試験勉強とレポート準備とバイトに追われるうちに、あっというまに七月も後半になり、試験期間に突入した。日頃はモラトリアムそのもの、といったのんびりムードが漂う文学部キャンパスも、さすがにピリピリとした空気に支配される。
 必修クラスではグループワークの発表が行われた。暁斗は自分のグループの発表だけ参加すると、風のように去ってしまった。あまりにあわただしい、いっそ殺伐とさえした暁斗の雰囲気に、クラスメイト全員が気圧されているのが俺にもわかった。
 だらだらと続いた梅雨が明け、試験もレポートもすべて終わって夏休みを迎えてからも、暁斗と連絡は取れないままだ。その現実は変わらず俺の胸を苦しくしたけれど、ゼミ説明会の日が近づくにつれて、苦しさは少しずつ薄れていった。
 ――教授や先輩たちはどんな人たちなんだろう。どういう課題が出されるんだろう。
 そんな期待と緊張が入り混じったそわそわした気持ちで、当日を迎えた……のだけど。
「あの、始まる前に一個質問なんですけどー。あ、俺、二年の的場龍平(まとばりゅうへい)です」
 ゼミ説明会の序盤のことだった。あいさつを終えた松橋先生に投げかけられた、その声を聞いたとたん、金縛りに遭ったみたいに全身が硬直した。
 あまりに不躾なタイミングでの質問に、教室が少しざわつく。けれど俺の硬直の理由はそこじゃなかった。……その声と名前に、聞き覚えがあったからだ。
「えっと、的場くん。なんでしょうか」
 戸惑いを隠さず、松橋先生が応じる。
「このゼミって、ドラマ扱うのはアリっすか? 紹介文には映画を中心に、ってありましたけど、そこを分けてるのはなんでだろって思って」
 教室の後方から響く声に、耳の奥でドッ、と鼓動が大きく鳴った。見えない手で胸を思いきり押されたみたいに、息が止まる。
 ――間違いない。この声、しゃべり方。小学生の時、執拗に俺に絡んできたあいつだ。
「なんだあいつ。それを今から説明するんだろうが」
 となりに座った五十嵐が振り向いて眉をひそめる。だけど俺は同じように振り向くことができなかった。こんなところでまた会うなんてと、真っ白になった頭の隅で思う。
 ――的場だから、まとっちって呼ばれてたっけ。
 そんなどうでもいい記憶がまずよみがえった。それを皮切りに、思い出さないように封じ込めていた過去が次々とよみがえる。
(おーい、顔上げろよ。今から言うセリフ、上手にマネできたら俺たちの仲間にしてやるからさ)
(うわ、傷真っ赤になってる、グロ! てか泣くなよ。ただの遊びじゃん)
(は、何無視してんの? 女子にかばわれたからって調子乗ってんなよ)
 あの頃、的場は顔を合わせるたびに俺を罵倒してきた。当時、心臓に突き刺さるように感じた言葉たちは、今思い出しても幼稚だなあとしか感じないけれど。
 ……それでも、あの頃感じた痛みは忘れられない。痛みの名残は、今でも容易に俺を苦しめる。
「的場くん、そのあたりも交えて今から説明しますので。まずはゼミ長の柴田より、ゼミの概要を改めて――」
「……瀬田? なんか顔色悪くないか?」
 鼓動がうるさいせいだろうか。平静さを取り戻した松橋先生の声と、五十嵐の心配そうな声がやたら遠く聞こえる。俺は「大丈夫」と小声で答えるのがやっとだった。

 ゼミ生の紹介と選考課題の概要を説明し、三十分ほどで説明会は終わった。
「このあと交流会を予定してまーす。興味ある人は二時にカフェ北斗の前に集合で。途中参加も大歓迎です。私、竹本(たけもと)の名前で予約してあるので」
 帰り支度を始めた参加者たちに向けて、ピンク髪の女子の先輩が声を張り上げた。派手な髪色に負けない華やかな顔立ちに、何人かの男子が手を止めて見入っている。
「瀬田、交流会どうする? 俺、このあと別の説明会行くから無理だけど」
 五十嵐はピンク髪の先輩には目もくれずリュックを背負う。「俺も、今日は帰る」と答えると、気づかわしげに眉を寄せた。
「さっきも聞いたけど、大丈夫か? 顔色悪い、本当に」
「うん……ちょっと冷房で冷えたかも」
 なんとか笑顔を作ってごまかす。俺をさんざんからかってきた人間と再会して、トラウマがよみがえって苦しいんだ、なんて言えない。五十嵐は傷のことを知らないのだから。
 五十嵐は心配そうに「気をつけて帰れよ」と言い残して次の説明会に向かった。的場に見つかる前にと、俺もさっさと教室をあとにする。
 校舎内を歩く間も、いやな動悸は収まらなかった。空調が効いているはずなのに、汗がジワジワとにじみ出て背中を伝う。
 ――情けない。いつの話を引きずってるんだ。
