正反対の隣人A

十月の終わりともなると、日が沈むのが早くなる。見上げる夕焼けは赤やオレンジに染まり、秋の夕暮れらしい、柔らかな色合いと光を感じさせた。遠くに金星が見える。

平井と出会った九月はまだ暑かったのに、今の夕暮れ時は肌寒く感じるほどだ。鳴海は冬になる準備をするこの時期が好きだ。ようやく忌々しい夏が終わり、冬がやってくる。もちろん寒すぎるとは毎年思うが、暑いよりはマシだ。

鳴海は本当に寒くならないと、カーディガンもマフラーもしないのだが、対して隣の平井は、すでに薄いカーディガンを着ている。寒さに弱い平井にとって、辛い季節がそろりそろりと抜き足で近づいてきていた。
 
「まだ十月なのに、この寒さってどういうこと…?」

「最近、朝晩冷えるよな」 

「早く冬終わってほしい…」  

「まだ始まってもないのに無茶言うな」

平井は恨めしそうに鳴海を見ると、『明日、急にめちゃくちゃ暑くなればいいのに』と恐ろしいことを言うもんだから、鳴海は笑ってしまった。

駅まで徒歩十分。近くも遠くもない距離を、今日もふたりで並んで歩く。最近気づいたことだが、平井は寒いと機嫌が悪くなる。人に当たったりするわけではないが、寒さにムカついているような感じだ。寒いところにいると眉間に皺が寄るし、よく手を擦って暖をとっているところを見かける。

今も平井は『寒い寒い』と手に息を吹きかけ、暖をとっている。その時、メガネに吐息がかかり、レンズが曇った。平井がメガネを外して、いつもは隠れているあの瞳が鳴海の視界に映る。

冬の匂いがする夕方の空気は澄んでいて、アスファルトに反射する太陽の光が平井の星屑を照らす。瞬きをするたびに光る角度は変わり、一度たりとも同じ輝きはない。まるで万華鏡を覗いているようだった。

もっと見たい。もっと近くで。そう思うけれど、万華鏡にはメガネのレンズがかかり、前髪のカーテンまでついてしまった。そういえば、と鳴海は気づいた。平井のメガネしてないところ、見たことないなと。

気になったらすぐ行動できるのが鳴海の長所である。俺は今この瞬間、こいつのメガネなしが見たい。さりげなく、それとなく外すように仕向けよう。鳴海のこういう時の頭の早さは天下一品だった。

「なあ、お前、今日バスケしてたときメガネ外してただろ」

「うん」 

「メガネ外しても大丈夫なの? 見えないとかない?」

自分の欲望のためにメガネを外させるわけだが、メガネがないと生活が不便ということもあるだろう。
鳴海は目がいいため、悪い人のことを完璧には理解できないが、母親の目が悪くメガネがないとほぼ見えないと言っていたことを思い出したのだ。

もし平井がメガネを外したら何も見えない、なんてことだったら申し訳ない。いや、一瞬だしいいのか?そんなことをグルグル考えている鳴海に、平井の返答はまさしく青天霹靂だった。

「全然大丈夫だよ。これ、伊達メガネだし」 

「伊達メガネ? 目悪くないってこと?」

「めちゃくちゃ良い」

数秒前の俺の気遣う心を返してほしい。平井に文句を言いそうになったが、よく考えれば好都合だ。メガネがなくても生活に支障がないなら、こちらが気を使う必要はない。

「メガネ、外してみてよ」

"いいよ"とスッとメガネを外してくれると思っていたのに、平井は困ったように笑うだけだった。

「嫌なの?」

「嫌っていうか、まあ理由あってメガネつけてるから…」

「一瞬じゃん」

「一瞬でも嫌なの」

平井は基本優しい。何か頼んでも"いいよ"と笑って受けてくれる。そんな平井が、わざわざ伊達メガネまでしてまで外したくない理由があるのだろう。それをわざわざ深掘りして平井に嫌われたくない。鳴海の天秤は平井への友情と自分の欲望とで右へ左へと揺れている。

「理由とかって聞いてもいいやつ?」

鳴海の天秤は自分の欲望に傾いて動かなくなった。もちろん友情を捨てたわけじゃないが、あの瞳がどうしたって鳴海の心を掴んで離さない。 

平井は鳴海と一緒にいるようになって気づいたことがある。鳴海は基本優しい。意地悪な時もあるが、基本は面倒見が良く、面倒ごとを平井に押し付けたりしない。

そんな鳴海が自分に頼み事をしているのだ。平井の天秤は聞いてあげたい気持ちと、眼鏡の奥の自分とで揺れている。鳴海なら笑わずに聞いてくれるだろうか。右、左、右、左。そしてついに、平井の天秤は傾いたまま動かなくなる。

