次の時間は体育だ。体育館でバレーをやるのだが、こんな暑い日に室内で運動なんて、絶対にしんどい。熱中症患者が出たらどうするつもりなんだ。鳴海は憂鬱な気分で準備をしていた。

平井を学校案内して以来、移動教室や昼休み、下校の時間もふたりで過ごすようになっていた。いつもなら一緒に向かうのだが、今日は平井が担任に用事があるとかで、ついでに向かうと言っていたため、鳴海は珍しく一人だった。

そんな鳴海を見つけたのは、ひとりの人物。

「いや〜、本当によかったな潤」

後ろから肩を組んできた男に振り返ると、子供のようににこにこと笑っている。

「何がだよ」

「何がって、明日香のこと。隣の席に来てくれてよかったなって」

『前のヤツは大変だったもんな〜』と、森蔭は大げさに涙をぬぐう仕草をしてみせた。『えんえん、潤くん本当によかった』とふざけたセリフつきで。

「まあ、明日香といて楽しいのは事実だけど」

「だよな?! お前、毎日楽しそうだもん」

森蔭は『本当によかった』と何度目かの安堵の言葉を繰り返した。始業式以降、鳴海が平井と行動をともにしていることにクラスメイトたちも気づいていた。そんな様子を見て、みな密かに安心していたのだ。

たかだか隣の席に人がいないだけ。それだけなのだが、授業中にペアで行う作業は少なくない。鳴海が毎回、誰かの前の席に入れてもらうのを申し訳なく思っていることを、みんな知っていた。そして、いつもひとりで受ける授業はやっぱり寂しいだろうと。

ある日、鳴海がふと漏らした『お前は隣に人がいていいよな』という言葉。鳴海自身はすぐに『なんでもない』とごまかしたが、聞いていた森蔭や他のクラスメイトには、胸に残るものがあった。

「あと、お前さ、表情が豊かになった」

森蔭は鳴海の右頬を人差し指でつまんで、そのままぐいっと引っ張る。

「痛えよ」

「悪い悪い」

へらへらと笑いながら言うもんだから、本当に反省してんのかと内心ため息が出る。でも、悪意がないのは分かっているので、鳴海はそれ以上言わなかった。

「で、俺がいつから表情豊かになったって?」

「明日香と出会ってから」

「出会う前も今も変わらなくね?」

「いや、違うって。明日香の前ではよく笑うよ、お前」

思いがけない指摘に驚いた。そんなに人前で笑っていなかったのか、という驚きと、平井の前ではよく笑っているのか、という驚き。後者には、なんとなく心当たりがあるからこそ、少し恥ずかしい。

「なんか、幼稚園の時に戻ったみたいな?」

「それ、ギリギリアウトじゃね?」

「そうかも」

「お前なあ……」

幼い子供みたいにケラケラ笑っていたかと思えば、何かを思い出したように表情を変える森蔭のほうが、よほど表情豊かだと思う。だが今この流れでそれを言ったら、ただの悪口になりそうだったので黙っておいた。

「あと、口癖!」

「口癖?」

まったく心当たりがないので、鳴海の頭の上に疑問符が浮かぶ。

「お前の口癖って、“明日香”だよな」

「……は?」

たかだか一ヶ月ちょっと一緒にいただけで、口癖ってレベルで呼んでたか? 鳴海の心を見透かすように、森蔭は「めっちゃ呼んでるから」と追い打ちをかけてくる。

「それは今、初めて気づいた」

「マジ!? 無意識ってこと?」

「あ〜怖い怖い」と身震いして見せる森蔭に、軽くパンチを入れる。

「大袈裟だ」

「いやいや、大袈裟じゃないって〜。明日香明日香って、好きすぎだろ」

まさしく藪から棒。いや、斜め上からの見解と言うべきか。鳴海の心音が不意に跳ね上がる。

「なっ、好きとかそういうんじゃねえから」

「はいはい。一説によるとさ、人間って好意を持ってる相手とか、仲良くなりたい相手の名前をよく呼ぶんだって」

だから、お前の“仲良くなりたい”って気持ちが出てるんじゃないの?

予鈴を告げる鐘が鳴る。会話の結末は曖昧なまま、ふたりは体育館へと向かった。鳴海は、自分の口に馴染んでいた“口癖”を思い返す。人から指摘されて、平井への好意が自分の中から漏れ出していたことに気づくとは。

これは平井にも伝わっているだろうか。ほんの少しの恥ずかしさを感じてポーカーフェイスを装った鳴海だが、体育館に着いた途端、『明日香まだ来てないな』と口にしてしまい、森蔭に大笑いされるのはあと数分後のことだった。