叶わぬ恋に絶望しようと、等しく朝はやって来る。俺は次の日もいつもと同じ時間にアラームを止め、メイクをして電車に乗り、キツネの庭でのバイトに励んだ。
忙しく過ごせば絶望も忘れられると思ったのに、今日に限って暇だった。一時を回った頃には雨が降り始め、客足も途絶えて店内は無人になる。
仕方なく、フロアの掃除と備品の補充をすることにした。床をモップで磨き上げ、普段は手が回らない換気扇やエアコンの掃除も終えてから、客席の備品チェックに入る。そうして、エプロンのポケットから補充用の紙ナプキンを取り出した時だった。
「瀬田くん、なんか落ちたけど」
「え? わ、すみません」
呼びかけに反応する頃には、声の主――先輩バイトの林さんが、床にかがんで落とし物を拾ってくれていた。あわてて礼を言う俺に、林さんは「はい」と手の中のものを渡す。
「このエプロン、ポケット深いからなんでも入れちゃうよな。でも落とし物には注意して」
「あ……はい、気をつけます」
半分うわの空で答えた。手渡されたのは、水色の蓋のリップクリームだった。かつて暁斗に塗ってもらって、「新品だからあげる」とそのまま渡されたものだ。少し前にポケットに入れたきり、すっかり忘れてしまっていた。
『ここまでメイクさせてくれたお礼ってことで』
微笑んだ暁斗の顔を思い出すと、また胸が苦しくなってくる。あの日からまだ二カ月くらいしか経っていないのに、なんだかはるか昔の出来事みたいに思えた。
「瀬田くん、ひょっとして元気ない? 俺でよければ話聞くよ」
林さんが俺の顔を覗きこむ。ぱっちりした目に、心配そうな色が浮かんでいた。シフトが被りがちとはいえ、林さんとはまだそこまで打ち解けられたわけではない。けれど俺は、迷った末に口を開いていた。
「あの、失恋したっぽくて」
これくらいの距離感の人なら、気楽に聞いてくれるだろう。そう思ってのことだったけど、「失恋」というワードに林さんは「えっ」とわかりやすく動揺する。
「瀬田くんでも振られることあんの?」
「振られるっていうか……告白する前から結果が見えてるって感じで」
「お、おお……よくわからんけど、つらい話だなそれは」
林さんは言って、「ちょっと待ってな」とキッチンに引っこんだ。しばらくして、クリームソーダを手に戻ってくる。なぜかアイスとチェリーが二つずつ乗っていた。
「あの、なんですかこれ。きょうのまかないですか?」
「違う、失恋仕様のスペシャルメニュー。俺はこういう時ヤケ酒するんだけど、瀬田くん未成年だろ。だから、これ飲んでつらい恋のことなんて忘れな」
からかわれてるのかと思ったけど、林さんは至極まじめな顔だった。思わず噴き出した俺に、林さんはグラスを押しつけ「はい飲んで飲んで」と近くの席の椅子を引く。
座ってクリームソーダを飲みながら、なるほど、こういう時にヤケ酒をするもんなんだな、と妙に納得した。あるいはめちゃくちゃ高級な飯を食べる、とかだろうか。だけど俺は林さんの言うようにまだ十九歳で酒は飲めない。食にもそんなに興味はない。失恋の傷を癒す手段がわからないから、いつもと同じ生活を粛々と送るしかなかったんだと今さら思う。
――俺って、つまらない人間なんだな。
メイクを覚えて、人と話せるようになって、世界が広がったのは確かだけれど。失恋の傷を忘れるほどの趣味もないし、思いきって羽目を外すこともできない。そういうところも、的場が「空気読めなくて頭固い」と罵倒したゆえんかもしれない。
――だけど暁斗は、そんな俺を否定しなかった。
「まっすぐで正直で、見て見ぬふりをしない」……そんなふうに、俺がまるでとても綺麗な人間であるかのように言ってくれた。
――ああ、やっぱり好きだ。
体の全部が、心臓に向かってきゅーっと縮んでいくような苦しさを覚える。もう一口飲んだクリームソーダの炭酸がツンと鼻を刺激して、あ、と思う間もなく涙が出た。