「顔が女の子みたいだってよく揶揄われて」

「うん」

「それが嫌で前髪も伸ばしてメガネもしてる」

「そっか」

話してくれてありがとうな。鳴海は平井の頭をポンポンと撫でる。それは鳴海の無意識の行動なのだが、平井の心にじんわりと温かなものが広がるのを感じた。のも、束の間。

「取りあえず一回外してみてよ」 

鳴海がメガネに手を伸ばすのを平井は必死に止める。

「俺の話聞いてた?!」

「聞いてた聞いてた」 

だったらメガネを外そうとするその手はなんなんだ。平井の天秤がまた右へ左へとゆらゆら動く。ジリジリと壁に追いやられ、逃げ場がなくなる。

「絶対揶揄わないし、可愛いって言わないから」

世の中ではそういうのを死亡フラグという。しかし、鳴海があまりにも真剣に言ってくる。平井は鳴海の顔に弱い。イケメンには誰もが弱いとは思うが、自分を見つめる瞳というのは気恥ずかしさや嬉しさやら、色んなものが混じる。そんなわけで平井の天秤は最後には鳴海に傾いてしまうのだ。

「…一回だけだよ」

平井は渋々メガネを取る。鳴海はこの時、メガネを外した平井の顔を初めて見た。前髪が風に揺れて、鳴海が見たくてたまらなかった星屑を照らす。

星屑だと思っていたそれは、黒曜石の輝きに似た黒目だった。前髪に隠された黒曜石を囲うまつ毛は一本一本が太く長い。瞬きがするたびに、まつ毛からまるで妖精の粉が舞いそうだ。鼻は筋は通っているのに、主張してこず、形がいい。鼻から人中、唇から顎のラインまで、綺麗に描かれている。唇は口角が上がっていて、真顔でも愛らしい印象を与える。ツヤツヤの髪の毛も清潔感があって、前髪さえ切れば、本当に……。  

平井はあまりにも鳴海がこちらを見て何も言わないため、不安になってきた。何か思うことがあるなら早く言ってほしい。メガネをかけたい気持ちを抑えて、鳴海の声を待つ。そして鳴海はついに口を開く。

「明日香、お前めっちゃ顔可愛いな」

…はい? 平井は聞き間違えかと思った。つい数秒前に"揶揄わないし可愛いと言わない"と宣言した男はどこへ行ったのか。

「可愛いって言わない約束だよね?!」

スチャッとメガネをかけると、もう絶対外さないとばかりにメガネから手を離さない。

「別に嫌味とかで言ってるんじゃなくて、マジで可愛いから言ってるんだけど」

鳴海は照れた顔を見せないように視線を逸らしながら言う。そんな姿を見て、平井の心はキュッとなる。しかし平井はこの胸の軋みが何かを知らなかった。

「もう絶対潤くんの前ではメガネ外さないから!」 

「ごめんってば」

ドスドスと足音が聞こえそうなほど大股で歩いていく平井を、鳴海は追いかける。追いかけながらも、鳴海の頭はさっき見た本来の平井の姿が焼きついて離れない。芸能人顔負けというか、あんなに綺麗な子は鳴海も見たことがなかった。ドキドキ、ドキドキ。心臓が大きく音を立てる。

もうすぐ駅だ。鳴海は駅の前でもう一度平井に謝った。

「可愛いって言わないって約束したのに可愛いって言ってごめん。でもマジで可愛いよ、お前。」

「潤くん!」

駅前は人通りが多い。事情を知らない通行人が『喧嘩?』『青いなあ』と小声で野次を飛ばす。平井は恥ずかしくなって、取りあえず近くの液晶看板の前まで鳴海を移動させる。

「なあ、お前のメガネ外した姿、知ってるのって俺だけ?」

ジッと見る鳴海の目は、何かを試しているような、確認したいような目つきだ。ふと昼休みのことを思い出した。森蔭の言葉。鳴海の問いかけ。

「潤くんだけだよ」  

元々誰かの前で外す予定はなかったのに、鳴海の一声で外してしまうなんて。鳴海は平井の返事を聞いて嬉しくなった。自分だけが知っている平井の本当の顔。他の奴らに見せたくないな。鳴海の心にどろりとした感情が生まれた瞬間だった。

「俺以外の前で外すなよ、メガネ」 

「潤くんの前でも外さないから安心してよ」

「なんでだよ、俺には見せろよ」

「本当意味わかんないよ、潤くん」

平井はため息を漏らすと、また『明日ね』と改札口に向かってしまった。人混みで姿が見えなくなるまで、鳴海は平井の背中を見送っていた。