「ありえねえよ、これ」
ドアを開けるなり、夏目のいつになく低い声が聞こえてびっくりした。十一月を迎えてまもない火曜日、いつものように必修授業の教室に入った矢先の出来事だった。
入り口近くの定位置に座った五十嵐と夏目は、スマホを片手にこわばった顔をしている。……こんな二人、初めて見た。他のクラスメイトたちもそれぞれの席でスマホを覗きこみ、ひそひそと何かささやき合っている。
――なんか変だ。
教室に漂う空気の異様さにひるんだ時、五十嵐が静かに言った。
「落ち着け、夏目」
「いや航大、なんでそんな冷静なわけ!? 炎上してんだぞ、暁斗が!」
張り詰めた夏目の声に、リュックの肩紐を握る手が震える。エンジョウ、という音を脳内で正しく変換できた頃には、体が勝手に動いていた。
「炎上ってどういうこと」
五十嵐と夏目の間に割り込むようにして、机に勢いよく手を突いてしまう。バンッと思いのほか大きい音が響いて、二人がびっくりした顔で俺を見た。
「……瀬田、トゥイッター見てない?」
「見てない。SNSなんもやってないし、俺」
俺の答えに、夏目は「マジ? そんな大学生いるんだ」と目を見開く。五十嵐までもが「絶滅危惧種だな」とつぶやいた。
「そんなに変? ……じゃなくて、炎上ってどういう」
問いかけは途中で浮いた。五十嵐がずいとスマホを見せてきたからだ。
画面には、SNSに投稿された動画が表示されている。目をこらして、息を呑んだ。画質は荒かったけれど、暁斗と的場が向かい合って映っているのがわかった。
ゼミ説明会の日に起きた、ちょっとした事件の記憶がよみがえる。ピンク髪の先輩……確か、竹本さんだっけ。あの人が的場に絡まれていて、俺がそれを止めようとして返り討ちにあって。そんな俺を、暁斗が助けてくれた。……それが、なぜか五十嵐のスマホの中に映し出されている。
――誰かが隠れて撮ってたんだ。
誰が、どうして、なんで……そんな言葉が次から次へと頭に浮かんだけれど。動画とともに投稿された文章を読んだら、疑問は全部はじけ飛んでしまった。
〈三橋暁斗、ちょっと前に大学で修羅場ってた この頃にはデビュー決まってたっぽいのに危機感薄くね? そして女かわいくて普通にムカつく〉
せせら笑う声が聞こえてきそうな、悪意のにじむ文章だった。投稿者の意図がつかめた俺はめまいを覚える。
投稿者は、あの時の俺たちを真横から撮っていたらしい。的場に迫る暁斗の後ろには、竹本さんがばっちり映っている。そして的場の背後にいたはずの俺は、綺麗に存在を消されていた。
編集か、あるいは最初から映していなかったのか。なんにしても、俺が消されたことで「男二対女一」の図になった動画は、一見すると「女の取り合い」に見えなくもない。
「音声ありで見るとわかるんだけど……暁斗がさ、この男相手に啖呵切ってるっていうか……とにかく、すごい熱くなってんだよ。こいつのこと何も知らないくせに、みたいな。どういう状況なのか、本当のところは暁斗に聞かないとわからんけど。ネットでは大炎上してる」
五十嵐が淡々と説明する。よく見ると、スマホを握る指の先が力んで白くなっていた。平静そうに見えて、五十嵐も動揺しているらしいのがわかった。
「暁斗に彼女なんているわけない。いるなら、俺たちが知らないはずないじゃん」
夏目が珍しく語気を強めて言う。五十嵐は「関係ないだろ、そんなの」と首を振った。
「事実がどうあれ、暁斗が女を男からかばってて、しかも妙に熱くなってるのは確かなんだから。それだけで燃料としては十分だ」
「そんなのわかってるけどさあ……にしても、あいつがこんなとこ撮られるなんて意外っていうか、変じゃね? 撮られることにめちゃくちゃ敏感だったじゃん」
「確かにな。そもそも、女子と絶対に二人きりにならないようにしてたのにな、あいつ」
二人のやりとりを聞きながら、俺は五十嵐のスマホの中で再生される動画から目が離せなかった。
――俺のせいだ。
的場に何も言い返せず固まるしかできなかった俺を、暁斗は助けてくれた。それなのに、どうして暁斗がこんな目に遭わなくちゃならないんだ。