――うわ、うわうわ。
泣きたくなんてなかったのに。止まれと思えば思うほど、涙は制御不能になってどんどんあふれ出す。
「え、ちょ、瀬田くん!?」
林さんのあわてた声が耳に届く。ぼやけた視界の端に、見慣れたキッチンシューズのつま先が映った。
「ど、どうした!?「
「……すみません、大丈夫ですから」
「大丈夫じゃないだろどう見ても! 店長、瀬田くんもう上がりでいいっすよね?」
いいわよー、という店長の声に、正直ホッとした。こんな状態では、とうてい接客なんてできないだろうから。
「林さん、迷惑かけてすみません」
「いや、迷惑なんてことはないけどさ。……そんなに好きな人だったの?」
「好きです」
思わず顔を上げた。驚きをたたえた、林さんの大きな目がすぐそばにある。
「叶わないってわかってても、苦しくても、好きなんです」
言葉にするとまた涙があふれ出た。林さんはためらうような間を置いてから、「そっか」とだけつぶやいた。全部の感情を削ぎ落としたような、乾いた声だったけれど。手を伸ばして、俺の涙をぬぐってくれる。
カラン、と出入り口のドアベルが鳴ったのはその時だった。
俺と林さんはそろってそちらを見る。ドアノブに手をかけたまま固まっている、背の高い影を認めたとたん。目の奥が熱くなって、また涙があふれるのがわかった。
「あ、暁斗……?」
名前を呼ぶと、硬直していた暁斗の肩がビクッと跳ねた。そのまま、なぜか気まずそうに小さく笑う。いつものごとくマスク姿だったけど、俺にはそれがわかった。
「えっと……お邪魔、ですよね。失礼しました」
「え?」
「は?」
同時に声を上げた俺たちの前で、暁斗はすばやく身をひるがえした。さっきまで固まっていたのがうそみたいに機敏な動きだ。ドアが閉まり、店内に静寂が訪れる。
――お邪魔、とは。
他にもいろいろ気になることはあったけれど、その言葉が一番引っかかってしまう。首をひねっていたら、林さんが口を開いた。
「瀬田くんのお友達だよね、彼。……追いかけたほうがいいかもしれないぞ」
「え、どうしてです」
「……絶対に誤解されたから」
はあ、と林さんがため息をつく。かと思えば「ていうか!」と顔を寄せてきたから、びっくりして座った椅子ごとあとずさってしまう。
「彼だろ、好きな人」
「へ!? な、あの、な、なんでわかるんですか」
なんの前置きもなく言い当てられて、ごまかしも言い訳もできなかった。林さんはもう一度ため息をつく。
「顔見りゃわかる、そんなの。ほら、早く追いかけな。叶わない恋だろうと、誤解されっぱなしはキツいって」
「あ、あの」
「いいから行け」
バシンと背中をたたかれ、そのままエプロンを手際よく外される。戸惑い、ためらう心とはうらはらに、体は勝手に動いた。
ドアを押し開け、団地の間の細い通りに出る。そぼ降る雨の中、傘も差さずに俺は走った。
走り出してわりとすぐに暁斗は見つかった。大通りとの交差点、ビニール傘の下で信号待ちをしている後ろ姿に、俺は「暁斗!」と声を上げる。
「夕也、なんで」
振り向いた暁斗は驚いた顔で、俺を傘に入れてくれる。
「……来てくれたのに、なんですぐ帰っちゃうんだよ」
なんだかすねたような言い方になってしまった。「いやごめん、忙しいのはわかってるけど!」と付け足した俺に、暁斗は目を伏せて「だって」と小さくつぶやく。
「その……邪魔かなって……」
「え? なんでだよ」
「さっきの人と、夕也……つ、つき合ってたりすんのかなって」
「は!?」
予想の斜め上を行く言葉に、思わず大声を上げてしまう。そんな俺に対抗するように、暁斗は「だって!」と声を張り上げた。
「めちゃくちゃ距離近かったし! 手添えてただろ、顔に!」
どういうわけか、暁斗自身もその言葉に動揺しているようだった。マスクの上で、目が泳ぎまくっている。