 いくら自分に言い聞かせても、動悸も汗も止まらない。そのうえ頭もクラクラしてきた。すぐに帰るのは諦めて、一階ホールのベンチに腰を下ろす。いつもは人でにぎわっている場所だけど、夏休み中だからか今は無人だった。
 息を吐き、鏡でメイクを確認する。汗をかいたにもかかわらず、メイクは崩れていなかった。ホッとしたけれど、それも一瞬のことだった。
 暁斗にメイクを教えてもらえて、変われた気がしていた。五十嵐や夏目とも親しくなって、バイトを始めて、世界が広がったようにも感じていた。
 ……だけど、実際は何一つ変わってないのかもしれない。毎日人に怯えて心を閉ざしていた、少し前までのちっぽけな俺から。だって、的場の声を聞いただけでこのありさまだ。
 そんなことを思いながら、ぼんやり天井をながめていた時だった。背後のエレベーターのほうから、静寂を破る会話が聞こえてきた。
「え、絶対に彼氏いると思った。だって竹本さん、爆美女じゃないすか」
「あはは、ありがとう」
 ホールに響きわたる、媚びたような声に凍りつく。……的場だ。もう一人は、さっきのピンク髪の先輩、竹本さんらしい。
「今相手いないなら、俺にもワンチャンあったりします?」
「え、急すぎるでしょ」
「すんません、駆け引きとかできないんで俺」
 動けないでいる間にも、二人の声はどんどん近づいてくる。早くいなくなってくれという俺の願いもむなしく、二人がそう遠くない場所で立ち止まった気配があった。
「悪いんだけど、そういう話はちょっと。あ、ゼミのことで質問あるなら聞くよ」
「じゃ、ワンチャンあるかどうか教えてください」
「……えっと、そういうことじゃなくて」
 竹本さんの声に、明らかな困惑がにじむ。よくない雲行きでは、と思った瞬間「きゃっ」と小さな悲鳴が上がった。
「先輩、見た目に反して奥手? そういう感じ、正直燃えます」
「違うってば、ちょっと放して」
 とっさに振り向いた俺の目に映ったのは、引きつった顔の竹本さんと、彼女の腕をつかんだ男子の後ろ姿で。細い腕に食いこむ大きな手を見た瞬間、何かを考える前に口が勝手に動いていた。
「やめろよ」
 男子がすごい勢いで振り向く。その顔を見たとたん、ブワッと全身が総毛立つのを感じた。
 ……記憶の中の的場の顔とは、さすがに少しずつ違う。だけど、相手を底知れない悪意で威圧するその表情は、あの頃とまったく同じだった。
「あん? 何お前」
「あ、確かさっき質問来てくれた……瀬田くんだよね」
 的場がすごむのと、すがるような声で竹本さんが言うのとが同時だった。名前を呼ばれてぎくりとする。……質疑応答の時間に話しただけの相手を覚えているなんて、竹本さんは相当記憶力がいいらしい。
 現実逃避にそんなことを考えている間に、的場が目を見開き「あっ」と声を上げた。
 驚きと笑いが入り混じったようなその顔に、覚えてるはずがない、という淡い期待は打ち砕かれる。
「お前、もしかして森小の瀬田夕也!? 覚えてる? 俺、的場龍平。なんだよお前も西北だったんだ、超偶然じゃん。てか、デコの傷どうしたん? あ、もしかして整形した? 目立つ傷だったもんなあ、あれ」
 ――なんでこいつは、こんなのんきに再会喜べるんだよ。
 整形だなんだと言われた怒りより、あきれのほうが勝って何も言えなくなった。竹本さんは腕をつかまれたまま、わけがわからないという顔で俺たちを見比べている。
「……手、離せよ」
 俺の言葉に、的場は一瞬で顔をゆがめ「は?」と低くつぶやく。
「いやいや、なんなのお前。正義の味方気取ってんなよ。先輩だっていやがってないだろ。ねえ?」
 的場に迫られた竹本さんは、泣きそうな顔で震えるばかりだ。これがいやがってないように見えるなら、こいつの視力には相当な問題があるな……と、ますますあきれた。
「どう見てもいやがってるだろ」
「あーあ、冷めるわ。なんなんお前。昔っからそうだよな!」
 的場が急に大声を上げた。ホールを揺るがすようなその声に、ビクッと体が震えてしまう。的場は竹本さんの手を離すと、俺との距離を一気に詰めて続けた。
「俺たちが仲間に入れてやろうとしてんのに泣くばっかりで。いじめじゃなくて愛あるイジリだってのに。かと思えば何言っても反応しなくなってさ、バカ冷めたわあの時。弱いくせに空気読めなくて頭固くて、ちっとも変わってねーのな」
 怒りに満ちた目が俺の顔をにらむ。反論したくても、口が全然動かなかった。
 ――やっぱり俺、ちっとも変わってないのか。
 弱くて、空気が読めなくて頭が固い。人づきあいをロクにしてこなかったせいで、そんな自分に気づけずここまで来てしまった。
