そうして抱きしめ合っていた時間は、たぶん一分もなかったと思う。じりじりと夏の太陽に焼かれるうちに、限界を迎えた俺が「暁斗、暑い……」と音を上げたからだ。
はっと息を呑む音が耳元で聞こえて、次の瞬間には「うわ、ごめん!」とあわてたように暁斗が体を離した。
「ご、ごめんいきなり……なんか、気持ちが高まったらつい。俺、メンバーにもよく言われるんだよな、抱きつき魔って……」
「いや、いいよ別に。てか、ずいぶん不名誉なあだ名で呼ばれてるな」
俺も暁斗も、全身汗みずくになっていた。なんだかそれが無性におかしくて、二人で大笑いしながら校舎内のベンチに避難した。
自販機で買った水を一口飲んでから、暁斗は「ずっと連絡できてなくてごめんな」と言った。
「くわしいことは言えないんだけど、今かなりでかい仕事が大詰めっていうか。とにかくめちゃめちゃがんばらないとならない時期で。……大学もしばらく行けないんだ」
時折ペットボトルに口をつけながら、暁斗は今置かれている状況をぽつぽつと説明してくれた。
大仕事に向けて、グループ全員で朝から晩までレッスンをしていること。
空き時間も、番組収録などの個人の仕事で埋まっていること。
今回の仕事は普段よりずっと機密事項が多く、私用のスマホはマネージャーが管理していること。
今日は久しぶりの半日オフだったこと。
暁斗は少し疲れて見えたけど、「今が一番忙しいって感じ」と言った声は充実して幸せそうでもあった。もしかして、近々いよいよCDデビューということなのかもしれない。それだったら忙しさにも納得がいく。
「個人の仕事は、俺が一番少ないんだ。空き時間、レッスンルームで一人で自主練ってことも多くて。……単に俺の力不足ってことなのはわかってる。他のメンバーに比べたら個性薄いんだってことも。だけどやっぱり悔しいし情けなくてさ。俺って誰からも求められてないのかなって」
硬く、張り詰めたような声に、俺はちょっと驚いてとなりを見た。無機質な明かりに照らされた横顔は、心なしか険しい。
俺からしたら、顔がよくてメイクもできて、アイドルの仕事で稼いでいる暁斗はかっこいいし大人だなと思うけれど。そんな暁斗にも悩みはあるし、マイナスなことを思う瞬間だって数えきれないくらいあるんだろう。
そんな当たり前のことに、俺は今やっと気づいた。
「だから、夕也が今日いろいろ話してくれて……ちょっと泣きそうになったわ。俺、必要とされてるんだなーって久々に思えたっていうか。……ありがとう、本当に」
と、暁斗は笑った。険しさの余韻を残す、少し硬い笑顔だった。俺は迷った末に「あのさ」と口を開く。
「誰からも求められてないなんてこと、ないよ。暁斗、すごくメイク上手なんだし。暁斗のメイク愛、聞いてると楽しいし。『好き』ってポジティブなパワーだから、いつか絶対仕事につながると思う……」
声がだんだん尻すぼみになっていくのが、自分でもわかる。アイドルの個人仕事の事情なんて何一つ知らないのに、つい語ってしまった。
恥ずかしくて顔が熱くなってきた俺を、暁斗はしばらくあっけにとられたような顔で見ていた。
「……ごめん、知ったような口聞いて」
暁斗は「いや」と首を振る。その顔は、さっきよりずっと穏やかだった。
「夕也の言葉は、いつもうそがないな。なんていうか、クリアな感じ。すごく綺麗だ」
つぶやくようなその声に、俺はドキリとする。そんなふうに褒めてもらえるようなこと、言っただろうか。
――なんか、前もこんなふうに思った気がするな。
なんて考えている間に、暁斗は「ていうかさ」と笑って俺を見た。
「前言いそびれたけど、その前髪いいな。似合ってる」
サラリとそう言われただけで、胸の奥に明かりが灯ったような心地になる。そのことに、自分自身でも驚いた。
――だって、五十嵐、夏目、クラスの女子たちにいくら褒め言葉をもらっても、こんな気持ちになることはなかった。
