それからの雄大の様子は、いつもと変わらなかった。

一ノ瀬蒼の報道を見たときの雄大の反応は気になったけど、セミナー中の雄大は起こしても起こしても、頭をぐらんぐらんさせて眠気と戦っていた。

だからか、結局、俺は雄大を起こしている記憶だけが残って、セミナーの内容は覚えていない。

それに、大学の友達が一ノ瀬蒼の話を持ち出しても、「ほんとだよなー、びっくりしたよなぁ」と呑気な返事を返していたから、俺の気にしすぎだったのかと思った。


 雄大の様子を気にしながら数日を過ごしているうちに、ゲイバーに行こうと約束している日になった。

ただ取材に行くというのは勿体ないということで、飲みに行ってからゲイバーへ向かうことにしている。

(雄大、ちゃんと準備できてっかなー)

日が暮れきらない時間から飲みに行こうと、居酒屋の開店時間である17時に間に合うように家を出た。

駅に向かうついでに雄大を迎えに行く。

「あの、すみません。水瀬雄大さんですか?」

雄大のアパートに入ろうと門のオートロックを解こうとした時だった。

背後から、薄水色の半袖のブラウスにスーツのパンツといったセミフォーマルな装いにスニーカーを履いた女性が声をかけてきた。

「え、違います……けど」

「あぁ、それはすみません」

女性は一言謝ってからペコっと頭を下げた。

「あのー、雄大に何か用ですか?」

インターホンを押して雄大に接触するでもなく、雄大の名前は知っているのに実際の雄大を知らないような女性の行動を不審に思って尋ねてみる。

「あっ、えっと、文週エンターという週刊誌で芸能記事を書かせていただいている、大野と申します」

不審な女性は大野と名乗り、名刺を手渡してきた。

(週刊誌……?なんで?)

雄大のところに突然、週刊誌の記者が訪ねて来る理由が思い浮かばない。

「あー、えっと、その大野さんは雄大に何か用です……」

「朝陽!!!」

俺が記者へ質問の言葉を言い切る前に、雄大の大きな声がアパートの門の内側から聞こえた。

普段の雄大からは想像できない大きな声に、俺は両肩がビクッと上がった。

「朝陽!」

俺の名前を呼ぶ雄大が、バタバタと焦った様子で門から出てきた。

「雄大!?」

「朝陽!行こう」

大野という記者の方を見ることもなく、俺の手首を勢いよく掴んで、駅に向かって歩きだす。

「み、水瀬雄大さんでいらっしゃいますよね?今回の一ノ瀬さんの報道を受けて、何かお話されましたか?」

(は?なんで一ノ瀬蒼……?)

週刊誌の記者が訪ねてきているだけでも混乱しているのに、そこに一ノ瀬蒼の名前が出てきて、さらに脳内の情報処理が追いつかない。

それなのに、雄大は記者からの質問を無視して、早歩きで立ち去ろうとする。

「うわっ。ゆうだっ、ちょっと待っ」

雄大に勢いよく腕を引っ張られて、転けそうになる。

「あっ、ちょっと待ってください。一言だけでもいただけませんか」

せっかくのチャンスを逃すまいと、記者も必死に雄大の歩幅に合わせて、時々小走りしながらついて来ている。

「元々、一ノ瀬さんは……お兄さんは、お家ではカミングアウトされていたのでしょうか?ほんと少しだけでも良いので、お話を聞かせていただけませんでしょうか」

記者の次々と投げかける質問を聞いて、雷をくらったかのような衝撃を受けた。

(は?一ノ瀬蒼の弟?雄大が?)

