竹本さんの訴えにより、的場は松橋先生から「好意を持つことは止めませんが、迷惑をかけてはいけません。腕をつかんで迫るなどもってのほかです」と至極まっとうな注意を受けた。さらにその場で念書まで書かされたあと、的場は逃げるように去って行った。
「たまにいるんだよな、ああいうタイプ。なんでも自分の都合のいいように解釈して、相手のことなんかおかまいなし、っていう人間」
「竹本さん、大丈夫かな……逆恨みされたり……」
俺のつぶやきに、暁斗は「大丈夫だろ」と目を細めた。二人で校舎を出て、駅へと歩いている最中だった。暁斗はこの暑いのに、しっかりとマスクを着けたままだ。
「松橋先生、西北ではかなり重鎮だし。芸能人の学生がゼミに入っても、『学校生活はプライベートだから』って守ってくれるって評判なんだ」
「へえ、そんなにいい先生なんだ。……暁斗も今日、ゼミ説明会に?」
「いや、小沼先生に相談あって。後期の必修の出席、ちょっと危なそうでさ。レポートでなんとかならないか命乞いしに来た。なんとかなりそうで安心して帰ろうとしたら、夕也が修羅場っててびっくりしたわ」
暁斗が喉の奥で笑った気配がしたけれど、それはすぐに消えてしまう。一瞬の沈黙のあと、暁斗は足を止めて「言いたくなかったらいいけど」と切り出した。
「あいつ、夕也の友達?」
「違う」
思いのほか硬い声が出てしまい、あわてて「ごめん」と暁斗を見た。暁斗は無言で首を振る。好奇心もあわれみも浮かんでいない静かな目に、心の底からホッした。
「……小学校の同級生で、俺の傷跡をずっとからかってきたやつ。それだけだよ。まさか大学で再会するなんて思いもしなかった。またしつこく絡んでくるし」
ホッとしたら、口が驚くほどなめらかに動いた。過去を語っても、もう胸は痛まないし苦しくもない。ただの事実を説明する時と同じように平静でいられた。
「ありがとう。暁斗があんなふうに言ってくれて、すごく嬉しかった」
自然と顔がほころんで、俺は暁斗の目を見て笑った。暁斗はちょっと目を見開いて、すぐに「いや……でも」とうつむいた。……どうしたんだろう。
「……ごめんな」
「え?」
なぜ謝られるのかわからない。忘れかけていたモヤモヤした不安が、また頭をもたげる気配がした。
――暁斗、やっぱり俺のこともう嫌になった?
「いや俺、無神経なこと言っちゃったなって」
ところが暁斗の口から放たれたのは、思いもしなかった言葉だった。「……え?」と再び言ってしまった俺に、暁斗はうつむいたまま続ける。
「夕也は傷を気にしてるのに、俺はそんなの関係ないみたいな言い方して……無神経だった。メイクを覚えて、髪型も変えて……そういう夕也の努力を、ないがしろにするような言い方だった。でもあいつ、まるで夕也がメイクなしじゃ何もできないみたいな言いようだったから、腹立ってさ」
暁斗はゆっくり顔を上げて、「ごめんな」と眉を下げた。弱りきったような声と表情は、暁斗にしてはひどく珍しい。
「この前、夕也のバイト先行った時もそうだった。お客さんに人気な夕也を見てたら、なんか寂しくなっちゃってさ。……俺は、夕也がこうなる前から夕也の良さを知ってるのに、なんて。あー、かっこ悪い。本当にガキっぽいな、俺」
くしゃくしゃと髪をかき回す暁斗を、俺はぽかんと見上げるしかできなかった。そんなふうに言われるなんて、思ってもみなかったから。
『なんていうか、夕也ってもうすっかり人気者だな』
バイト先に来てくれたあの日、寂しそうに笑いながら暁斗は言った。なんでそんな顔をするんだろうって、不思議に思ったのを覚えている。
――まさかあの時、本当に寂しかったなんて。
胸の奥で、何かがぱちんとはじけた。やわらかな熱をともなって、じんわりと広がっていくそれに押し出されるようにして、口からポロッと言葉がこぼれる。
「暁斗は、俺に会うのが嫌になってない?」
「は? ……ちょ、どういう意味?」
「俺、ずっと暁斗に頼りきりで、負担かけたから……もう会ってくれないのかと思ってた。メイクの時間も終わりって言われたし」