暁斗は不思議だ。俺の心を、いつもたやすく動かしてしまう。
暁斗と過ごす時間は、楽しい、嬉しい、そういう感情で彩られている。それでいて、悲しさや寂しさや、恥ずかしさなんかとも無縁ではいられない。
暁斗と一緒にいると、俺の中にはこんなにたくさんの感情があったんだなあって気づかされる。傷を隠して、人の目に怯えていた頃はこんな自分を知らなかった。
――友達だから、なのかな。
ふとそんな疑問が浮かぶ。……友達だから、こんなに心がくるくると動くのだろうか。それなら五十嵐と夏目は、友達じゃないってことになってしまわないか。
――ていうか、友達ってあんなふうにハグするものなのかな。
暁斗の声と体温、抱きしめ返した背中の感触が一気によみがえってきて、ドッ! と耳の奥で鼓動が爆発する。……なんか、すごい体験をしてしまったような気がしてきた。カッカと火照る体をどうにかしたくて、麦茶が入ったペットボトルをあおる。
「夕也、どうかした?」
俺のあわあわした気配が伝わったのか、暁斗が尋ねてきた。
「いや、なんでもない……」
暁斗は「そう?」と首をかしげる。窓から差す逆光で、その顔はよく見えないけれど、声は優しい。
笑っていてくれたら嬉しい、と思うのも……友達だから、なのだろうか。
わからないけれど、今はただ、暁斗とこうして同じ時間を過ごせているだけで十分だ。
窓ガラス越しでも刺すように強い、夏の日差しの中でそう思った。
正門の前で、マネージャーの車が迎えに来るという暁斗と別れた。
「落ち着いたら連絡するから、メシでも行こう」
「うん、ありがとう。仕事がんばって」
暁斗は俺を見下ろし、「おう、がんばる」と照れくさそうに笑った。
「きっといい報告ができるから、楽しみにしてて」
「うん。楽しみにしてる」
じゃあ、と手を振り合って別れる。交差点の角を曲がる直前で、一度振り返った。暁斗はまだ同じ場所にいて、俺にもう一度手を振ってくれた。
それだけのことが、とても嬉しかった。
はっと息を呑む音が耳元で聞こえて、次の瞬間には「うわ、ごめん!」とあわてたように暁斗が体を離した。
「ご、ごめんいきなり……なんか、気持ちが高まったらつい。俺、メンバーにもよく言われるんだよな、抱きつき魔って……」
「いや、いいよ別に。てか、ずいぶん不名誉なあだ名で呼ばれてるな」
俺も暁斗も、全身汗みずくになっていた。なんだかそれが無性におかしくて、二人で大笑いしながら校舎内のベンチに避難した。
自販機で買った水を一口飲んでから、暁斗は「ずっと連絡できてなくてごめんな」と言った。
「くわしいことは言えないんだけど、今かなりでかい仕事が大詰めっていうか。とにかくめちゃめちゃがんばらないとならない時期で。……大学もしばらく行けないんだ」
時折ペットボトルに口をつけながら、暁斗は今置かれている状況をぽつぽつと説明してくれた。
大仕事に向けて、グループ全員で朝から晩までレッスンをしていること。
空き時間も、番組収録などの個人の仕事で埋まっていること。
今回の仕事は普段よりずっと機密事項が多く、私用のスマホはマネージャーが管理していること。
今日は久しぶりの半日オフだったこと。
暁斗は少し疲れて見えたけど、「今が一番忙しいって感じ」と言った声は充実して幸せそうでもあった。もしかして、近々いよいよCDデビューということなのかもしれない。それだったら忙しさにも納得がいく。
「個人の仕事は、俺が一番少ないんだ。空き時間、レッスンルームで一人で自主練ってことも多くて。……単に俺の力不足ってことなのはわかってる。他のメンバーに比べたら個性薄いんだってことも。だけどやっぱり悔しいし情けなくてさ。俺って誰からも求められてないのかなって」
硬く、張り詰めたような声に、俺はちょっと驚いてとなりを見た。無機質な明かりに照らされた横顔は、心なしか険しい。