どうにか頭の中を整理しようとしているのに、記者の質問が止まらない。

「雄大さんも最近、BL小説を書いていらっしゃるみたいですが、お兄さんの影響とかもあるのでしょうか」

記者からの新たな質問を受けた瞬間、腕に痛みが走った。

「痛っ」

雄大が立ち止まり、さっきよりも強い力で俺の腕を握っている。

「雄大!痛い痛い」

雄大の短い爪が俺の腕に食い込んでしまっていた。

俺の声を聞いた雄大は、ハッとして俺の腕を離す。

「あっ、ごめん……」

雄大の申し訳なさそうな声を聞きながら、雄大に強く握られた腕を見ると、爪が食い込んだ部分から少し血が出ていた。

「あの」

さっきまで記者を視界にすら入れないような素ぶりを見せていた雄大が、真っ直ぐ大野という記者に向かって話し始めた。

「僕から一ノ瀬蒼について何かお話することはありません。それに、僕の作品についてどのような経路で知ったのかは分かりませんが、僕が今ボーイズラブを書いているのは、ここにいる友人のおかげであって、僕の性的指向から来るものではありません。こうして来られると困りますので、これ以上付いてくるというのであれば警察を呼びます。それでは」

いつもの自由で、甘えたで、柔らかい雰囲気を纏う雄大とは、別人のような冷たい声色で淡々と迷惑だと伝えた。

雄大の気迫が通じたのか、記者は「もし、何かお話してもらえるとありがたいです」と言って、名刺を渡してすぐに去っていった。

やっと記者から解放されたというのに、俺は心が締め付けられて、泣きたくなってきた。

(俺……なんか勘違いしてたのかもな……)

記者とのやり取りは、たった5分にも満たなかったが、その一瞬の出来事は俺の心をバキバキに砕けさせた。

(雄大が一ノ瀬蒼の弟だったなんて知らなかったなぁ……俺だけだったのかな、信頼されてるって思ってたの)