「あれは、俺が泣いてたから……」
「え、何、泣かされたってこと!? パワハラ!?」
「違うって! あーもう、全部誤解だからとにかく! あの人はただのバイトの先輩! ちょっといろいろあって、俺が泣いたのを慰めてくれただけ!」
「いろいろってなんだよ、そこ一番気になるわ!」
――言えるかよ。
お前が好きで、だけど伝えるわけにはいかなくて。それなのに、気持ちはまったく消えてくれないのがどうしようもなくつらい。今こうしている間も、心臓がそわそわして仕方がない、だなんて。
「……バイトのことだから、言えない」
目を見ていられなくなってうつむく。つむじのあたりに強い視線を感じたけれど、俺は顔を上げられなかった。
暁斗は、俺を気遣い心配してくれたのに。それを拒んで、切り捨てるような言葉になってしまった自覚はある。だけど、暁斗にこの気持ちは絶対に伝えられないし、悟られるわけにもいかない。
しばらく、サーという雨音だけが響いていた。そうして何分が経っただろう。おもむろに暁斗が「ごめん」とつぶやいた。
「……友達だからって、首突っ込みすぎた。どこで何してたって、夕也の自由なのにな」
消え入りそうな声に、顔を上げる。けれど暁斗は声に反して、穏やかな表情をしていた。
目が合うと、かすかに笑ってくれる。マスクで顔の半分以上が隠れているのに、それがわかる。やっぱり俺は暁斗が好きなんだなあ、と他人事みたいに思った。
ショルダーバッグから、暁斗はビニール封筒に包まれた冊子を取り出した。ノートと同じくらいの大きさで、リーフレットというには厚いけれど雑誌にも見えない。表紙に暁斗が写っているのを確かめたところで、「あげる」とそれを差し出された。
「個人の仕事が決まったんだ。ずっとやりたかった仕事で。……最初に、夕也に伝えたかった」
雨音の中で、その声はふわりと浮き上がって聞こえた。言葉の意味が脳に到達すると同時に、「え」と声がこぼれ落ちる。そんな俺に、暁斗は「それだけ、用」と笑ってみせた。
「じゃあな。雨でメイク落ちやすくなってると思うから、気をつけて帰れよ」
傘を俺に押しつけて、暁斗は駆け出す。その後ろ姿が横断歩道を渡り、タクシーを拾うのが見えた時、ようやく俺は受け取った冊子に目を落とした。
「……あ」
表紙の暁斗は、黒い円柱型の容器を手に微笑んでいる。白い手の中に収まるそれが化粧品だとわかったのは、俺の家の洗面所にまったく同じものがあるからだ。
――かつて暁斗が傷跡を隠すために選んでくれて、今や俺の必需品となった、老舗メーカーのファンデーションだった。
〈Love Sick三橋暁斗 ブランドアンバサダーに就任〉
暁斗の写真に添えられた一文から、俺はしばらく目が離せなかった。
家まで待てず、帰りの電車内で冊子を開く。メーカーが顧客に向けて作っている広報誌らしく、新商品の案内や開発秘話といった内容がしばらく続いたあと、暁斗の写真がいきなり見開きで現れた。
ヒュッと跳ねた心臓が落ち着くのを待って、ページの端に書かれた文章を読む。
〈舞台メイクを展開してきたミツミネ化粧品の、六十周年記念企画としてスタートした新ブランド『Muse』。発売とともに大きな反響を呼んだ当ブランドは、話題沸騰中アイドルグループ『Love Sick』の三橋暁斗さんをブランドアンバサダーに迎えました〉
〈透明感のある素肌が魅力の三橋さんは、実はコスメもメイクも大好きだそう。自ら『メイクオタク』と称する三橋さんに、メイクにまつわる思い出や愛を語っていただきました〉
ページをめくると、笑う暁斗のカットが目に飛びこんできた。久しく見ていない満開の笑顔に、胸がつと痛くなる。それでも俺は、写真を穴が空くほどながめ、小さな文字のインタビューもていねいに読みこんだ。暁斗がやりたかった仕事だというなら、一文字だって見逃したくなかった。