 ――そんなんだから、暁斗との距離感も見誤った。友達だって言ってもらえて調子に乗って、負担になるようなことばっかりしてたんだ。避けられて、嫌われて当然だ。
 ジワジワと頭の内側が熱くなっていく。恥ずかしい、情けない、悲しい――それらが全部混ざったような、そのどれでもないような感情に支配されて、何も考えられなくなってしまう。黙ったまま突っ立った俺に、的場は「あれ」と嘲笑を浮かべた。
「もしかして、夕也化粧してる? あ、それで傷隠せてんのか? はいはい、そんでチヤホヤされて調子乗って正義気取っちゃったわけか。中身は陰キャのままで、なんも変わらないのにな」
 ――そういえばこいつも、俺のこと夕也って呼んでたな。
 そんなどうでもいいことを考えていた時だったから。ふいに、的場とは違う声で「夕也」と呼ばれて、俺は幻聴を聞いたのかと思った。
 だって幻聴じゃなかったら、あまりに俺にとって都合がよすぎるから。
「夕也、その人知り合い?」
 どこかなつかしい声が、再び俺を呼んだ。……幻聴じゃない。
 振り返った的場の肩越しに、マスクを着けた背の高い影が見えた。
「暁斗……」
 なんでここにいるんだとか、今の会話聞いてたのかとか、疑問はいくつもあるはずなのに。俺はただ、暁斗の名前を呼ぶことしかできなかった。久しぶりにその姿を見たら、なぜか泣きそうになってしまったから。
「え、誰?」
 竹本さんが暁斗を見て、目をしばたたかせた。彼女の後ろに立った暁斗は、じっと的場を見ている。マスクで表情はよくわからないけど、その目はゾッとするほど冷たかった。
「何、夕也の友達? 俺たち、今取りこみ中で……」
 暁斗にずんずんと近づいていった的場の声が、途中から小さくなって消える。
 竹本さんの前にゆらりと進み出て、的場に対峙した暁斗の威圧感はすさまじかった。……ただ立っているだけなのに、なんていうかオーラがすごい。
「俺が、あなたたちを見ていたのは途中からだし、ことの全容はわからないけど。あなたが俺の、大事な友達を傷つけたことだけはわかる」
 ゆっくりと、噛んで含めるように暁斗は言う。声だけ聞くと優しいのに、目が全然笑っていないのがわかって怖かった。こんな暁斗は初めて見る。
 ――もしかして暁斗、怒ってるのか……?
「な、なんだよ。あっちが勝手に勘違いして突っかかってきたんだって。昔から空気読めないやつなんだよ。あんたもあいつの友達なら、そういうとこわかるだろ」
 的場の声に、頬がカッと熱くなる。それに反して胸の奥はスッと冷えて、恐怖がじわりとやってくる。
 ――ダメだ、暁斗が何を言うのか、怖くて仕方がない。
 迷惑をかけてしまったかもしれない。それで避けられたのかもしれない。……今までさんざん思い描いてきた「かもしれない」を、いざ暁斗の口から事実として語られたら、二度と立ち直れない気がした。
 けれど、暁斗は「は?」と低く言っただけだった。
「……どういう関係か知らないけど、あんた夕也の何見てきたわけ」
 大声を上げなくても威圧感って出せるんだと、俺は初めて知った。それほどまでに、暁斗の声は凄みがあった。
「あんたみたいに夕也のいいところを何も見ようとしない人間に、夕也のことを語られたくない。まっすぐで正直で、見て見ぬふりをしないのが夕也だ。……化粧してようとしてまいと、傷があってもなくても、それが変わるわけない」
 暁斗が一息に、そう言いきった瞬間。言いようのない感情が、わっと押し寄せて胸にあふれた。それはあっというまにすみずみまで広がって、体を震わせる。
 怖かったんじゃない。……泣きたくなるほど嬉しかった。嬉しくて体が震えるなんて、初めてのことだ。
 ――暁斗は不思議だ。俺自身ですらないがしろにしてしまっていた俺のことを、どうしてこんな、いともたやすく救ってみせるんだろう。
 暁斗に気圧されたように、的場は固まったまま何も言い返さない。そうして訪れた静寂の中、ぽかんとした顔でなりゆきを見守っていた竹本さんがふいに「あっ」と叫んだ。
「ま、松橋先生~」
 廊下の向こうから、松橋先生と数人の学生が連れ立ってやって来る。泣きそうな声を上げた竹本さんにまず目を留めてから、松橋先生は順繰りに俺たちを見回した。
「……どういう状況でしょう、これは」
 困惑した様子の松橋先生の後ろで、ゼミ生らしき学生の一人が「ギャッ、みいくん!?」と大声を上げる。それを機に学生たちが「ほんとだ、ラブシのリーダーじゃん」「てか何、修羅場?」と次々にしゃべり始めて、静かだったホールはあっというまに騒がしくなってしまった。