2人の会話で、よく一ノ瀬蒼の作品を話題にしていた分、雄大がどんな気持ちで聞いていたのかも、なぜ言ってくれなかったのかもわからない。

それに、雄大が記者に言い放った「ボーイズラブを書いているのは、僕の性的指向から来るものではない」という言葉が、俺の失恋を意味していると思った。

雄大に握られたままの手首に雄大の体温が伝わってくる。

雄大の大きな手に包まれて温かいのに、鋭い痛みがした。


 記者を追い返した雄大に俺は腕を掴まれたまま、駅の方に向かって引っ張られながら歩く。

駅に着くまで、雄大はずっと無言で俺の前を歩いていた。

俺も聞きたいことはたくさんあるはずなのに、何をどう持ち出せば良いのか分からなくて黙ってしまう。

黙って歩くと、普段よりも駅に着くまでの時間が長く感じる。

だんだんと太陽が沈み暗くなる空が今の自分を心を表しているようだ。

1歩1歩進むごとに、正解が分からなくて怖い。

駅前に近づく頃には居酒屋の提灯や看板の灯りが道を照らし始めていた。

駅に着くと、雄大が手を離してから謝ってきた。

「あ、の……腕、ごめん。大丈夫?」

雄大は気まずそうに、ゆっくりと俺の様子を伺っている。

「えっ、あぁ、うん。大丈夫」

俺は自分の腕に視線を向けて、雄大と目を合わせないまま問題ないことを伝えた。

「血……出てる」

俺の腕を見た雄大がボソリと言う。

「大丈夫、大丈夫。ちょっと爪が引っかかっただけだろうし」

「でも……」

「気にしなくていいって!!」

俺の心配をする雄大に思わず強く返事をする。

「ちょっと待ってて。近くのコンビニで絆創膏買ってくる」

そう言った雄大はキョロキョロと辺りを見回して、コンビニに向かおうとする。

「あのさ……絆創膏よりもさ、大事なこと、あるんじゃねえの?」

腕の傷には触れるのに、一ノ瀬蒼のことについて全く触れようとしない雄大にモヤっとして、自分から触れてしまった。

「え……と。……今は大丈夫……かな。朝陽の腕の傷の方が大事……」

よほど触れたくないのか、気まずそうに話を戻そうとしてくる。

「は?そんな訳ないだろ」

雄大の態度にムッときて、強めに言い返す。

「さっきの記者、お前のこと一ノ瀬蒼の弟だって言ってたじゃん」

俺の言葉を聞いた雄大は、俯いたまま黙っている。

「腕の傷のことも大事かも知んないけどさ、俺はさっき週刊誌の記者に絡まれた理由も知らないままでいろってこと?」

「いや、そういうのじゃないけど」

「じゃ何?俺たちは今から飲みに行こうって予定だけど、俺にさっきのこと何もなかったフリしてろってことかよ」

ただ本当のことが知りたいだけなのに、ショックを受けているからか、雄大の表情を無視して喧嘩口調になってくる。

徐々に荒々しい会話になってきた俺たちを通り過ぎる人たちがチラチラと見ている。

「そうじゃないけど、別に良くない?」

開き直ったのか、雄大が言い返してきた。

「良くない」

雄大は1度大きくため息をしてから、記者を追い返したときのような冷たい口調で俺に言った。

「別に、言えないことじゃないかもしんないけど、ただ言いたくないだけ。朝陽にもそういうのあるでしょ」

雄大からの、これ以上踏み込んでくるな、という明確な拒絶だった。

たしかに、俺は雄大への好意も、男が好きだということも隠し続けている。

何も、言い返せない。

「なぁ。別に……いいよ。もう言わなくて。……でも、困ったり、悩んだりしてるなら俺、聞くよ?……雄大が困ってるなら、何か力になりたいって思うよ、俺……」

勝手に涙が溢れてきた。

銭湯に行って、雄大との関係に希望を見出してしまっていた自分を殴りたい。

恥ずかしくて、悲しくて、不甲斐なかった。

涙を拭き、「もう今日は帰ろう」と雄大に言いかけた瞬間、駅前にある居酒屋の引き戸が勢いよく開いた。

「ちょっと!!さっきから、わーわーと店の前で喧嘩されると迷惑なんだけど!!」

居酒屋の中から、茶色い髪を低い位置で1つに結んでいる大きな猫目の女の人が出てきた。

