始業式は滞りなく進み、あっという間に2回目のホームルームだ。午前中に学校が終わるということで、クラスメイトたちは浮かれている。

あちこちから終わったあとの予定が聞こえてきて、鶴見が終わりを告げると、我先にと外に出ていくクラスメイトたちを鳴海は『楽しめよ』と視線で見送る。

「潤、このあとどうする? どっか行く?」

帰り支度を終えた森蔭が鳴海に声をかけてきた。鳴海は、あー今日はちょっと、と平井を横目で見る。

「このあと平井に学校案内するから」

森蔭は意外そうな顔をしたあと、へえ、とにやりと笑う。

「潤がそんなことをねえ」

「担任に頼まれたんだよ」

「それでもだよ。じゃあ案内頑張って。平井くんもまたね」

森蔭はそう言い残して颯爽と出ていった。遠くから森蔭をカラオケに誘う声が聞こえる。時刻はまだ昼前。学生が遊ぶにはうってつけだ。鳴海も暑くなる前に帰りたいので、平井を連れてさっさと案内を終わらせたい。

「ごめんね」

唐突に平井が言う。鳴海は一瞬、面食らった。今日会ったばかりの奴に何か謝られるようなことをしただろうか。考えてみれば、先ほどの森蔭との会話だけを聞くと、鳴海が嫌々案内するように聞こえなくもない。嫌々ではない。ちょっと面倒だとは思ったが、鳴海はさっきの瞳をもう一度見れないだろうかという下心もあるのだ。

「なんで謝るの?」

「学校案内とか面倒だよね。どこか行きたいところとか、早く帰りたいとか」

ごめんね、と小さな声で謝る。やはり誤解している。

「面倒じゃないよ。誰もいない学校を歩き回れるのはなんか楽しいし、本当にこのあと特に用事もないから」

普段の生活では必要な場所には行けるが、それ以外の場所には縁がない。もしかしたら卒業するまで数えるほどしか行かない場所だってある。少しの冒険というのはいくつになっても男児の心をくすぐるものだ。

「取りあえず行こうぜ」

クーラーの効いている部屋から廊下に一歩踏み出すと、むわりとくたびれた熱風が二人にぶつかる。窓が開いているとはいえ、風がない夏の日は最悪だ。

鳴海たちの通う桜ヶ丘高校は、裏門と正門がある。駅から歩いて一番近い裏門は先生や来賓が使う用で、大きめの駐車場があり、弓道場も設置されているのが特徴的だ。

裏門を通り過ぎて約20メートルほどのところに正門があり、学生が使う用となっている。入ってすぐ右手に体育館があり、体育館は二階にあって校舎側に渡り廊下が続く。反対側には少し狭めのグラウンドと水泳場が見える。体育の時以外に鳴海が足を踏み入れたことはない。

正門側の一階は下駄箱で、奥は剣道部やフェンシング部が使う道場がある。さらに奥に進むと自転車置き場があり、人目につかないことから告白スポットとなっている。下駄箱の階段を登って体育館前に行き、渡り廊下を使って校舎に行く。

この校舎には一年から三年まで全ての学年のクラスがあり、二階から順に学年が若くなる。なので一年の頃は四階まであがるのに毎日苦労したものだ。
一階には職質室があり、一番上の階に化学室や視聴覚室などがあるが、この辺も水泳場と同じく授業以外で利用したことはない。生徒は帰宅し、教師たちは会議中。鳴海と平井以外いない静かな学校を歩く。

鳴海の軽い説明に平井は頷いたり、興味深そうに学校を見て回る。穏やかな時間だった。特に喋らなくても、九月だというのに元気な蝉の鳴き声がBGMになってくれる。プールの後に感じる塩素の匂いと、微睡んだ空気に近いと思った。

鳴海は昨年過ごしたクラスまで来ると、平井を手招いて呼んだ。

「俺、去年この席だったの」

今は平井の席になっている昔の席に座ると、うーんと伸びをする。平井は立ったままで、座ろうとしない。見かねた鳴海は自分の前の席を指さした。おずおずと座る平井を見て鳴海は言う。

「このあと予定はないし、別に早く帰らなきゃいけない理由もない。マジで」

「うん」

「だけど、これ以上暑くなる前に帰りたいよな」

太陽の光が降り注ぐ席で窓の外を見る。鳴海はここ数年、この国の季節は夏か冬の二択と言っても過言じゃないと本気で思っている。春と秋は来たと思ってもすぐに消えさる。お気持ち程度に添えられた生クリームのように。

「暑いの嫌いなの?」

初めて聞く平井の声は、縁側の風鈴を思い出す凛とした綺麗な音だった。そして、「うん」。以外の初めての言葉。なんだ、普通に会話できるじゃん。

「そう。夏生まれのくせに暑いの本当嫌い」

「俺は冬生まれだけど寒いのがダメ」

「誕生日いつ?」

「12月」

「めっちゃ冬だな」

「いつなの?」

「7月」

「めっちゃ夏だね」

夏生まれ夏嫌いの鳴海と、冬生まれ冬嫌いの平井。正反対の二人の会話を、蝉たちだけが聴いている。