なんとかしなくちゃ、と考えるより先に体が動く。きびすを返して教室を出ると、後ろから「瀬田、もう授業始まるけど」と五十嵐の戸惑った声がした。
「サボる!」
叫ぶように言い残して廊下を駆ける。自主的にサボるのなんて初めてだな、と頭の隅で思った。
ゼミ選考の面接で、一度だけ訪れた松橋先生の研究室に着く頃。たくさんの感情でぐちゃぐちゃだった頭が急に冷えて、「松橋」と名札のかかったドアの前で立ちすくんだ。
――ゼミ生とはいえ、研究室にいるわけないよな。基本的には教授の部屋だし。
――そもそも、万が一研究室にいたところで、なんて声かけたらいいんだ。
ぐるぐる考えているうちに、なんだかすごく的外れなことをしている気がしてきた。でも、他に手がかりがない。あの人がどの授業を取っているかも知らないのだから。
いっそ手当たり次第に教室を覗いてみるか、目立つ髪色だし見つけやすいだろ……とまで考えた時だった。廊下の曲がり角の向こうから、一人の女子が現れる。まっすぐこちらに歩いてくると、俺に気づいて足を止めた。
「あれ、えっと……瀬田くんだよね。どうしたの?」
尋ねた彼女は、落ち着いた茶色の髪をしていたけれど。見覚えのある華やかな顔立ちに、思わず「あ」と声を上げた。
「……竹本さん」
「あ、覚えててくれたんだ」
ニコッと笑って、竹本さんは「うちのゼミ面接受けたんだっけ?」と続ける。
「先生言ってたよ、あんなに優秀な子がうちに来るなんて意外だって。好きなことしか興味持てないしやる気も出ない、って学生ばっかりだからさ、うちのゼミ。だから悲惨なのよね、評定が」
「あの、お話があって。……出回ってる動画のことで」
さえぎると、竹本さんはスッと笑顔を消した。目を伏せて、「ああ、あれ」と低くつぶやく。
「びっくりだよね、ほんと。私はよく知らなかったけど、あの人って有名なアイドルなんだって? それで炎上目的であんな……誰がやったのか知らないけど、ほんと最低。瀬田くんは映ってなくてよかったよね。……で、話って何?」
「あの動画は事実無根だって、あのSNSで言ってほしいんです」
「へ?」
竹本さんは一瞬、何を言われたのかわからないといった顔になった。けれどすぐに、
「……いやいや、なんで? 無理だよ」
と、心底困惑したように言う。俺は「お願いします」と必死に言いつのった。
「暁斗は……俺の友達は、あの時俺をかばってくれたのに。それが、あんなふうに炎上させられるなんて。でも、あの場に俺は映ってないわけだし、竹本さんが言わないと説得力がないと思って」
「だから無理だってば!」
強い声が廊下に反響する。びっくりして口をつぐんだ俺を、竹本さんはキッとにらんだ。
「なんでそんなことしなくちゃならないの? 私だって被害者なのに。リプライ欄見た? 彼女だの好きピだのあることないこと書かれて、動画アップされた昨日のうちに学部と名字まで特定されてんだよ私。だから怖くて、今朝急いで髪染めて……就活だってそろそろ始まるのに、これ以上巻きこまれたくない」
震える声を聞くうちに、竹本さんの目の下にクマが浮いていることに気づいた。わけもわからず炎上に巻きこまれて、昨夜は恐怖で眠れなかったのかもしれない。
――そこで俺は、どれだけ自分が無神経なことを言ったのかを思い知った。
「……すみません」
心からそう言った。竹本さんはしばらく肩で息をしていたけれど、はっとした顔になって「ごめん、私こそ。八つ当たりだわ、こんなの」とうつむく。
「三橋くんだっけ? あの人が、瀬田くんのためにああしたことはわかってるよ。あの時も、瀬田くんとの関係はよくわからなかったけど、いい人だなって思った。……でも、協力はできない。三橋くんもさ、大学の中であんな目立つことして……正直、アイドルのくせに脇が甘いっていうか、自業自得じゃんとも思っちゃうもん」
竹本さんはうつむいたまま、研究室のドアをノックする。「はい」と返事が聞こえると同時に、「ごめんね」とつぶやいた。
「もしゼミ入れたら、その時はよろしくね。……失礼します、先生」
後半は研究室のドアを開けながら、竹本さんは言った。華奢な後ろ姿が室内に消えてからも、しばらく俺はその場から動けなかった。