「大体、一ノ瀬蒼がどうとか、こうとか言って喧嘩するなら他所で……って、君大丈夫?」

店員らしき女性の怒りの表情は、ころりと変わり、きょとんとした顔になった。

「え、なにその腕」

俺の血のついた腕を見た店員は、眉間に皺を寄せた。

「金髪の君がやったの?」

不審そうに店員は雄大を睨む。

「あ、えと……」

雄大が言葉に詰まっている。

「あの、俺が悪かっただけなので……すみません。迷惑をかけてしまって」

俺は涙を拭いて、頭を下げた。

「はぁ……。腕に血を滲ませて泣いているのに、君だけが100%悪いようには見えないけど?」

「……ぼ、僕も悪い……です。すみません」

しどろもどろになりながら、雄大が返事をする。

「……絆創膏、要る?その腕のままでいれないでしょ。それに何か理由があるなら、落ち着いて中で話したら?このまま帰っても解決しなさそうだし」

「いや、でも」

「お金はいいから!ほら!」

そう言われて、とりあえず俺と雄大は居酒屋の中に入ることにした。

開店直前である店内には、この店のオーナーであり、俺たちに声をかけた花さんと千紗と書かれたネームタグをつけた女性店員と俺たちの4人だけだった。

「はい。2人ともお茶でいいですか?」

カウンター席の内側に立つ千紗さんが、手際良く烏龍茶をジョッキグラスに注いで「どうぞ」と言って、カウンター席に座った俺たちの前に置いた。

「ありがとうございます」

お礼を言って、烏龍茶を一口飲むと花さんの声がした。

「はい、腕見せて」

小さめの救急箱を持って戻ってきた花さんが、テキパキと傷の手当てをしてくれる。

消毒液が腕にかかるとズキズキと傷に染みて、無性に泣きたくなる。

「……どうしてこんな怪我する喧嘩したの」

花さんがストレートに怪我の原因を聞いてきたが、隣に座る雄大は俯いて黙っていた。

「えっと。俺が、隣に座ってる雄大が聞かれたくないことをしつこく聞いてしまって、喧嘩になったって感じです」

雄大を指差しながら、いろいろ端折って、自分が起こした事実だけを話した。

「なるほどね。で、しつこく聞く原因になったのが、一ノ瀬蒼って感じか」

ふむ、といった表情で花さんは頷いた。

「まぁ、そんなところです……かね」

俺は、ギュッと唇を閉じる雄大を見て、どこまで打ち明けて良いかわからなくて曖昧な返事をする。

こうして、本心を打ち明けないまま花さんに話しても解決しないことぐらいは分かっている。

だけど、さっきのように雄大からの拒絶を再び経験するかもしれないと思うと、正面から話し合うのが怖い。

このピリついた雰囲気に耐えられなくて、烏龍茶をごくりと飲む。

「一ノ瀬蒼が何で喧嘩の原因なのかは分かんないけど、何となく『どうして、相手が話したくないことを話してほしかったのか』と『どうしてそこまで話したくないのか』ってところを解決しないと、ずっとこのままになりそうだけどなぁ」

大きめの絆創膏を俺の腕に貼りながら話す花さんの言葉が重く、心にのしかかる。

「よしっ、これで傷は大丈夫! まぁ、君たちより少し長く生きてる私の経験だけどさ、我慢するとか察するとかじゃなくて、お互いが納得できる問題解決の方法を探そうとするのが、結局良い関係でいられるコツだと思うよ」

花さんは雄大に向けて言ったのかもしれなかったけど、俺は自分のことを秘密したまま、雄大の秘密だけを無理に暴こうとしていたことが急に恥ずかしくなった。

きっと、何も言わないのには、雄大なりの理由があるはずだ。

どうして話してくれるまで待つとか、ゆっくり落ちついて尋ねるとかできなかったのだろう。

「あのさ。俺、雄大が誰の弟でも、これまでと変わらない関係でいたいって思ってるよ。 だから、さっきは無理に問い詰めてごめん。急に週刊誌の記者の人が来てびっくりしたっていうか……。でも、いつか雄大が話しても良いなって思える時があれば、聞かせてほしい。 なんていうか、その……雄大の存在が急に遠く感じて寂しかったというか、信頼されてなかったのかなとか思ったというか。 ただ、面白半分で聞きたかった訳じゃなくて……」