インタビューは、初めて知ることばかり書かれていた。
先輩グループのバックダンサーとして初めてコンサートに出演した時、メイクも初めて体験したこと。
鏡に映る自分がいつもの何倍もかっこよく見えて、メイクの魅力に触れたこと。
自分でメイクができるようになるまで、グループのメンバーたちと鏡の前で何度も練習したこと。
そうした思い出を語る文章の中には時折、暁斗のメイク愛がにじみ出ている箇所があったりして。文字を追いながら、思わず笑ってしまう。
そんな時だった。俺の目は、インタビュー後半のある文章に釘づけになった。
〈アンバサダーのお話をいただいた時は、飛び上がるくらい嬉しかったです。実は『Muse』は発売直後に個人的に買わせていただいたので。メイクをあまり知らなかった、男性の友人にお勧めしたんです〉
〈友人は、性格も外見もすごく魅力的な人なんですけど、当時は自分に自信が持てずにいて。でも、『Muse』でメイクをするようになってから、すごく生き生きとしています。僕から見ても、彼は何倍もかっこよく綺麗になった。メイクは人に勇気や自信をくれますが、彼を見ていて『Muse』の持つ力は別格だと感じました。それで、たくさんの人に『Muse』を勧めていたので、こうしてお仕事に結びついたのかと――〉
ふいに、目の奥が熱くなった。みるみるうちに視界の隅が潤み始めて、あわてて上を向いてまばたきをする。
――嬉しかった。
魅力的だ、と暁斗が言ってくれたことではなく。……いや、それももちろん嬉しいけれど。暁斗が俺をきっかけに、大好きなメイクの仕事をつかんだことが、たまらなく嬉しかった。
――メイクを覚えても、友達が増えても、俺の根っこの部分はやっぱり固くてまじめでつまらない人間なのかもしれない。
それでも、そんな俺が暁斗の夢を叶える一助になれたのだとしたら。それだけで、もう十分だと思った。まるで心の奥深いところに、キラキラとした光がいくつも灯ったような気持ちだ。
胸にひたすら降り積もる、暁斗への思いが伝えられなくても。……この思い出だけで、俺は生きていける。暁斗が好きだという気持ちを秘めたまま、この先もずっと。
――それでいいんだ、伝えられなくたって。
冊子を開いたまま、俺は静かに決意する。もう、暁斗に会うのはやめにしよう。思い出だけを胸に、生きていこうと。……一緒にい続けたら、いつかこの気持ちを伝えたくなってしまうかもしれないから。
車内アナウンスが最寄り駅への接近を告げる。俺は冊子をそっと閉じ、リュックにていねいにしまってから立ち上がった。
バイトに励み、テレビでデビュー曲を披露する暁斗をながめ、たまに五十嵐たちと履修登録やゼミ選考の相談をするうちに、長い夏休みは終わった。
後期授業が始まっても、必修のクラスに暁斗は現れない。クラスメイトたちは「三橋くんとうとうデビューしたね」「一生デビューせんやんとか思ってたけどね」などと口々にしゃべり、俺は暁斗と入れ替わるようにして五十嵐たちのとなりに座った。
「どういう関係?」と、主に女子から聞かれたのも最初のうちだけだ。クラスメイトたちはしだいに、暁斗のいない教室にも、急に距離を縮めた俺たち三人にも慣れていって。一カ月も経つ頃には、誰も暁斗の話をしなくなっていた。ゼミ選考が本格的に始まって、課題と面接でみんな忙しかったからかもしれない。
「あいつ、何送ってもずっと未読だよなー。ちゃんと休めてんのかな」
「さあな。テレビで見るぶんには元気そうだけど」
夏目と五十嵐は、いつも心配そうにしている。当然ながら、俺にも暁斗からの連絡はない。暁斗に会わずにいたい俺としては好都合なのだけど。
――教室に暁斗がいたことも。俺と仲良くなってくれたことも。なんだか全部夢みたいだ。