暁斗は「え」と「へ」の間みたいな声を上げてから、
「……いや、そんなわけないだろ!」
と、キャンパス中に響くほどの大声で言った。思わず肩を跳ねさせた俺に、暁斗はまくしたてる。
「何度も言った気がするけど、全部俺がやりたくてやってるんだから! メイクも、夕也と一緒にいるのも、俺がやりたくてやってることなの! 負担なわけない! てか、好きだし! ……その、夕也と一緒に話したりすんの。だから、メイクの時間抜きでも会えたらって意味で、終わりって言ったんだよ」
ぜえぜえと肩で息をしながら、「でも、俺も言葉足らずだったな、ごめん」と額の汗をぬぐった。長身のイケメンがまくしたてる図ってけっこう迫力があるな、なんて俺は思っていたのだけど。
「……でも、五十嵐には連絡したのに俺には何もなかった」
少しの間を空けて、スルッと出てきたその言葉に俺自身も驚いた。思った以上に、その事実が胸に引っかかっていたことに今さら気づく。
暁斗はふいを突かれたように「え、航大?」とひっくり返った声を上げた。
「なんで航大の名前が出てくるんだ」
「暁斗、私用のスマホ使えないんだろ。なのに、五十嵐とは連絡取ってるみたいだから……」
説明するうちに、だんだん恥ずかしくなってきた。……だってこんなの、すごく子どもじみた嫉妬だ。暁斗はさっき自分をガキっぽいだなんて言ったけど、それは俺のほうだ。
「ああ、そういうこと」
暁斗は合点がいったというふうにうなずく。マスク越しにも、笑いをこらえるような顔をしているのがわかった。
「航大、俺んちのとなりに住んでるから。幼稚園からの幼なじみなんだ、俺たち」
「……え? あ、そういうこと!?」
今度は俺が大声を上げてしまった。近くを通り過ぎた学生が不審そうにこちらを見る。
「そりゃスマホ使えなくても連絡できるな……」
「うん。ちなみに夏目も同じで、幼なじみ兼腐れ縁。あいつんちはちょっと離れてるけど、やっぱり近所だよ」
――それで、いつも三人一緒にいたのか。
納得すると同時に、また胸の内にやわらかな熱が広がって、音もなく涙がこぼれ落ちた。暁斗が目を見開く。
「ゆ、夕也!? ごめん、なんか変なこと言った、俺?」
俺はあわてて「ち、違う」と首を振った。その間も涙ははらはらと落ちてくる。
「違うんだ……ホッとしたら、なんか……」
言葉にしてから、胸を満たす熱が安堵と喜びであることにやっと気づく。
心から安堵した時でも涙が出るなんて、俺は知らなかった。暁斗といると初めて知ることばっかりだなあなんて、どこか冷静な頭の一点で思う。
「暁斗とまだ一緒にいていいんだって思ったら、安心した。……寂しかったから、ずっと」
――そうだ、俺はずっと寂しかったんだ。
もう、暁斗と話せないかもしれないことが寂しくて。負担になっているかもしれないことが苦しかった。アイドルではない三橋暁斗の顔を、二度と見られないのかと思うと悲しかった。
「はは、こんなに泣くの、久しぶり……」
へらりと笑いながら言った言葉が途中で浮いた。
全身から力を抜くようにして、暁斗が俺に覆いかぶさってきたからだ。
一瞬、何が起きたのかわからず硬直したけれど。首筋に触れる髪のくすぐったさと、背中に回された手のひらの感触にはっとした。
――暁斗が、俺に、抱きついている。
理解した瞬間に、頭がボンッと沸騰した。
「……夕也は、俺がいなくて寂しかったって言うけど」
耳元で声がして、熱が一気にそこへ集中する。肩をすくめそうになった俺をさらに強く抱きしめて、暁斗は続けた。
「俺もさ、夕也に会えなくて寂しかったよ」
「ほ、本当に?」
「ほんとだよ。だから今日会えて、めっちゃ嬉しい」
小さな声が、鼓膜を揺らす。嬉しい、という言葉に、じんわり胸が熱くなる。
暁斗はしばらくの間、俺を抱きしめたままじっとしていた。
「あ、暁斗? 大丈夫か?」
「……ごめん、もうちょっとこのままで」
ささやく声は、なぜか泣きそうに震えている。
