バイト先と家の往復で、八月は飛ぶように過ぎていった。
 店内は冷房が効いているとはいえ、休みなく働いているとかなり汗をかく。それでも俺は、前ほどメイク落ちや崩れを気にしなくなっていた。
 暁斗が教えてくれた化粧品が優秀でめったに崩れないから、というのももちろんあるけれど。一番の理由は、暁斗が言ってくれた言葉のおかげだと思う。
『まっすぐで正直で、見て見ぬふりをしないのが夕也だ。……化粧してようとしてまいと、傷があってもなくても、それが変わるわけない』
 俺にとって傷跡はずっとコンプレックスだった。だけど暁斗は、そんな傷跡ごと俺を肯定してくれた。……不思議なことに、それだけで一気に気が楽になったんだ。
 まあ、気が楽になったとはいえ、傷跡を隠さずはいられないのだけど。それでも、もしバレたとしてもその時はその時かな、なんてあまり構えずにいられるようになった。
「瀬田くん、なんか雰囲気やわらかくなったよね」
「あ、店長も思いましたそれ? 俺も、なんかいい感じに丸くなったなって思ってたんすよ。来たばっかりの頃は、ちょっとこわばってる感じだったのに」
 などと、店長と先輩バイトの(はやし)さんに言われた日もあった。二人ともやたら「彼女でしょ」「恋バナしようよ瀬田くん」と絡んでくるから、かわすのに苦労した。
 そんなふうに、せっせとバイトに励んでいた八月下旬のある日。ランチタイムの混雑が終わりつつあった午後一時半、一つのテーブルで悲鳴が上がった。
 すわトラブルか、と身構えた俺の耳に、若い女子たちの甲高い声が届く。
「ラ、ラブシデビュー発表来た!」
「ついに、ついにですよ!」
 手を取り合い、きゃあきゃあと騒ぐ彼女たちにつられたように、他のテーブルでもひそめた声が上がり始める。
「ラブシってあれか、エイティーズ事務所の」
「『Love Sick』でしょ、宮永玲央(みやながれお)がいる」
「えー、デビューしてなかったんだ」
 そんな声を聞くうちに、だんだん俺もそれを実感し始めた。空いたテーブルの片づけをしながら、声には出さずにデビュー、とつぶやく。
 ふわふわとした、くすぐったいような幸福が胸をあたためた。
 ――暁斗が、デビューするんだ。
 正直、アイドルに疎い俺はそれがどれほどすごいことなのかわからない。暁斗たちのグループはすでに有名なわけだし、CDを出そうが出すまいが変わらないのでは、なんて気持ちもある。
 それでも、俺はこのニュースをまるで自分のことのように嬉しく感じていた。暁斗はこのために、スマホを封印して大学も休んで、朝から晩までレッスン漬けでずっとがんばっていたのだろうから。
「すいませーん、お会計を」
 お客さんに呼ばれて、俺は「はい!」とあわててレジへ向かう。ニヤけそうになる頬を必死に抑えていたから、変な顔で対応してしまったかもしれない。

 五人組アイドルグループ「Love Sick」のCDデビュー決定は、連日大々的に報じられた。朝の食卓で父親が見ている情報番組でも、電車の車内モニターに映るニュースでも、動画サイトの広告でも、デビュー会見に臨むLove Sickのメンバーたちの映像が繰り返し流された。
「僕たちを信じてずっと見守ってくださったファンのみなさまには、感謝してもしきれません。こうしてCDデビューという形で恩返しができて、本当に嬉しく思います」
 緊張した面持ちで記者たちにそう語ったのは暁斗だった。そういえばリーダーなんだっけと、夕飯時の食卓で映像を見ながら思った。
 白地のスーツに金色の刺繍が施された、まるで王子様のような衣装を着た暁斗は、一瞬見とれてしまうほどかっこいい。すっかり見慣れたはずの整った顔も、テレビの向こうでは光り輝いて見える。
「ねー、お兄ちゃんの大学ってみいくん通ってるんでしょ。実物見たことある?」
 横で夕飯を食べていた真緒が無邪気に尋ねてくる。見たどころかハグもされたよ……と言ったところで信じてもらえないだろうし、俺も別に暁斗との仲をひけらかしたいわけじゃなかったので「まあ、うん」とだけ答えた。
「えー、マジ? やっぱ本物かっこいい? ラブシってみんな顔いいけど、みいくんは特にイケメンっていうか正統派美形って感じだよねー。うちの推しはレオだけど」
「……そうだな、まあ、かっこいいんじゃん? とは思う」
 口角が上がりそうになったのを、頬の内側を噛んでごまかす。暁斗が褒められていると、どうにも嬉しくなってしまっていけない。別に俺が褒められたわけじゃないのに。
「俺もがんばらないとな」
「え? 何をがんばるって?」
「なんでもない」
 そう言って、別のニュースに切り替わったテレビを見ていたのだけど。真緒が何か言いたげに俺を見ていることに気づいて、そちらに向き直った。
「あのさあ、俺の顔なんかついてる?」
「お兄ちゃんさあ、彼女できた?」
「は?」
 あまりに脈絡のない問いかけに素っ頓狂な声が出た。……そういえば、暁斗に送るメッセージスタンプを買いたくて真緒に相談した時も、同じことを聞かれたような。
「前も言ったけどできてないからな?」
「えー、ほんとに? メイク覚えて前髪も切って、って急に自分磨き始めたからさあ、絶対彼女だよなんてママと話してたのに。ねーママ?」
 向かいに座った母さんは「いいから早く食べちゃいなさい」と、そっけなく言ってスープを飲む。けれど俺たちの話の行く末に興味はあるようで、耳だけこちらに傾けている気配があった。
 ――なんなんだ、店長といい真緒といい。「変わる=彼女」の法則を俺に見出すのはなんでなんだ。それとも、そんなに俺に彼女ができてほしいのか。
「あ、彼女じゃないなら好きな人できた?」
「だからなんでだよ! いません、そんなの」
 真緒は「えー、ほんとに? あやしいなー」と唇をとがらせる。
「さっきさー、がんばらないと、って言った時の顔やばかったもん。なんていうか、幸せオーラ全開みたいな。ななちゃんが先輩に恋してた時とまったく同じ顔だったもん」
「いや、誰だよななちゃんって。だいたい、俺がさっき考えてたのって……」
 暁斗のことだよ、と言いかけてはっとした。
 ――暁斗のことを考えていただけで、そんな顔になってた?
 一瞬呆然として、いやそんなわけないだろ、と思い直す。真緒の言うことなんてあてにならない。しょせんは高校二年生、まだまだ子どもなんだから。
 そう言い聞かせたところで、テレビのニュース映像が切り替わる。これまでに報じた主要ニュースをおさらいする時間らしく、番組内のメインモニターに再びLove Sickの会見映像が映し出された。
 にこやかにあいさつする暁斗の、彫刻みたいに整った顔がアップになる。
 その瞬間、胸のあたりに違和感を覚えた。ん? と思う間もなく、違和感はドコドコと鳴る大きな鼓動に変わって、全身を駆けめぐっていく。
 ――あれ、暁斗って、こんなかっこよかったっけ?
「あっお兄ちゃん顔赤い! やっぱり恋じゃん、恋してんじゃん!」
「ちょっと真緒、食べながらしゃべらないの! ……で、夕也、ちょっとお母さんにもいろいろ聞かせてくれない?」
 妹と母の声がどこか遠い。俺は箸と茶碗を持ったまま、うるさい鼓動と火照る頬に戸惑うことしかできなかった。