俺からしたら、顔がよくてメイクもできて、アイドルの仕事で稼いでいる暁斗はかっこいいし大人だなと思うけれど。そんな暁斗にも悩みはあるし、マイナスなことを思う瞬間だって数えきれないくらいあるんだろう。
そんな当たり前のことに、俺は今やっと気づいた。
「だから、夕也が今日いろいろ話してくれて……ちょっと泣きそうになったわ。俺、必要とされてるんだなーって久々に思えたっていうか。……ありがとう、本当に」
と、暁斗は笑った。険しさの余韻を残す、少し硬い笑顔だった。俺は迷った末に「あのさ」と口を開く。
「誰からも求められてないなんてこと、ないよ。暁斗、すごくメイク上手なんだし。暁斗のメイク愛、聞いてると楽しいし。『好き』ってポジティブなパワーだから、いつか絶対仕事につながると思う……」
声がだんだん尻すぼみになっていくのが、自分でもわかる。アイドルの個人仕事の事情なんて何一つ知らないのに、つい語ってしまった。
恥ずかしくて顔が熱くなってきた俺を、暁斗はしばらくあっけにとられたような顔で見ていた。
「……ごめん、知ったような口聞いて」
暁斗は「いや」と首を振る。その顔は、さっきよりずっと穏やかだった。
「夕也の言葉は、いつもうそがないな。なんていうか、クリアな感じ。すごく綺麗だ」
つぶやくようなその声に、俺はドキリとする。そんなふうに褒めてもらえるようなこと、言っただろうか。
――なんか、前もこんなふうに思った気がするな。
なんて考えている間に、暁斗は「ていうかさ」と笑って俺を見た。
「前言いそびれたけど、その前髪いいな。似合ってる」
サラリとそう言われただけで、胸の奥に明かりが灯ったような心地になる。そのことに、自分自身でも驚いた。
――だって、五十嵐、夏目、クラスの女子たちにいくら褒め言葉をもらっても、こんな気持ちになることはなかった。
暁斗は不思議だ。俺の心を、いつもたやすく動かしてしまう。
暁斗と過ごす時間は、楽しい、嬉しい、そういう感情で彩られている。それでいて、悲しさや寂しさや、恥ずかしさなんかとも無縁ではいられない。
暁斗と一緒にいると、俺の中にはこんなにたくさんの感情があったんだなあって気づかされる。傷を隠して、人の目に怯えていた頃はこんな自分を知らなかった。
――友達だから、なのかな。
ふとそんな疑問が浮かぶ。……友達だから、こんなに心がくるくると動くのだろうか。それなら五十嵐と夏目は、友達じゃないってことになってしまわないか。
――ていうか、友達ってあんなふうにハグするものなのかな。
暁斗の声と体温、抱きしめ返した背中の感触が一気によみがえってきて、ドッ! と耳の奥で鼓動が爆発する。……なんか、すごい体験をしてしまったような気がしてきた。カッカと火照る体をどうにかしたくて、麦茶が入ったペットボトルをあおる。
「夕也、どうかした?」
俺のあわあわした気配が伝わったのか、暁斗が尋ねてきた。
「いや、なんでもない……」
暁斗は「そう?」と首をかしげる。窓から差す逆光で、その顔はよく見えないけれど、声は優しい。
笑っていてくれたら嬉しい、と思うのも……友達だから、なのだろうか。
わからないけれど、今はただ、暁斗とこうして同じ時間を過ごせているだけで十分だ。
窓ガラス越しでも刺すように強い、夏の日差しの中でそう思った。
正門の前で、マネージャーの車が迎えに来るという暁斗と別れた。
「落ち着いたら連絡するから、メシでも行こう」
「うん、ありがとう。仕事がんばって」
暁斗は俺を見下ろし、「おう、がんばる」と照れくさそうに笑った。
「きっといい報告ができるから、楽しみにしてて」
「うん。楽しみにしてる」
じゃあ、と手を振り合って別れる。交差点の角を曲がる直前で、一度振り返った。暁斗はまだ同じ場所にいて、俺にもう一度手を振ってくれた。
それだけのことが、とても嬉しかった。