花さんの話を聞いて、少し落ち着いた今の気持ちを自分なりに言葉にして雄大に伝えてみた。

「うん……」

雄大は返事をして、「ちょっとだけ待って……」と言って、また考え込んでしまった。

開店時間になった店内には少しずつ人が増えてきて、段々と賑やかになってきた。

「すみませーん」

入り口付近に座ったお客さんが花さんを呼ぶ声がする。

「はーい」

返事をした花さんは「ちょっと、ごめんね。 これ、良かったら食べて」と言って、俺たちの前にお通しで出しているポテトサラダを置いてお客さんの方へ向かった。


 店内は楽しそうな笑い声や話し声が聞こえるのに、沈黙が続く自分たちの空気に耐えられなくて、ポテトサラダを一口食べる。

燻製のチーズとカリカリに焼いたベーコンが入った美味しそうなポテトサラダなのに、すり潰されたじゃがいもとベーコンの食感以外、感じ取れない。

雄大が「待って」と言っていたのだから、ちゃんと待とうと思って食べていると雄大が俺の名前を呼んだ。

「朝陽」

呼ばれ慣れているはずなのに、名前を聞いた瞬間、身体がこわばる。

「もうわかってると思うんだけど。僕、一ノ瀬蒼の弟だよ」

「うん」

改めて言われると、凄いなぁと思う気持ちと、やっぱりなと残念に思う正反対の感情が心の中で混ざり合った。

「何で、言いたくなかったか……というか、言わなかったのかっていうと。一ノ瀬蒼の弟だって話すと、僕を見る目が変わるんじゃないかなって思ったからで……」

自分の心の内を言葉にするのが難しいのか、丁寧に言葉を選んでいるのか、雄大の歯切れの悪さにもどかしくなる。

「兄ちゃんと僕は、同じくらいの時期に書き始めてさ。まぁ、書くって言っても、本とか、ドラマとかの続きを勝手に作ってたって感じなんだけど。 でも、兄ちゃんはいつの間にか手の届かない所まで上り詰めてしまってて。 兄ちゃんの本が出れば出る程、みんな一ノ瀬蒼っていうフィルターを通して僕を見るんだよね。どこに行っても『小説はお兄さんの影響で書いてるの?』とか『お兄さんとは普段どんな感じなの?』って、おはようと同じぐらい聞かれる。笑うでしょ?それで、徐々に僕は『水瀬蒼』じゃなくなって『一ノ瀬蒼の弟』になったんだなって。……だから、僕の書く小説は『一ノ瀬蒼の弟が書く』小説ってくらいの価値しかないんだよね」

雄大は時折ため息をつきながら話した。

「そんなこと……俺は、最初から雄大は雄大としてしかみてなかったし、雄大の作品だってお兄さん関係なく好きだよ!」

「でも、それ、出会ったときに僕が『一ノ瀬蒼の弟』だって言ってたら違ったでしょ?」

「っ、それは」

すぐに否定はできなかった。

「でも……でも、雄大はさ。お兄さんとは書いてるジャンルも全然違うじゃん。文章も全然違うし、比べようと思ったことなんかないよ」

「ありがと。 でも、比べられるんだよ。兄弟だからさ。 兄ちゃんと比べられたくなくて、恋愛小説書いても、やっぱり小説って根っこが同じだから、比較対象になって勝手に優劣を決められんの。 まぁ、僕がみんなの心をドキドキ高揚させられる恋愛を書けないのが悪いけどね」

雄大は苦笑いをしながら淡々と話している。

「単に、言いたくなかったのは『有名作家の弟』だってラベルを貼られたくなかっただけだよ。こんな僕の下手くそな小説を好きだって言ってくれた朝陽にね」

何度も何度も『有名作家の弟』という色眼鏡で見られ、比較される経験をして、辛いとか悲しいという感情に慣れてしまっているのだろうか。

どこか諦めた寂しそうな表情の雄大を見ていると、ボタボタと大粒の涙がカウンター席に落ちていた。

「ごめん。雄大。……ごめん」

「いや、朝陽が謝ることじゃないって。僕が勝手にしてたことだし。僕の方こそごめん、いろいろ巻き込んで」

雄大が生み出す主人公はどうしていつもあんなに不器用なのかとか、どうして読むと恋愛というより人間を書いてるように感じるのかとか、全てが繋がってくる。

(めっちゃ頑張ってるじゃん、いつも……何だよ、かっこよすぎかよ)

いつも自由で、飄々としてるくせに、本当は色んな葛藤と戦って、自分はここにいるとたくさんの文字を使って叫んでいたんだと思うと、雄大の代わりに俺が大きな声で泣き叫んでやりたくなる。

「お前……そんなの慣れたら……だめだろ」

止めようとと思っても、次から次へ涙が出る。

「あ、あさひっ。ちょ、っと、え……」

涙を拭うタオルも何もなくて、大きな涙の粒を流す俺を見る雄大はオロオロと狼狽える。

雄大は、着ているTシャツの袖で俺の顔を拭こうか、服の胸元を引っ張って無理やり拭こうかと慌てている。

「あ、あの……」

困った雄大が花さんに声をかけた。

「タオル、ありますか?」

花さんは俺の泣き顔を見てギョッとした。

「はい、これ、おしぼり」

温かいおしぼりを受け取った雄大が、俺の顔をゴシゴシと拭く。

「いたい、いふぁい」

雄大は人の世話なんて普段しないから、力加減がわかっていない。

俺は雄大からおしぼりを奪い取る。

「雄大くん?また、朝陽くんを泣かしてるの?」

ジロリと目を細めて、低い声を出す花さんに雄大が問い詰められた。


 「ちがうんです。俺が……俺が雄大の話を聞いて勝手に泣いただけなんです」

雄大から奪い取ったおしぼりで、涙を拭いて、花さんの方を見る。

「雄大くん、ほんと?」

花さんは再びジロッと雄大の方を見る。

「ほんとです、ほんと」

雄大は慌てて花さんに弁明し始めた。

兄が有名作家であること、一人暮らしのアパートまで週刊誌の記者が来たこと、小説を書けば兄と比較されること、みんなからは水瀬雄大ではなく一ノ瀬蒼の弟だと覚えられること……。