そんなふうに、せつなく思っていた時期のことだった。……暁斗の名前が、またクラスメイト達の間でささやかれるようになったのは。
忙しく過ごせば絶望も忘れられると思ったのに、今日に限って暇だった。一時を回った頃には雨が降り始め、客足も途絶えて店内は無人になる。
仕方なく、フロアの掃除と備品の補充をすることにした。床をモップで磨き上げ、普段は手が回らない換気扇やエアコンの掃除も終えてから、客席の備品チェックに入る。そうして、エプロンのポケットから補充用の紙ナプキンを取り出した時だった。
「瀬田くん、なんか落ちたけど」
「え? わ、すみません」
呼びかけに反応する頃には、声の主――先輩バイトの林さんが、床にかがんで落とし物を拾ってくれていた。あわてて礼を言う俺に、林さんは「はい」と手の中のものを渡す。
「このエプロン、ポケット深いからなんでも入れちゃうよな。でも落とし物には注意して」
「あ……はい、気をつけます」
半分うわの空で答えた。手渡されたのは、水色の蓋のリップクリームだった。かつて暁斗に塗ってもらって、「新品だからあげる」とそのまま渡されたものだ。少し前にポケットに入れたきり、すっかり忘れてしまっていた。
『ここまでメイクさせてくれたお礼ってことで』
微笑んだ暁斗の顔を思い出すと、また胸が苦しくなってくる。あの日からまだ二カ月くらいしか経っていないのに、なんだかはるか昔の出来事みたいに思えた。
「瀬田くん、ひょっとして元気ない? 俺でよければ話聞くよ」
林さんが俺の顔を覗きこむ。ぱっちりした目に、心配そうな色が浮かんでいた。シフトが被りがちとはいえ、林さんとはまだそこまで打ち解けられたわけではない。けれど俺は、迷った末に口を開いていた。
「あの、失恋したっぽくて」
これくらいの距離感の人なら、気楽に聞いてくれるだろう。そう思ってのことだったけど、「失恋」というワードに林さんは「えっ」とわかりやすく動揺する。
「瀬田くんでも振られることあんの?」
「振られるっていうか……告白する前から結果が見えてるって感じで」
「お、おお……よくわからんけど、つらい話だなそれは」
林さんは言って、「ちょっと待ってな」とキッチンに引っこんだ。しばらくして、クリームソーダを手に戻ってくる。なぜかアイスとチェリーが二つずつ乗っていた。
「あの、なんですかこれ。きょうのまかないですか?」
「違う、失恋仕様のスペシャルメニュー。俺はこういう時ヤケ酒するんだけど、瀬田くん未成年だろ。だから、これ飲んでつらい恋のことなんて忘れな」
からかわれてるのかと思ったけど、林さんは至極まじめな顔だった。思わず噴き出した俺に、林さんはグラスを押しつけ「はい飲んで飲んで」と近くの席の椅子を引く。
座ってクリームソーダを飲みながら、なるほど、こういう時にヤケ酒をするもんなんだな、と妙に納得した。あるいはめちゃくちゃ高級な飯を食べる、とかだろうか。だけど俺は林さんの言うようにまだ十九歳で酒は飲めない。食にもそんなに興味はない。失恋の傷を癒す手段がわからないから、いつもと同じ生活を粛々と送るしかなかったんだと今さら思う。
――俺って、つまらない人間なんだな。
メイクを覚えて、人と話せるようになって、世界が広がったのは確かだけれど。失恋の傷を忘れるほどの趣味もないし、思いきって羽目を外すこともできない。そういうところも、的場が「空気読めなくて頭固い」と罵倒したゆえんかもしれない。
――だけど暁斗は、そんな俺を否定しなかった。
「まっすぐで正直で、見て見ぬふりをしない」……そんなふうに、俺がまるでとても綺麗な人間であるかのように言ってくれた。
――ああ、やっぱり好きだ。
体の全部が、心臓に向かってきゅーっと縮んでいくような苦しさを覚える。もう一口飲んだクリームソーダの炭酸がツンと鼻を刺激して、あ、と思う間もなく涙が出た。
――うわ、うわうわ。