だから俺も、暁斗の背中に腕を回して、こわごわとその体を抱きしめ返した。そうしたいって、思ったから。
「たまにいるんだよな、ああいうタイプ。なんでも自分の都合のいいように解釈して、相手のことなんかおかまいなし、っていう人間」
「竹本さん、大丈夫かな……逆恨みされたり……」
俺のつぶやきに、暁斗は「大丈夫だろ」と目を細めた。二人で校舎を出て、駅へと歩いている最中だった。暁斗はこの暑いのに、しっかりとマスクを着けたままだ。
「松橋先生、西北ではかなり重鎮だし。芸能人の学生がゼミに入っても、『学校生活はプライベートだから』って守ってくれるって評判なんだ」
「へえ、そんなにいい先生なんだ。……暁斗も今日、ゼミ説明会に?」
「いや、小沼先生に相談あって。後期の必修の出席、ちょっと危なそうでさ。レポートでなんとかならないか命乞いしに来た。なんとかなりそうで安心して帰ろうとしたら、夕也が修羅場っててびっくりしたわ」
暁斗が喉の奥で笑った気配がしたけれど、それはすぐに消えてしまう。一瞬の沈黙のあと、暁斗は足を止めて「言いたくなかったらいいけど」と切り出した。
「あいつ、夕也の友達?」
「違う」
思いのほか硬い声が出てしまい、あわてて「ごめん」と暁斗を見た。暁斗は無言で首を振る。好奇心もあわれみも浮かんでいない静かな目に、心の底からホッした。
「……小学校の同級生で、俺の傷跡をずっとからかってきたやつ。それだけだよ。まさか大学で再会するなんて思いもしなかった。またしつこく絡んでくるし」
ホッとしたら、口が驚くほどなめらかに動いた。過去を語っても、もう胸は痛まないし苦しくもない。ただの事実を説明する時と同じように平静でいられた。
「ありがとう。暁斗があんなふうに言ってくれて、すごく嬉しかった」
自然と顔がほころんで、俺は暁斗の目を見て笑った。暁斗はちょっと目を見開いて、すぐに「いや……でも」とうつむいた。……どうしたんだろう。
「……ごめんな」
「え?」
なぜ謝られるのかわからない。忘れかけていたモヤモヤした不安が、また頭をもたげる気配がした。
――暁斗、やっぱり俺のこともう嫌になった?
「いや俺、無神経なこと言っちゃったなって」
ところが暁斗の口から放たれたのは、思いもしなかった言葉だった。「……え?」と再び言ってしまった俺に、暁斗はうつむいたまま続ける。
「夕也は傷を気にしてるのに、俺はそんなの関係ないみたいな言い方して……無神経だった。メイクを覚えて、髪型も変えて……そういう夕也の努力を、ないがしろにするような言い方だった。でもあいつ、まるで夕也がメイクなしじゃ何もできないみたいな言いようだったから、腹立ってさ」
暁斗はゆっくり顔を上げて、「ごめんな」と眉を下げた。弱りきったような声と表情は、暁斗にしてはひどく珍しい。
「この前、夕也のバイト先行った時もそうだった。お客さんに人気な夕也を見てたら、なんか寂しくなっちゃってさ。……俺は、夕也がこうなる前から夕也の良さを知ってるのに、なんて。あー、かっこ悪い。本当にガキっぽいな、俺」
くしゃくしゃと髪をかき回す暁斗を、俺はぽかんと見上げるしかできなかった。そんなふうに言われるなんて、思ってもみなかったから。
『なんていうか、夕也ってもうすっかり人気者だな』
バイト先に来てくれたあの日、寂しそうに笑いながら暁斗は言った。なんでそんな顔をするんだろうって、不思議に思ったのを覚えている。
――まさかあの時、本当に寂しかったなんて。
胸の奥で、何かがぱちんとはじけた。やわらかな熱をともなって、じんわりと広がっていくそれに押し出されるようにして、口からポロッと言葉がこぼれる。
「暁斗は、俺に会うのが嫌になってない?」
「は? ……ちょ、どういう意味?」
「俺、ずっと暁斗に頼りきりで、負担かけたから……もう会ってくれないのかと思ってた。メイクの時間も終わりって言われたし」
暁斗は「え」と「へ」の間みたいな声を上げてから、
