不機嫌もあらわな顔を照らし出す。
「なんなんだあいつ、なんだもったいないって。夕也のことなんも知らねえくせに」
「そりゃそうだ。今日知り合ったばっかりだから」
「それにしたって……え、なんで笑ってんの。バカにされたんだぞ」
 尋ねた暁斗の顔は不思議そうで、けれど怒りの余韻が少し残っている。マスクをしていても、それがわかる。俺はそのことに、ますます笑みを深くしてしまう。
「いや、だって……そうやって暁斗が怒ってくれるから、いいかなって」
 暁斗が目を見開く。俺の言葉を反芻するように何度もまばたきをしてから、「はあーあ」とため息を落とした。
「お前って、本当にさ……」
「何?」
「いや。夕也には敵わないなって思っただけ」
 そうして周囲を見回して、暁斗はマスクをすばやくずらす。俺の額に触れるだけのキスを落として、「外だから、これだけ」とささやいた。
「ラブシのリーダーが路チューしていいわけ?」
「路チューて……夕也、そんな言葉覚えちゃったのか……。でももし撮られてたら、その時は助けてくれるんだろ?」
 いたずらっぽく笑ったその顔を、好きだなと思う。アイドルではない三橋暁斗の表情や感情を見るたびに、これからも何度もそう思うんだろう。
「ん、メイク落ちてるな。どっかで直す?」
 ふと俺の額に目を留めて、暁斗が言う。少し迷ってから、俺は首を振った。
「いや、いいや」
 ――だって暁斗は、こんなの気にしないだろ?
 心の中でだけ言って、俺は暁斗の頬に口づける。蝶が止まったように軽いものだったけれど。バッとこちらを見た暁斗の顔が、みるみるうちに赤くなっていく。
「で、このあとどこ行く?」
「……夕也さあ、確信犯だろ」
 暁斗が苦笑する。そのまま手をつないで、俺たちは二人で夜の町を歩き出す。
「暁斗、これどこ向かってんの」
「静かで二人きりになれて、盗撮の心配もないところですよ」
「そんな都合のいい場所あんのかよ」
「ラブシのリーダーの家。セキュリティ万全だから安心して」
 俺を見下ろす目には確かな欲が宿っている。それが嬉しくて、つないだ手に力を込める。
 このあと俺は、暁斗に全部を見せてしまうのだろう。浮かび上がる傷跡だったり、綺麗なばかりではない部分だったり。
 ――だけど、お前にならいいよ。
 お前が、全部を見せてくれるから。俺も、俺を全部あげるよ。一つも隠さず。
 ネオンに照らされても、月が雲の間から顔を出しても。つないだ手を一度も離さずに、俺たちは歩き続けた。