泣きたくなんてなかったのに。止まれと思えば思うほど、涙は制御不能になってどんどんあふれ出す。
「え、ちょ、瀬田くん!?」
林さんのあわてた声が耳に届く。ぼやけた視界の端に、見慣れたキッチンシューズのつま先が映った。
「ど、どうした!?「
「……すみません、大丈夫ですから」
「大丈夫じゃないだろどう見ても! 店長、瀬田くんもう上がりでいいっすよね?」
いいわよー、という店長の声に、正直ホッとした。こんな状態では、とうてい接客なんてできないだろうから。
「林さん、迷惑かけてすみません」
「いや、迷惑なんてことはないけどさ。……そんなに好きな人だったの?」
「好きです」
思わず顔を上げた。驚きをたたえた、林さんの大きな目がすぐそばにある。
「叶わないってわかってても、苦しくても、好きなんです」
言葉にするとまた涙があふれ出た。林さんはためらうような間を置いてから、「そっか」とだけつぶやいた。全部の感情を削ぎ落としたような、乾いた声だったけれど。手を伸ばして、俺の涙をぬぐってくれる。
カラン、と出入り口のドアベルが鳴ったのはその時だった。
俺と林さんはそろってそちらを見る。ドアノブに手をかけたまま固まっている、背の高い影を認めたとたん。目の奥が熱くなって、また涙があふれるのがわかった。
「あ、暁斗……?」
名前を呼ぶと、硬直していた暁斗の肩がビクッと跳ねた。そのまま、なぜか気まずそうに小さく笑う。いつものごとくマスク姿だったけど、俺にはそれがわかった。
「えっと……お邪魔、ですよね。失礼しました」
「え?」
「は?」
同時に声を上げた俺たちの前で、暁斗はすばやく身をひるがえした。さっきまで固まっていたのがうそみたいに機敏な動きだ。ドアが閉まり、店内に静寂が訪れる。
――お邪魔、とは。
他にもいろいろ気になることはあったけれど、その言葉が一番引っかかってしまう。首をひねっていたら、林さんが口を開いた。
「瀬田くんのお友達だよね、彼。……追いかけたほうがいいかもしれないぞ」
「え、どうしてです」
「……絶対に誤解されたから」
はあ、と林さんがため息をつく。かと思えば「ていうか!」と顔を寄せてきたから、びっくりして座った椅子ごとあとずさってしまう。
「彼だろ、好きな人」
「へ!? な、あの、な、なんでわかるんですか」
なんの前置きもなく言い当てられて、ごまかしも言い訳もできなかった。林さんはもう一度ため息をつく。
「顔見りゃわかる、そんなの。ほら、早く追いかけな。叶わない恋だろうと、誤解されっぱなしはキツいって」
「あ、あの」
「いいから行け」
バシンと背中をたたかれ、そのままエプロンを手際よく外される。戸惑い、ためらう心とはうらはらに、体は勝手に動いた。
ドアを押し開け、団地の間の細い通りに出る。そぼ降る雨の中、傘も差さずに俺は走った。
走り出してわりとすぐに暁斗は見つかった。大通りとの交差点、ビニール傘の下で信号待ちをしている後ろ姿に、俺は「暁斗!」と声を上げる。
「夕也、なんで」
振り向いた暁斗は驚いた顔で、俺を傘に入れてくれる。
「……来てくれたのに、なんですぐ帰っちゃうんだよ」
なんだかすねたような言い方になってしまった。「いやごめん、忙しいのはわかってるけど!」と付け足した俺に、暁斗は目を伏せて「だって」と小さくつぶやく。
「その……邪魔かなって……」
「え? なんでだよ」
「さっきの人と、夕也……つ、つき合ってたりすんのかなって」
「は!?」
予想の斜め上を行く言葉に、思わず大声を上げてしまう。そんな俺に対抗するように、暁斗は「だって!」と声を張り上げた。
「めちゃくちゃ距離近かったし! 手添えてただろ、顔に!」
どういうわけか、暁斗自身もその言葉に動揺しているようだった。マスクの上で、目が泳ぎまくっている。
「あれは、俺が泣いてたから……」