「……いや、そんなわけないだろ!」
と、キャンパス中に響くほどの大声で言った。思わず肩を跳ねさせた俺に、暁斗はまくしたてる。
「何度も言った気がするけど、全部俺がやりたくてやってるんだから! メイクも、夕也と一緒にいるのも、俺がやりたくてやってることなの! 負担なわけない! てか、好きだし! ……その、夕也と一緒に話したりすんの。だから、メイクの時間抜きでも会えたらって意味で、終わりって言ったんだよ」
ぜえぜえと肩で息をしながら、「でも、俺も言葉足らずだったな、ごめん」と額の汗をぬぐった。長身のイケメンがまくしたてる図ってけっこう迫力があるな、なんて俺は思っていたのだけど。
「……でも、五十嵐には連絡したのに俺には何もなかった」
少しの間を空けて、スルッと出てきたその言葉に俺自身も驚いた。思った以上に、その事実が胸に引っかかっていたことに今さら気づく。
暁斗はふいを突かれたように「え、航大?」とひっくり返った声を上げた。
「なんで航大の名前が出てくるんだ」
「暁斗、私用のスマホ使えないんだろ。なのに、五十嵐とは連絡取ってるみたいだから……」
説明するうちに、だんだん恥ずかしくなってきた。……だってこんなの、すごく子どもじみた嫉妬だ。暁斗はさっき自分をガキっぽいだなんて言ったけど、それは俺のほうだ。
「ああ、そういうこと」
暁斗は合点がいったというふうにうなずく。マスク越しにも、笑いをこらえるような顔をしているのがわかった。
「航大、俺んちのとなりに住んでるから。幼稚園からの幼なじみなんだ、俺たち」
「……え? あ、そういうこと!?」
今度は俺が大声を上げてしまった。近くを通り過ぎた学生が不審そうにこちらを見る。
「そりゃスマホ使えなくても連絡できるな……」
「うん。ちなみに夏目も同じで、幼なじみ兼腐れ縁。あいつんちはちょっと離れてるけど、やっぱり近所だよ」
――それで、いつも三人一緒にいたのか。
納得すると同時に、また胸の内にやわらかな熱が広がって、音もなく涙がこぼれ落ちた。暁斗が目を見開く。
「ゆ、夕也!? ごめん、なんか変なこと言った、俺?」
俺はあわてて「ち、違う」と首を振った。その間も涙ははらはらと落ちてくる。
「違うんだ……ホッとしたら、なんか……」
言葉にしてから、胸を満たす熱が安堵と喜びであることにやっと気づく。
心から安堵した時でも涙が出るなんて、俺は知らなかった。暁斗といると初めて知ることばっかりだなあなんて、どこか冷静な頭の一点で思う。
「暁斗とまだ一緒にいていいんだって思ったら、安心した。……寂しかったから、ずっと」
――そうだ、俺はずっと寂しかったんだ。
もう、暁斗と話せないかもしれないことが寂しくて。負担になっているかもしれないことが苦しかった。アイドルではない三橋暁斗の顔を、二度と見られないのかと思うと悲しかった。
「はは、こんなに泣くの、久しぶり……」
へらりと笑いながら言った言葉が途中で浮いた。
全身から力を抜くようにして、暁斗が俺に覆いかぶさってきたからだ。
一瞬、何が起きたのかわからず硬直したけれど。首筋に触れる髪のくすぐったさと、背中に回された手のひらの感触にはっとした。
――暁斗が、俺に、抱きついている。
理解した瞬間に、頭がボンッと沸騰した。
「……夕也は、俺がいなくて寂しかったって言うけど」
耳元で声がして、熱が一気にそこへ集中する。肩をすくめそうになった俺をさらに強く抱きしめて、暁斗は続けた。
「俺もさ、夕也に会えなくて寂しかったよ」
「ほ、本当に?」
「ほんとだよ。だから今日会えて、めっちゃ嬉しい」
小さな声が、鼓膜を揺らす。嬉しい、という言葉に、じんわり胸が熱くなる。
暁斗はしばらくの間、俺を抱きしめたままじっとしていた。
「あ、暁斗? 大丈夫か?」
「……ごめん、もうちょっとこのままで」
ささやく声は、なぜか泣きそうに震えている。
だから俺も、暁斗の背中に腕を回して、こわごわとその体を抱きしめ返した。そうしたいって、思ったから。