ドアを開けるなり、夏目のいつになく低い声が聞こえてびっくりした。十一月を迎えてまもない火曜日、いつものように必修授業の教室に入った矢先の出来事だった。
入り口近くの定位置に座った五十嵐と夏目は、スマホを片手にこわばった顔をしている。……こんな二人、初めて見た。他のクラスメイトたちもそれぞれの席でスマホを覗きこみ、ひそひそと何かささやき合っている。
――なんか変だ。
教室に漂う空気の異様さにひるんだ時、五十嵐が静かに言った。
「落ち着け、夏目」
「いや航大、なんでそんな冷静なわけ!? 炎上してんだぞ、暁斗が!」
張り詰めた夏目の声に、リュックの肩紐を握る手が震える。エンジョウ、という音を脳内で正しく変換できた頃には、体が勝手に動いていた。
「炎上ってどういうこと」
五十嵐と夏目の間に割り込むようにして、机に勢いよく手を突いてしまう。バンッと思いのほか大きい音が響いて、二人がびっくりした顔で俺を見た。
「……瀬田、トゥイッター見てない?」
「見てない。SNSなんもやってないし、俺」
俺の答えに、夏目は「マジ? そんな大学生いるんだ」と目を見開く。五十嵐までもが「絶滅危惧種だな」とつぶやいた。
「そんなに変? ……じゃなくて、炎上ってどういう」
問いかけは途中で浮いた。五十嵐がずいとスマホを見せてきたからだ。
画面には、SNSに投稿された動画が表示されている。目をこらして、息を呑んだ。画質は荒かったけれど、暁斗と的場が向かい合って映っているのがわかった。
ゼミ説明会の日に起きた、ちょっとした事件の記憶がよみがえる。ピンク髪の先輩……確か、竹本さんだっけ。あの人が的場に絡まれていて、俺がそれを止めようとして返り討ちにあって。そんな俺を、暁斗が助けてくれた。……それが、なぜか五十嵐のスマホの中に映し出されている。
――誰かが隠れて撮ってたんだ。
誰が、どうして、なんで……そんな言葉が次から次へと頭に浮かんだけれど。動画とともに投稿された文章を読んだら、疑問は全部はじけ飛んでしまった。
〈三橋暁斗、ちょっと前に大学で修羅場ってた この頃にはデビュー決まってたっぽいのに危機感薄くね? そして女かわいくて普通にムカつく〉
せせら笑う声が聞こえてきそうな、悪意のにじむ文章だった。投稿者の意図がつかめた俺はめまいを覚える。
投稿者は、あの時の俺たちを真横から撮っていたらしい。的場に迫る暁斗の後ろには、竹本さんがばっちり映っている。そして的場の背後にいたはずの俺は、綺麗に存在を消されていた。
編集か、あるいは最初から映していなかったのか。なんにしても、俺が消されたことで「男二対女一」の図になった動画は、一見すると「女の取り合い」に見えなくもない。
「音声ありで見るとわかるんだけど……暁斗がさ、この男相手に啖呵切ってるっていうか……とにかく、すごい熱くなってんだよ。こいつのこと何も知らないくせに、みたいな。どういう状況なのか、本当のところは暁斗に聞かないとわからんけど。ネットでは大炎上してる」
五十嵐が淡々と説明する。よく見ると、スマホを握る指の先が力んで白くなっていた。平静そうに見えて、五十嵐も動揺しているらしいのがわかった。
「暁斗に彼女なんているわけない。いるなら、俺たちが知らないはずないじゃん」
夏目が珍しく語気を強めて言う。五十嵐は「関係ないだろ、そんなの」と首を振った。
「事実がどうあれ、暁斗が女を男からかばってて、しかも妙に熱くなってるのは確かなんだから。それだけで燃料としては十分だ」
「そんなのわかってるけどさあ……にしても、あいつがこんなとこ撮られるなんて意外っていうか、変じゃね? 撮られることにめちゃくちゃ敏感だったじゃん」
「確かにな。そもそも、女子と絶対に二人きりにならないようにしてたのにな、あいつ」
二人のやりとりを聞きながら、俺は五十嵐のスマホの中で再生される動画から目が離せなかった。
――俺のせいだ。
的場に何も言い返せず固まるしかできなかった俺を、暁斗は助けてくれた。それなのに、どうして暁斗がこんな目に遭わなくちゃならないんだ。