「え、何、泣かされたってこと!? パワハラ!?」
「違うって! あーもう、全部誤解だからとにかく! あの人はただのバイトの先輩! ちょっといろいろあって、俺が泣いたのを慰めてくれただけ!」
「いろいろってなんだよ、そこ一番気になるわ!」
――言えるかよ。
お前が好きで、だけど伝えるわけにはいかなくて。それなのに、気持ちはまったく消えてくれないのがどうしようもなくつらい。今こうしている間も、心臓がそわそわして仕方がない、だなんて。
「……バイトのことだから、言えない」
目を見ていられなくなってうつむく。つむじのあたりに強い視線を感じたけれど、俺は顔を上げられなかった。
暁斗は、俺を気遣い心配してくれたのに。それを拒んで、切り捨てるような言葉になってしまった自覚はある。だけど、暁斗にこの気持ちは絶対に伝えられないし、悟られるわけにもいかない。
しばらく、サーという雨音だけが響いていた。そうして何分が経っただろう。おもむろに暁斗が「ごめん」とつぶやいた。
「……友達だからって、首突っ込みすぎた。どこで何してたって、夕也の自由なのにな」
消え入りそうな声に、顔を上げる。けれど暁斗は声に反して、穏やかな表情をしていた。
目が合うと、かすかに笑ってくれる。マスクで顔の半分以上が隠れているのに、それがわかる。やっぱり俺は暁斗が好きなんだなあ、と他人事みたいに思った。
ショルダーバッグから、暁斗はビニール封筒に包まれた冊子を取り出した。ノートと同じくらいの大きさで、リーフレットというには厚いけれど雑誌にも見えない。表紙に暁斗が写っているのを確かめたところで、「あげる」とそれを差し出された。
「個人の仕事が決まったんだ。ずっとやりたかった仕事で。……最初に、夕也に伝えたかった」
雨音の中で、その声はふわりと浮き上がって聞こえた。言葉の意味が脳に到達すると同時に、「え」と声がこぼれ落ちる。そんな俺に、暁斗は「それだけ、用」と笑ってみせた。
「じゃあな。雨でメイク落ちやすくなってると思うから、気をつけて帰れよ」
傘を俺に押しつけて、暁斗は駆け出す。その後ろ姿が横断歩道を渡り、タクシーを拾うのが見えた時、ようやく俺は受け取った冊子に目を落とした。
「……あ」
表紙の暁斗は、黒い円柱型の容器を手に微笑んでいる。白い手の中に収まるそれが化粧品だとわかったのは、俺の家の洗面所にまったく同じものがあるからだ。
――かつて暁斗が傷跡を隠すために選んでくれて、今や俺の必需品となった、老舗メーカーのファンデーションだった。
〈Love Sick三橋暁斗 ブランドアンバサダーに就任〉
暁斗の写真に添えられた一文から、俺はしばらく目が離せなかった。
家まで待てず、帰りの電車内で冊子を開く。メーカーが顧客に向けて作っている広報誌らしく、新商品の案内や開発秘話といった内容がしばらく続いたあと、暁斗の写真がいきなり見開きで現れた。
ヒュッと跳ねた心臓が落ち着くのを待って、ページの端に書かれた文章を読む。
〈舞台メイクを展開してきたミツミネ化粧品の、六十周年記念企画としてスタートした新ブランド『Muse』。発売とともに大きな反響を呼んだ当ブランドは、話題沸騰中アイドルグループ『Love Sick』の三橋暁斗さんをブランドアンバサダーに迎えました〉
〈透明感のある素肌が魅力の三橋さんは、実はコスメもメイクも大好きだそう。自ら『メイクオタク』と称する三橋さんに、メイクにまつわる思い出や愛を語っていただきました〉
ページをめくると、笑う暁斗のカットが目に飛びこんできた。久しく見ていない満開の笑顔に、胸がつと痛くなる。それでも俺は、写真を穴が空くほどながめ、小さな文字のインタビューもていねいに読みこんだ。暁斗がやりたかった仕事だというなら、一文字だって見逃したくなかった。
インタビューは、初めて知ることばかり書かれていた。