雄大は、花さんに自分のことを話すというより、俺が泣くに至った経緯を説明しているようだった。

「と、まぁ、僕はみんなと同じように朝陽から一ノ瀬蒼の弟って認識されるのが嫌だなぁって思ってたって感じです」

それを聞いた花さんは、大きく驚くでも、一ノ瀬蒼に興味を持つでもなく「へぇ〜」とだけ言っていた。

「それで、なんで朝陽くんの腕から血が出るぐらい握っちゃったのよ?」

花さんがカウンター席の内側で料理をしながら、さらに尋ねる。

「それは、その……えっと気がつけば握ってたというか、何というか、んー」

雄大が説明する言葉を探しているのか、斜め上を見上げながら顎に手を当てている。

「初めは、記者の人から離れるために引っ張ってたんすけど。『ボーイズラブ小説を書くのは、兄ちゃんの影響か』って言われた瞬間、それを聞いてた朝陽が遠くに行くみたいな、兄ちゃんに取られるみたいな気がして……んーなんか、心の中で焦りとか、苛立ちとか、恐怖とかが混ぜ合わさったような感覚にぶわって襲われて、絶対に離したらダメだって思っちゃって」

雄大は、ううーん、と自分の感情をうまく表現できなくてもどかしいのか、首をかしげながら花さんに話している。

(八つ当たりじゃなかったんだ……)

俺はてっきり雄大自身が記者に対して腹を立てて、その怒りをぶつけられたのかと思っていた。

「はぁ。何か最近、朝陽が絡むと判断が鈍くなるというか、ぐちゃぐちゃになるというか……朝陽が誰かと楽しそうに笑ってるのを見るだけでもモヤモヤするのに、そこに兄ちゃんの存在まで加わるとか……考えるだけでムカムカする」

そう言って、雄大はポテトサラダを一口食べた。

「……てっきり、朝陽くんが雄大くんのこと好きなんだって思ってたけど、雄大くんも朝陽くんのことかなり好きなんだね」

「えっ?」
「はい?」

俺と雄大の声が重なる。

「いやいや、どうやったらそういう話に……なぁ、朝陽」

「ぇあ、あぁ。うん……」

俺は花さんの言葉に意表をつかれて、思わず声がひっくり返った。

(ずっと、誰にもバレないように雄大への気持ちは頑張って隠していたはずなのに……待って、どうしよ)

雄大がいくらBLに偏見がないからといっても当事者になったら別問題だろう、だとか、まずは自分の恋愛対象を打ち明けてから……とか、フラれたときの対処法とか、まだまだ考えておきたいことが山ほどあったのに、こんな形で雄大に伝わるとなんて思ってもみなかった。

心の中が落ち着かなくなってきて、冷房が効いて涼しい部屋なのに顔周りが妙に熱くなってくる。

隣に座る雄大をチラッと見ると、顔どころか耳まで真っ赤になっている。

「あー、えっと。なんかごめん、2人とも。いらんことした……」

俺たちの反応を見た花さんが、気まずそうに謝ってきた。

「いや、大丈夫……っす」

雄大が返事をして、ジョッキに入った烏龍茶をゴクゴクと飲み干した。

「あの。もう1杯だけ、お茶もらっていいっすか」

「あぁ、うん。どうぞ」

「ありがとうございます。これ飲んだら帰るんで……」

「何か食べて行ったら?」

「大丈夫っす」

雄大と花さんのぎこちない会話が続く。

「何かあれば、注文してくれて大丈夫だからね」

花さんは、俺たちとの会話の間に作っていた料理をお客さんの元へ運びに行った。