なんとかしなくちゃ、と考えるより先に体が動く。きびすを返して教室を出ると、後ろから「瀬田、もう授業始まるけど」と五十嵐の戸惑った声がした。
「サボる!」
叫ぶように言い残して廊下を駆ける。自主的にサボるのなんて初めてだな、と頭の隅で思った。
ゼミ選考の面接で、一度だけ訪れた松橋先生の研究室に着く頃。たくさんの感情でぐちゃぐちゃだった頭が急に冷えて、「松橋」と名札のかかったドアの前で立ちすくんだ。
――ゼミ生とはいえ、研究室にいるわけないよな。基本的には教授の部屋だし。
――そもそも、万が一研究室にいたところで、なんて声かけたらいいんだ。
ぐるぐる考えているうちに、なんだかすごく的外れなことをしている気がしてきた。でも、他に手がかりがない。あの人がどの授業を取っているかも知らないのだから。
いっそ手当たり次第に教室を覗いてみるか、目立つ髪色だし見つけやすいだろ……とまで考えた時だった。廊下の曲がり角の向こうから、一人の女子が現れる。まっすぐこちらに歩いてくると、俺に気づいて足を止めた。
「あれ、えっと……瀬田くんだよね。どうしたの?」
尋ねた彼女は、落ち着いた茶色の髪をしていたけれど。見覚えのある華やかな顔立ちに、思わず「あ」と声を上げた。
「……竹本さん」
「あ、覚えててくれたんだ」
ニコッと笑って、竹本さんは「うちのゼミ面接受けたんだっけ?」と続ける。
「先生言ってたよ、あんなに優秀な子がうちに来るなんて意外だって。好きなことしか興味持てないしやる気も出ない、って学生ばっかりだからさ、うちのゼミ。だから悲惨なのよね、評定が」
「あの、お話があって。……出回ってる動画のことで」
さえぎると、竹本さんはスッと笑顔を消した。目を伏せて、「ああ、あれ」と低くつぶやく。
「びっくりだよね、ほんと。私はよく知らなかったけど、あの人って有名なアイドルなんだって? それで炎上目的であんな……誰がやったのか知らないけど、ほんと最低。瀬田くんは映ってなくてよかったよね。……で、話って何?」
「あの動画は事実無根だって、あのSNSで言ってほしいんです」
「へ?」
竹本さんは一瞬、何を言われたのかわからないといった顔になった。けれどすぐに、
「……いやいや、なんで? 無理だよ」
と、心底困惑したように言う。俺は「お願いします」と必死に言いつのった。
「暁斗は……俺の友達は、あの時俺をかばってくれたのに。それが、あんなふうに炎上させられるなんて。でも、あの場に俺は映ってないわけだし、竹本さんが言わないと説得力がないと思って」
「だから無理だってば!」
強い声が廊下に反響する。びっくりして口をつぐんだ俺を、竹本さんはキッとにらんだ。
「なんでそんなことしなくちゃならないの? 私だって被害者なのに。リプライ欄見た? 彼女だの好きピだのあることないこと書かれて、動画アップされた昨日のうちに学部と名字まで特定されてんだよ私。だから怖くて、今朝急いで髪染めて……就活だってそろそろ始まるのに、これ以上巻きこまれたくない」
震える声を聞くうちに、竹本さんの目の下にクマが浮いていることに気づいた。わけもわからず炎上に巻きこまれて、昨夜は恐怖で眠れなかったのかもしれない。
――そこで俺は、どれだけ自分が無神経なことを言ったのかを思い知った。
「……すみません」
心からそう言った。竹本さんはしばらく肩で息をしていたけれど、はっとした顔になって「ごめん、私こそ。八つ当たりだわ、こんなの」とうつむく。
「三橋くんだっけ? あの人が、瀬田くんのためにああしたことはわかってるよ。あの時も、瀬田くんとの関係はよくわからなかったけど、いい人だなって思った。……でも、協力はできない。三橋くんもさ、大学の中であんな目立つことして……正直、アイドルのくせに脇が甘いっていうか、自業自得じゃんとも思っちゃうもん」
竹本さんはうつむいたまま、研究室のドアをノックする。「はい」と返事が聞こえると同時に、「ごめんね」とつぶやいた。
「もしゼミ入れたら、その時はよろしくね。……失礼します、先生」
後半は研究室のドアを開けながら、竹本さんは言った。華奢な後ろ姿が室内に消えてからも、しばらく俺はその場から動けなかった。