先輩グループのバックダンサーとして初めてコンサートに出演した時、メイクも初めて体験したこと。
鏡に映る自分がいつもの何倍もかっこよく見えて、メイクの魅力に触れたこと。
自分でメイクができるようになるまで、グループのメンバーたちと鏡の前で何度も練習したこと。
そうした思い出を語る文章の中には時折、暁斗のメイク愛がにじみ出ている箇所があったりして。文字を追いながら、思わず笑ってしまう。
そんな時だった。俺の目は、インタビュー後半のある文章に釘づけになった。
〈アンバサダーのお話をいただいた時は、飛び上がるくらい嬉しかったです。実は『Muse』は発売直後に個人的に買わせていただいたので。メイクをあまり知らなかった、男性の友人にお勧めしたんです〉
〈友人は、性格も外見もすごく魅力的な人なんですけど、当時は自分に自信が持てずにいて。でも、『Muse』でメイクをするようになってから、すごく生き生きとしています。僕から見ても、彼は何倍もかっこよく綺麗になった。メイクは人に勇気や自信をくれますが、彼を見ていて『Muse』の持つ力は別格だと感じました。それで、たくさんの人に『Muse』を勧めていたので、こうしてお仕事に結びついたのかと――〉
ふいに、目の奥が熱くなった。みるみるうちに視界の隅が潤み始めて、あわてて上を向いてまばたきをする。
――嬉しかった。
魅力的だ、と暁斗が言ってくれたことではなく。……いや、それももちろん嬉しいけれど。暁斗が俺をきっかけに、大好きなメイクの仕事をつかんだことが、たまらなく嬉しかった。
――メイクを覚えても、友達が増えても、俺の根っこの部分はやっぱり固くてまじめでつまらない人間なのかもしれない。
それでも、そんな俺が暁斗の夢を叶える一助になれたのだとしたら。それだけで、もう十分だと思った。まるで心の奥深いところに、キラキラとした光がいくつも灯ったような気持ちだ。
胸にひたすら降り積もる、暁斗への思いが伝えられなくても。……この思い出だけで、俺は生きていける。暁斗が好きだという気持ちを秘めたまま、この先もずっと。
――それでいいんだ、伝えられなくたって。
冊子を開いたまま、俺は静かに決意する。もう、暁斗に会うのはやめにしよう。思い出だけを胸に、生きていこうと。……一緒にい続けたら、いつかこの気持ちを伝えたくなってしまうかもしれないから。
車内アナウンスが最寄り駅への接近を告げる。俺は冊子をそっと閉じ、リュックにていねいにしまってから立ち上がった。
バイトに励み、テレビでデビュー曲を披露する暁斗をながめ、たまに五十嵐たちと履修登録やゼミ選考の相談をするうちに、長い夏休みは終わった。
後期授業が始まっても、必修のクラスに暁斗は現れない。クラスメイトたちは「三橋くんとうとうデビューしたね」「一生デビューせんやんとか思ってたけどね」などと口々にしゃべり、俺は暁斗と入れ替わるようにして五十嵐たちのとなりに座った。
「どういう関係?」と、主に女子から聞かれたのも最初のうちだけだ。クラスメイトたちはしだいに、暁斗のいない教室にも、急に距離を縮めた俺たち三人にも慣れていって。一カ月も経つ頃には、誰も暁斗の話をしなくなっていた。ゼミ選考が本格的に始まって、課題と面接でみんな忙しかったからかもしれない。
「あいつ、何送ってもずっと未読だよなー。ちゃんと休めてんのかな」
「さあな。テレビで見るぶんには元気そうだけど」
夏目と五十嵐は、いつも心配そうにしている。当然ながら、俺にも暁斗からの連絡はない。暁斗に会わずにいたい俺としては好都合なのだけど。
――教室に暁斗がいたことも。俺と仲良くなってくれたことも。なんだか全部夢みたいだ。
そんなふうに、せつなく思っていた時期のことだった。……暁斗の名前が、またクラスメイト達の間でささやかれるようになったのは。
