正反対の隣人A

どんな人が鳴海に好かれるんだろう。平井はまた、鳴海の顔が見られなくなる。今、目を見たら泣いてしまいそうだったから。そうしたらまた、鳴海を困らせるだけだ。

それに、鳴海がモテるのはいつものことだったのに。モテ男に好かれる子ってどんな子?って、いつもみたいに冗談交じりに言えばいいだけなのに。

笑える自信がないのも、この話をこれ以上聞きたくないのも全部、平井が鳴海を好きだからだ。苦しい。

「ね、明日香。俺のこと見てよ」

鳴海が平井を呼ぶ。その声は、驚くほど優しかった。

「見たくない」

声が震えていたのを、気づかれなかっただろうか。もうあと一言二言発してしまったら、隠しきれない。

「俺は明日香の顔見たいよ」

カフェラテを包むように持っている平井の右手を、鳴海は優しく掴むと、指のあたりを左手でそっと握る。鳴海から伝わる体温が暖かい。そのぬくもりは、平井の身体や顔にまで届き、ぶわっと熱くさせた。

「明日香がこっち向くまで手離せないな」

どうする?と握った手を優しく揺さぶる。鳴海は、平井が顔を上げるまで待ってくれるだろう。とくとくと伝わる体温に、平井はもうお手上げだった。

「明日香」

絶対に顔を上げないと心に誓っても、優しく名前を呼ばれると、その誓いはろうそくの炎のように揺らいで、最後には消えてしまう。

平井はゆっくりと鳴海を見る。鳴海は目が合うと、嬉しそうに笑った。

「やっとこっち向いた」

ああ、潤くんの笑った顔が好きだな。平井は素直にそう思う。
自覚してしまった恋心は、ブレーキをどこかに置いてきてしまったようだ。止まることなく、気持ちが走り出す。

「好きだよ」

明日香のことが好き。

カフェから覗く空は、紺色の濃度をさらに深めている。
ゆったりと空に浮かぶ雲が、店内で鳴っていたはずのジャズが、カフェラテの湯気が、鳴海の声と共に止まってしまったのかと思った。

感覚としてはずっとずっと長く、でも実際には二秒にも満たない沈黙の中で、鳴海は自分の耳に届いた言葉を理解しようとしていた。

潤くんが俺を好き、だって?

「うん、好きだよ」

ハッと気づいた時にはもう遅かった。鳴海はククッと笑うと、『口に出てたよ』と平井の好きな笑顔で言う。

「俺ね、ずっと自分の気持ちが分からなかった。明日香に対する気持ちが」

一緒にいたら楽しいし、話も合う。一昨日、女子に告白されたって聞いた時、俺すごいイライラしたんだ。鳴海は、読み聞かせるような、自分自身を確認するみたいな声でゆっくりと話す。

「昨日まではそれが、ただ寂しいって意味だと思ってた。一緒にいてくれる子を取られちゃう、みたいな。でも昨日、明日香に『男と付き合っても寂しいと思えるか』って聞かれた時、俺すげえ嫌だなって思ったんだよ。寂しいじゃなくて、“嫌だ”って。ムカついた」

平井の特別な人が平井の横にいるということ。
そして平井はその人を大切にして、愛するということ。
それを考えた時、なんでその横にいる人が自分じゃないのかと思っている自分に気づいた。

平井の特別な人になりたい。平井に愛されたい。
そして、自分が平井を愛しているということに気付いた。

「今思えば、あの時のも“嫉妬”だったんだよな、女子の時も。俺の方が明日香のこと分かってるし、一緒にいるのに、ぽっと出の奴に取られたくないって。俺が一番好きなのに、って」

鳴海の告白に、平井の頭も胸もいっぱいになる。こんなにたくさんの幸せを、自分がもらってもいいのだろうか。

「好きな子に優しくしたいし、触りたくなるって本当なんだな」

鳴海は握った平井の指を、すりすりと撫でる。平井は、ようやく腑に落ちたように呟く。

「だから今日の潤くん変だったんだ…」

「変じゃなくて、明日香に優しくしたいだけです。あとは俺の気持ちが伝わってほしいなって思ってたよ」

「急に恋愛ドラマハマったのかと思ったし、寒いからくっついてくるのかと思ってた」

「お前、変なところで天然だよな」

軽く握られていただけだった平井の手を、鳴海は恋人繋ぎに変える。平井はギュッと握られた手の感覚に黙ってしまう。血液に乗って、心臓の音まで相手に届きそうだった。

「明日香は、俺のこと好き?」

鳴海の眉毛が少し垂れ、心配と不安が混ざった顔。
本当は少し、平井の答えが怖かった。

鳴海は自分の気持ちに気づいてからというもの、やけに平井が可愛く見えるし、平井が誰かと話すだけで気になってしまっていた。

鳴海なりに言葉や態度で伝えていたつもりだったが、昨日の今日だ。平井が鳴海に何かしらの気持ちを抱いていたとしたら、今さらすぎると思っていたのだ。

もちろん好意がないなら、好きになってもらうまで、とは思っていた。でも、いざ平井を目の前にすると、不器用な態度しか取れない。

こんなにも誰かのことを考えたり、行動したり、何より一緒にいたいと思うのは初めてだった。誰かを本当に好きになるとは、こういうことだったのかと、初めて知る。

「潤くんが好き」

控えめに握り返す平井の手から伝わる体温が、たまらなく愛おしかった。その温もりが、鳴海の胸をやさしく満たしていく。ずっと隣にいたい。この手を、離したくない。まるで少女漫画のワンシーンのような思いが、今の鳴海にとってすべてだった。

「俺と付き合ってください」

鳴海の真剣な眼差しに、さっきまで張りつめていたものが、そっとほどけていく。言葉より先に、熱いものが頬を伝った。 

「よろしくお願いします」

平井の声は、ほんのわずかに震えていた。それでも、はっきりと鳴海の胸に届く。

鳴海はそっと手を伸ばし、指先でその涙を拭った。
ゆらりと揺れた前髪の向こう、光を湛えた瞳がこちらを見つめている。

──この手を、絶対に離したくない。

そんな二人の祈りを、夜空に浮かぶ金星が、ただ静かに見守っていた。